表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/20

第9話「崩壊の足音と遅すぎる真実」

 灰色の空から降り注ぐのは、もはや恵みの雨ではなく、鼻をつく腐臭を孕んだ濁水だった。

 ルグラン伯爵領の広大な敷地を囲む防壁の一部が、重々しい音を立てて崩れ落ちる。

 ひび割れた石造りの壁の隙間から、黒い体毛に覆われた四足歩行の魔獣が次々と領内へなだれ込んできた。

 鋭い牙から緑色の粘液を滴らせ、血走った眼球が獲物を探してぎょろぎょろと動いている。

 見張りの騎士たちが槍を構えて応戦するものの、防壁の崩落箇所はあまりにも大きすぎた。

 甲冑がひしゃげる不快な金属音と、男たちの短い悲鳴が重なり合って空気を震わせる。

 本邸の三階にある窓からその惨状を見下ろしていたクロードは、恐怖で血の気を失った唇を強く噛み締めた。

 彼の整った顔立ちは青ざめ、額には脂汗がびっしりと浮かんでいる。

 上質な絹で仕立てられた彼のシャツは、冷や汗を吸って肌に不快に張り付いていた。


「なぜだ。どうして結界が完全に機能を停止した」


 クロードは窓枠を両手で掴み、爪が白くなるほどに力を込めた。

 ルグラン領は代々、強固な魔力結界によって魔獣の侵入を防いできたはずだった。

 その鉄壁の守りがあったからこそ、彼は領主としての才覚を疑われることなく傲慢に振る舞うことができたのだ。

 部屋の奥で、マリアンヌが甲高い悲鳴を上げてしゃがみ込む。

 彼女の華やかな桃色のドレスの裾が、床にこぼれた赤ワインの染みを吸ってどす黒く変色していた。


「クロード様、早くあの汚い獣たちを追い払って。私のドレスが汚れてしまうわ」


 領民の命が脅かされているこの状況下でも、彼女の口から出るのは己の装飾品への執着だけだった。

 クロードは苛立ちに任せて振り返り、声を荒げた。


「君の得意な炎の魔力で焼き払えばいいだろう。強力な魔力を持っていると自慢していたのは君の方だ」


「冗談じゃないわ。私の美しい炎は、あんな泥まみれの獣を焼くためのものじゃないのよ」


 マリアンヌは扇で顔を隠し、頑なに首を横に振る。

 そのとき、一階の玄関ホールから重い木扉が乱暴に開け放たれる音が響いた。

 慌ただしい足音が階段を駆け上がり、執務室の扉が勢いよく開かれる。

 そこに立っていたのは、頭髪を振り乱し、酷く泥に汚れた外套を羽織ったヴァレリア男爵だった。

 彼の顔には深い疲労と焦燥が刻まれ、かつての威厳ある姿は見る影もない。


「クロード殿、我が領地はもう限界だ。川は泥沼と化し、畑の作物はすべて腐り落ちた」


 男爵は息を切らしながら部屋に転がり込み、泥のついた靴で高価な絨毯を踏みにじった。

 むせ返るような泥と腐敗の匂いが、彼とともに室内の空気を汚染していく。


「お義父様まで何を言いに来たのですか。見ての通り、こちらの領地も魔獣の侵入で手一杯だ」


「支援の約束はどうなった。マリアンヌの魔力で我が領地を浄化してくれる手筈だっただろうが」


 男爵が血走った目でクロードに詰め寄る。

 クロードは後ずさりしながら、不快そうに舌打ちをした。


「マリアンヌの炎では浄化などできない。むしろ畑を焼き尽くすだけだ」


「なんだと。それでは我が領地はどうなる。領民たちは暴動寸前なのだぞ」


 醜い責任のなすりつけ合いが続く中、部屋の隅で静かに杖をついていた白髪の老学者が重い口を開いた。

 彼はルグラン家に代々仕える魔力研究の筆頭であり、手にはひび割れた黒い結界石の欠片を握りしめている。


「お言葉ですが、クロード様。この結界石に込められていた魔力は、マリアンヌ様の放つ炎の性質とは根本的に異なります」


 老学者のしわがれた声が、室内の喧騒をピタリと止めた。

 クロードと男爵、そしてマリアンヌの視線が一斉に老学者へと突き刺さる。


「どういう意味だ。この領地を豊かにし、結界を維持していたのはルグラン家の魔力基盤だろう」


 クロードが焦りを隠せない声で問いただす。

 老学者は首を横に振り、結界石の欠片を太陽の光にかざした。

 そこには、ごく僅かに残った淡い金色の光の粒子が、儚く明滅している。


「いいえ。この結界石を長年満たし続けていたのは、周囲の穢れを払い、大地に命を吹き込む極めて稀有な浄化の力。古い文献に記されている『星屑の魔力』と呼ばれるものです」


 その言葉を聞いた瞬間、男爵の顔からさっと血の気が引いた。

 彼の脳裏に、ある夜の光景が唐突に蘇ってきたのだ。

 枯れかけた屋敷の裏庭で、地面にひざまずき、土に両手を当てて祈るように目を閉じていた長女の姿。

 彼女の手のひらから、淡い金色の光が蛍のように舞い上がり、土へと吸い込まれていくのを偶然目撃した記憶。

 当時は、無能な娘がくだらない手品で遊んでいるだけだと一蹴し、気にも留めなかった。

 クロードもまた、息を呑んで目を見開いていた。

 彼がかつて風邪をこじらせて高熱にうなされたとき、額に冷たい手を当てて一晩中看病してくれたのはリゼットだった。

 彼女の手が触れた場所から、痛みを和らげるような柔らかな温もりが流れ込んできた感覚。

 あれはただの錯覚ではなかったのだ。


「ま、まさか。あの無能なリゼットが、この領地と我が家を支えていたというのか」


 男爵の震える声が、静まり返った部屋に落ちた。

 その事実を認めることは、自分たちが自らの手で家の繁栄の要を泥水の中に蹴り落としたと認めることと同義だった。

 クロードはよろめき、背中から壁に激突する。

 呼吸が浅くなり、胸の奥で心臓が早鐘のように打ち鳴らされる。

 自分の才覚だと思い上がっていた領地の経営も、鉄壁の防衛も、すべてはあの物静かな少女の自己犠牲の上に成り立っていただけの砂上の楼閣。

 リゼットを追放したあの日から、領地の崩壊が始まったという時間の符合が、残酷な真実を裏付けている。


「嘘よ。あの地味で暗い姉様が、私より優れた魔力を持っているなんて絶対にあり得ないわ」


 マリアンヌが金切り声を上げ、手にした扇を床に叩きつけた。

 象牙の扇の骨が折れ、乾いた音を立てて散らばる。

 彼女は髪を振り乱し、琥珀色の瞳を見開いてクロードにすがりついた。


「ねえ、クロード様。お父様の勘違いよね。あんな女、ただの役立たずだったじゃない」


「触るな」


 クロードは冷たく言い放ち、マリアンヌの腕を乱暴に振り払った。

 床に尻餅をついたマリアンヌが信じられないという顔で彼を見上げる。

 しかし、クロードの瞳にはもはや彼女の美しさに対する執着は残っていなかった。

 あるのは、取り返しのつかない過ちを犯したという凄まじい後悔と、底知れぬ恐怖だけだ。

 窓の外から、防壁を越えて街へとなだれ込む魔獣の咆哮が響き渡る。

 領民の悲鳴と、燃え上がる家屋の煙が空を黒く染め上げていく。

 それは、彼らが自ら招き入れた破滅の足音に他ならなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ