第11話「月夜の装いと決意の灯火」
銀色の髪を、きめ細かな毛束のブラシが滑っていく。
摩擦によって生まれる微かな熱と、百合を煮詰めた香油の甘い匂いが鼻先をくすぐった。
リゼットは鏡台の前に座り、磨き上げられた鏡面に映る自身の姿をじっと見つめている。
背後に立つ三人の侍女たちが、滑らかな手つきで彼女の髪を複雑な形へと編み上げていた。
かつては手入れもされず、枯れ草のようにパサついていた髪。
それが今は、月明かりをそのまま溶かしたような艶を帯びて光を跳ね返している。
侍女の一人が、星を模したダイヤモンドの髪飾りを編み込みの間にそっと差し込んだ。
冷たい宝石の感触が頭皮にわずかに伝わり、リゼットの背筋が自然と伸びる。
彼女が身にまとっているのは、深い夜空の色をした最高級の絹のドレスだった。
幾重にも重ねられた薄絹には、銀糸で精緻な百合の刺繍が施されている。
動くたびに布地が波打ち、まるで星々が瞬いているかのような錯覚を生み出した。
首元から胸元にかけては控えめに開いており、透き通るような白い肌を際立たせている。
虐げられていた頃の痛ましいあざや傷痕は、毎晩の温かい風呂と十分な栄養、そしてリゼット自身の魔力によってすっかり消え去っていた。
細い首や華奢な鎖骨のラインはそのままに、健康的な血色が全身を満たしている。
『これが、本当に私なのだろうか』
鏡の中の自分があまりにも現実離れしていて、リゼットは小さく息を吐き出した。
かすかな吐息の音を聞き取ったのか、部屋の重厚な木扉が静かに開かれる。
大理石の床を踏みしめる規則正しい足音が、彼女の背後へとまっすぐに近づいてきた。
鏡越しに視線を上げると、漆黒の夜会服に身を包んだレオンハルトが立っている。
無駄な装飾を削ぎ落とした軍服調のデザインが、彼のがっしりとした肩幅と引き締まった長身を強調していた。
胸元にはアークス王家の紋章が銀色に輝き、冷ややかな美貌に深い陰影を落としている。
彼の足取りが、リゼットの数歩手前でぴたりと止まった。
鋭い双眸がわずかに見開かれ、呼吸の動きすら一瞬だけ停止したのが鏡越しに伝わってくる。
侍女たちが音もなく壁際へ退き、深く頭を下げて部屋から退出していった。
静寂が満ちた部屋の中で、衣擦れの音だけが微かに響く。
レオンハルトはゆっくりと歩み寄り、リゼットの背後に立った。
「あまりの美しさに、言葉を失ってしまった」
彼の低い声が、わずかな熱を帯びて耳元を撫でる。
リゼットの頬がカッと熱くなり、視線を鏡から手元の膝へと落とした。
「殿下があつらえてくださったドレスが、素晴らしいからです。私には、もったいないほどで」
「いや。君自身の持つ光が、どのような宝石よりも輝いている」
レオンハルトの大きな手が伸び、彼女の白く細い首筋にそっと触れた。
彼の手のひらから伝わる力強い体温に、リゼットの肩がわずかに跳ねる。
彼は上着の懐から、黒いベルベットの小箱を取り出した。
蓋が開かれると、中には大粒の青い宝石をあしらった銀の首飾りが収められている。
澄み切った湖面のようなその青色は、レオンハルトの瞳の色とまったく同じだった。
彼の手によって、冷たい銀の鎖がリゼットの首にかけられる。
うなじの皮膚に彼の指先がかすかに触れ、心臓の鼓動が急激に早鐘を打ち始めた。
鎖を留め終えたレオンハルトは、彼女の華奢な肩に両手を置き、鏡越しに真っ直ぐと視線を絡ませる。
「リゼット、聞いてほしい。今夜の夜会に、ヴァレリア男爵とルグラン伯爵令息が姿を現すはずだ」
その言葉を聞いた瞬間、リゼットの指先が氷のように冷たくなる。
呼吸が浅くなり、胸の奥底に沈めていた泥の匂いと冷たい雨の記憶が鮮烈によみがえった。
彼らがどれほど残酷に自分を切り捨てたか。
無能だと罵り、冷たい森の奥へと追い落としたか。
恐怖で小刻みに震え始めた彼女の肩を、レオンハルトの手が力強く、しかし優しく包み込んだ。
彼の手のひらから伝わる熱が、恐怖で凍りつきそうになるリゼットの心を強引に現実へと引き戻す。
「恐れることはない。彼らの領地は今、君の加護を失ったことで崩壊の危機に瀕している。彼らは君を連れ戻すために、なりふり構わず王都へやってきた」
「私を、連れ戻す」
乾いた声が唇からこぼれ落ちる。
自分が『星屑の魔力』の持ち主であることは、すでにレオンハルトから聞かされていた。
実家の枯れかけた畑も、婚約者の領地の結界も、すべて自分が維持していたのだという真実。
彼らはその力を惜しんで、再び自分を都合の良い道具として手元に置こうとしているのだ。
「私が隣にいる。君の視界を汚す虫けらどもは、すべて私が叩き潰す。君はただ、顔を上げて前だけを見ていればいい」
レオンハルトの言葉には、戦場を支配する冷酷な戦神としての重みと、彼女を守り抜くという強烈な意志が込められていた。
リゼットはゆっくりと深呼吸を繰り返し、肺に新しい空気を満たす。
鏡の中の自分は、もう雨に打たれて泣き濡れていた惨めな少女ではない。
王太子の庇護を受け、自分自身の足で立とうとしている一人の女性だ。
リゼットは自身の肩に置かれた彼の手の上に、レースの手袋に包まれた自分の手を重ねた。
「大丈夫です。殿下がいてくださるなら、私はもう、何も怖くありません」
彼女の決意を秘めた言葉に、レオンハルトは満足げに目を細めた。
彼はリゼットの手を引き、椅子から静かに立ち上がらせる。
二人は互いの体温を確かめ合うように腕を組み、絢爛なる夜会の舞台へと歩みを進めた。




