表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
10/20

第10話「うごめく愚者たちと守護者の掌」

 冷たい風が吹きすさぶルグラン領の応接室には、重苦しい沈黙が淀んでいた。

 クロードは肘掛け椅子に深く身を沈め、両手で顔を覆っている。

 向かいの長椅子には、泥まみれの外套を脱ぎ捨てたヴァレリア男爵が、焦点の定まらない目で虚空を睨みつけていた。

 リゼットが領地を支える巨大な魔力の持ち主であったという事実。

 その真実を受け入れることは、彼らの肥大化した自尊心を根底から粉砕するものだった。

 しかし、追い詰められた人間の思考は、往々にして最も都合の良い結論へと逃避する。


「リゼットは、我がヴァレリア家の血を引く長女だ。彼女の力は本来、私のために使われるべきものだ」


 男爵が血走った目で顔を上げ、低く唸るように口を開いた。

 彼の言葉には、反省や後悔の色はなく、ただ失った道具を惜しむような傲慢さだけがへばりついている。


「そうです。彼女は僕の婚約者だった。あの力は、僕の領地を守るために存在する」


 クロードもまた、顔を覆っていた手を下ろして男爵に同意した。

 マリアンヌへの婚約変更を一方的に宣言し、雨の夜に彼女を追放した事実など、彼らの都合の良い記憶からはすでに消去されている。


「しかし、どこへ行ったのだ。あんなひ弱な小娘、森の中で野垂れ死んでいるのではないか」


「先日、裏で金を掴ませた情報屋からの報告がありました。あの夜、東の森で王家紋章を掲げた黒塗りの馬車が目撃されたそうです」


 クロードの言葉に、男爵が息を呑む。

 王家の馬車がなぜあんな辺境の森にいたのかは定かではない。

 だが、もしリゼットが王家に保護されているのだとしたら、事態は少し厄介になる。


「王城の侍女としてでも雇われたというのか。あの見栄えのしない娘が」


「だとしても、彼女の身元引受人は我々です。来週の建国記念の夜会には、ルグラン家もヴァレリア家も招待状が届いている。その場で事情を説明し、身内の不始末として連れ戻せばいい」


 クロードの目には、狂気じみた光が宿っていた。

 領地は崩壊寸前だが、まだ貴族としての体裁は保っていると思い込んでいる。

 彼らは自分たちの行動が王家に対する不敬に当たる可能性など、微塵も考慮していなかった。

 リゼットは自分たちの所有物であり、命令すればいつでも足元にひれ伏す存在だという歪んだ認識から抜け出せていないのだ。


◆ ◆ ◆


 同じ頃、王都の空は抜けるような青空に恵まれていた。

 王城の奥に位置する離宮の庭園では、春の陽射しが優しく降り注いでいる。

 リゼットは白亜の東屋に置かれた藤張りの椅子に腰掛け、静かに紅茶の香気を楽しんでいた。

 彼女が身にまとっているのは、上質な絹で仕立てられた淡い若草色のドレスだ。

 袖口と襟元には繊細なレースがあしらわれ、彼女の透き通るような白い肌を美しく引き立てている。

 丁寧に手入れされた銀色の髪は、陽の光を受けて真珠のような柔らかな輝きを放っていた。

 かつての痩せこけた惨めな姿は消え去り、そこには高貴な血筋にふさわしい気品が自然と漂い始めている。

 リゼットは膝の上に置いた植物学の洋書から顔を上げ、庭園に咲き誇る花々を見つめた。

 彼女の力が開花して以来、この庭園の植物たちは信じられないほどの生命力で咲き乱れている。

 深呼吸をするたびに、胸の奥が温かな光で満たされていくのを感じた。


『こんなに穏やかな時間を過ごせる日が来るなんて』


 静かな安堵の吐息を漏らした直後、背後の芝生を踏む規則正しい足音が聞こえてきた。

 振り返るよりも早く、彼女の肩を包み込むように厚みのある外套の影が落ちる。

 微かな鉄の匂いと、爽やかな石鹸の香りが鼻腔をくすぐった。


「読書の邪魔をしてしまったか」


 レオンハルトの低く落ち着いた声が、耳元で心地よく響く。

 リゼットは慌てて立ち上がろうとしたが、彼の手がそっと彼女の肩を押さえて制止した。

 彼はリゼットの向かいの椅子に腰を下ろし、彼女の顔を愛おしげに見つめる。

 黒を基調とした王太子の軍服が、彼の鍛え抜かれた体躯に隙なく馴染んでいた。


「いいえ、ちょうど一息つこうと思っていたところです」


 リゼットが微笑むと、レオンハルトの鋭い双眸が春の雪解けのように優しく和らいだ。

 彼は手を伸ばし、リゼットの頬にかかった銀糸のような髪を指先でそっとすくい上げる。

 革手袋を外した彼の大きな手が、そのまま彼女の頬に触れた。

 彼の手のひらから伝わる力強い熱に、リゼットの心臓が胸の奥で大きな音を立てて跳ねる。

 以前なら身分違いだと怯えて逃げ出していただろう。

 しかし今は、彼のこの優しい手が自分を外の冷たい世界から守り抜いてくれているのだと、確かな信頼として受け入れることができた。

 リゼットは伏し目がちになり、彼の手のぬくもりにわずかに頬をすり寄せる。

 その無防備な仕草に、レオンハルトは小さく息を呑み、愛おしさを堪えるように目を細めた。


「来週の建国記念の夜会だが、君も私の隣で出席してほしい」


 唐突な彼の提案に、リゼットは驚いて顔を上げた。

 建国記念の夜会といえば、国中の高位貴族が一堂に会する最も重要な公式行事だ。

 そのような場所に、追放された身である自分が出席するなど到底許されることではない。


「私のような者が、殿下の隣に立つなど。皆様に笑われてしまいます」


 不安で声を震わせるリゼットの唇を、レオンハルトの人差し指がそっと塞いだ。


「誰も君を笑わせたりはしない。君は私がこの命に代えても守り抜く、最も尊い存在なのだから」


 彼の言葉には、一切の反論を許さない重みがあった。

 リゼットは彼の強い眼差しに縛られ、ただ小さくうなずくことしかできない。


 その夜、レオンハルトは自室の執務机で一通の報告書に目を通していた。

 ろうそくの火が揺れ、彼の端正な顔に濃い影を落とす。

 報告書には、ヴァレリア男爵とクロードが来週の夜会に出席し、リゼットを取り戻そうと画策していることが詳細に記されていた。

 レオンハルトの口元が、三日月のように冷酷に吊り上がる。

 彼らが自ら王都へ足を運び、多くの貴族たちの前で醜態を晒してくれるというのなら、これほど好都合な舞台はない。


「愚か者どもめ。彼女に触れるどころか、その視界に入ることすら万死に値すると教えてやろう」


 彼が紙を持つ指先に力を込めると、報告書は音もなく燃え上がり、灰となって空中に散った。

 彼が愛する少女を不当に虐げ、搾取し続けた者たちへの凄惨な断罪の準備が、静かに、そして確実に整えられつつある。

 夜の闇の中、王太子の瞳だけが冷たい怒りの炎を宿して暗く輝いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ