Awakening of will
日常の終わりは、いつもと変わらない午後の陽だまりから始まった。
ルーシーは自宅の玄関を出て、いつものように近所の公園へと向かった。夏の終わりを告げるような、少し湿った風が顔を撫でた。アスファルトの熱が靴底から伝わってくる。彼は両手をポケットに突っ込み、ぼんやりと空を見上げた。白い雲がゆっくりと流れていく。何も特別なことはない。ただの、いつもの一日だ。
家の中から両親の話し声が聞こえた。母親が「今日の夕飯はカレーね」と言い、父親が「ああ、いいな」と答える。ルーシーは振り返らずに手を軽く上げただけだった。両親はもう玄関の方へ戻っていく。いつもの光景だ。特別に挨拶をする必要も感じなかった。
公園に着くと、すでに三人の友人が滑り台の近くで待っていた。
「おいルーシー、遅いぞ」
最初に声をかけてきたのはケンタだった。少し癖のある茶色い髪を適当に掻き上げ、いつものように口の端を上げている。隣にはユウトが座っていた。眼鏡を指で押し上げながら、手の中の木の枝を弄んでいる。そしてハルト。ハルトはすでに滑り台の上に立っていて、遠くの方を眺めていた。三人とも同じ近所に住む、子供の頃からの知り合いだ。
「今日は何して遊ぶ?」
ルーシーが近づくと、ケンタが木の枝を一本拾って放り投げた。ユウトがそれを軽く受け止める。
「棒投げでいいだろ。いつものやつ」
ハルトが滑り台から飛び降りて着地し、肩をすくめた。
「じゃあ決まりだな」
四人はすぐに円を描くように位置を取った。ルーシーは地面から適当な長さの棒を拾い上げる。樹皮が少し剥がれていて、手のひらにざらついた感触が残る。彼はそれを軽く振り、ケンタに向かって投げた。棒はくるくると回りながら空を切り、ケンタのすぐ近くに落ちる。ケンタはすぐにそれを拾い上げ、今度はユウトに投げ返した。
「遅いぞルーシー!」
ケンタが笑いながら叫ぶ。ユウトは棒を受け取り、すぐにハルトへ。ハルトは体をひねって受け止め、今度はルーシーに向かって強く投げた。棒が真っ直ぐに飛んでくる。ルーシーは一歩横に跳び、それを避けた。棒は彼の後ろの地面に転がる。
「おい、本気かよ」
ルーシーが苦笑しながら棒を拾い直す。四人の間で棒が飛び交う。時々誰かがキャッチを失敗して、そのたびに大声で笑い合う。ルーシーは滑り台の階段を駆け上がり、頂上から飛び降りた。着地の瞬間、膝に軽い衝撃が走る。砂地が靴の裏で軋む音がした。彼はすぐに体勢を立て直し、転がってきた棒を拾い上げる。
ハルトが次の棒を投げてきた。ルーシーはそれを回避し、逆にケンタの足元へ転がした。ケンタが慌てて飛び退く。ユウトが「卑怯だろ」と笑いながら叫び、すぐに別の棒を拾ってルーシーに投げ返す。ルーシーは身をひねり、棒をギリギリで避けた。風が耳の横を通り過ぎる感覚がある。
遊びに夢中になっているうちに、空の色が少しずつ変わり始めていた。オレンジがかった光が木々の葉を透かして落ちてくる。母親の声が遠くから聞こえたような気がした。夕飯の時間だ。
「じゃあな、また明日」
ルーシーは手を上げて三人に別れを告げた。ケンタが「おう」と短く答え、ユウトとハルトも軽く手を振った。いつもの別れ方だ。特別な言葉は必要ない。
家に戻ると、すでに食卓にカレーが並んでいた。両親はすでに食べ始めていて、ルーシーは黙って自分の席に座った。スプーンで米とルーを混ぜ、口に運ぶ。特に美味しいとも不味いとも思わない。ただ、日常の一部だ。父親が今日の仕事の話を始め、母親が相槌を打つ。ルーシーは時々「うん」と短く答えながら、自分の皿を空にした。
食後、彼は自分の部屋に上がった。クローゼットから服を取り出す。黒のゆったりとしたパンツと、同じく黒の無地に近いバギーシャツ。胸のあたりに小さく「SKL」の文字が入っているだけだ。彼はその服をベッドの上に置き、浴室へ向かった。
シャワーの湯を出す。最初は少しぬるめに設定し、徐々に温度を上げていく。湯気が鏡を白く曇らせる。ルーシーは服を脱ぎ、熱い水を頭から浴びた。目を閉じると、水の音だけが世界を満たす。彼はゆっくりと髪を洗い、体を流した。いつもの動作だ。時間を気にすることもなく、ただ湯に身を任せた。
気づいた時には、すでに四十四分が経っていた。彼は蛇口を閉め、体を拭く。タオルの感触が肌に残る。ベッドに置いておいた服を着た。バギーパンツのウエストを少し緩め、シャツの裾を出す。鏡に映る自分は、特に変わったところのない十七歳の少年だった。
浴室のドアを開けた。
目を一度強く閉じ、手の甲で擦る。水滴がまだまつ毛に残っていた。彼はゆっくりと目を開けた。
そこは、自分の家ではなかった。
足元は石畳だ。両側には見知らぬ建物が立ち並び、空には見慣れない色の光が漂っている。人々が行き交っている。だが、その人々の頭は人間ではなかった。虎の頭、狼の頭、鳥の頭。体は人間の形をしているのに、顔だけが獣だ。馬車が通りを行き交い、遠くでは何か大きな翼の影が空を切っていた。
ルーシーは瞬きをした。もう一度目を閉じ、強く擦る。再び開ける。景色は変わらない。石畳の感触が裸足に近い靴の底から伝わってくる。空気の匂いが違う。金属と土と、何か甘いような香りが混じっている。
「……疲れてるだけだ」
彼は小さく呟いた。自分に言い聞かせるように。家に戻ればいい。部屋に戻って寝れば、朝には元通りだ。彼は周りを見回し、とりあえず一番近くに見える路地のような場所へ足を向けた。誰かに声をかけられるのも、説明を求められるのも嫌だった。
路地に入ると、そこは意外と静かだった。壁に背を預けてしゃがみ込む。膝を抱え、額を押し付ける。心臓の音が耳の中で大きく響いている。
「……ここは、別の世界なのか?」
声に出すと、現実味が増した。否定したかったが、足元の感触も、空気の味も、目の前の光景も、すべてが「ここは日本ではない」と告げていた。
その時だった。
路地の奥から、低い笑い声と、何かが床を擦る音が聞こえた。ルーシーは顔を上げた。少し先の薄暗い場所で、三人の男が一人の少女を取り囲んでいる。少女は赤い髪をしており、背筋を伸ばして立っていた。男たちの一人が彼女の腕を掴もうとする。
ルーシーの目が、足元に落ちている何かを捉えた。短い刃物だ。誰かが落としたのか、捨てたのか。彼は迷わずそれを拾い上げた。柄の感触が手のひらに食い込む。
考えるより先に体が動いた。
彼は走り出し、一番近くにいた男の背中に刃を突き立てた。男が短い悲鳴を上げて膝をつく。血が石畳に滴る音がした。残りの二人は驚いて振り返る。その隙に、赤い髪の少女が動いた。彼女は低く踏み込み、一人の男の顔面を正確に蹴り上げた。男の体が後ろへ仰け反り、壁に叩きつけられて動かなくなる。残った一人は逃げようとしたが、少女は素早く追いすがって首筋を打ち、静かに倒した。
路地に沈黙が落ちる。
少女はゆっくりとルーシーの方を向いた。赤い髪が微かに揺れ、緑色の瞳が彼を捉える。顎の線がはっきりしていて、整った顔立ちだった。彼女は倒れた男たちを一瞥し、それからルーシーに言った。
「助けなんて、要らなかった」
声は意外と落ち着いている。感情を大きく出すタイプではないらしい。
ルーシーは刃物を下ろし、息を整えた。手に残る血の感触が生々しい。
「……見てるだけなんて、できなかった」
少女は少しだけ目を細めた。それから彼の全身を上から下まで眺める。黒のバギーパンツに、胸に小さな文字の入った黒シャツ。明らかにこの土地の人間の格好ではない。
「あんた、ここの人間じゃないな」
彼女は単刀直入に言った。
「どこから来た」
ルーシーは一瞬言葉に詰まった。それでも、嘘をつく理由もなかった。
「日本……だ」
少女の眉が、ほんのわずか寄った。
「日本? 聞いたことないな。ここはヴェミンって国だぞ」
ルーシーは息を飲んだ。頭の中が真っ白になる。彼女の言葉は、自分の推測を完全に事実へと変えた。ここは日本ではない。別の世界だ。
「……俺は、ここに来たばかりなんだ。何もわからない。誰か、助けてくれる人が必要なんだ」
彼は正直に言った。虚勢を張る余裕など、今はなかった。
少女はしばらく彼を見つめていた。赤い髪が風に少し揺れる。やがて彼女は小さく息を吐き、肩をすくめた。
「まあ、私も一人だしな。人手は欲しいところだ」
彼女は通りの方を quant と指差した。
「私はマキ。あそこの屋敷に住んでる。召使いでも、護衛でもいい。働く気があるなら連れてってやる」
ルーシーは彼女の顔を見た。緑色の瞳は、意外と真っ直ぐだった。敵意はない。ただ、必要以上に優しくもない。 aut の条件としては、十分すぎるほどだった。
「……頼む」
彼は短く答えた。
マキは軽く頷くと、倒れた男たちに一瞥もくれずに歩き出した。ルーシーは刃物をその場に置き、彼女の後を追った。石畳を踏む音が、二人の間に規則正しく響く。
通りに出ると、再び獣の頭を持つ人々の喧騒が耳に入ってきた。空には大きな翼を持つ影が一つ、ゆっくりと遠ざかっていく。マキは前を歩きながら、時々短く周囲を確認していた。ルーシーは彼女の背中を見ながら、まだ現実感の薄い足取りでついていった。
屋敷までは、それなりの距離があるらしい。道中、マキはほとんど何も喋らなかった。ルーシーも、今は質問を投げかける気力がない。ただ、目に映るものを一つ一つ確かめるように歩き続けた。
建物の壁には見慣れない紋章が彫られ、街灯のようなものが青白い光を放っている。子供たちが獣の頭のまま駆け回り、大人たちが荷物を運んでいる。どこかで金属を打つ音がして、別の場所では肉を焼く匂いが漂ってきた。
ルーシーは自分の手を見た。先ほどまで刃物を握っていた手だ。血はもう乾き始めている。十七年間生きてきた世界とは、明らかに何かが違う。ここは、意志と魂が力を持つ世界なのだと、まだ彼は知らなかった。ただ、足元の石畳の感触だけが、確かに「現実」だと告げていた。
マキがふと足を止め、振り返った。
「名前は」
「ルーシー」
「ああ、そうか」
彼女はそれだけ言って、再び歩き出した。ルーシーは彼女の後に続きながら、静かに息を吸った。空気はまだ見慣れない味がする。だが、少なくとも、一人ではなかった。
屋敷の門が見えてきたのは、それからしばらくしてのことだった。高い石壁に、黒い鉄の門。門の左右には、獣の頭を持つ衛兵のような姿が立っている。マキは彼らに軽く手を上げ、門をくぐった。ルーシーは少し遅れて後に続く。
中庭には手入れされた木々が立ち、奥に大きな屋敷が建っていた。窓からは暖かい光が漏れている。マキは振り返らずに言った。
「とりあえず中に入れ。詳しい話は後だ」
ルーシーは門の内側で一度立ち止まり、空を見上げた。星の配置が、明らかに日本のものとは違う。彼は小さく息を吐き、前を向いた。
ここが、新しい世界の始まりだった。




