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第8話「崩れゆく虚飾と王太子の微笑」

 ルグラン伯爵領の中心にそびえる豪華な館。

 その最上階にある執務室で、クロードは机上の羊皮紙を険しい顔で睨みつけていた。

 彼の指先は苛立ちに任せて銀の羽ペンを強く握りしめ、羽の根元が折れ曲がっている。

 目の前に立つ騎士団の隊長は、額に脂汗を浮かべながら視線を泳がせていた。


「東の森の結界が、また破られたというのか」


 クロードの低く抑えた声が、張り詰めた室内の空気を震わせる。


「は、はい。結界石の光が急激に弱まり、低級の魔獣が三体ほど領内の村に侵入しました。幸い死者は出ませんでしたが、家屋の被害と村人の負傷が」


「言い訳は聞きたくない。我がルグラン領の防衛網は完璧なはずだ。貴様らが怠けて見回りを怠ったからだろう」


 クロードは羊皮紙を丸め、騎士隊長の胸ぐらに向けて投げつけた。

 羊皮紙は空しく床に転がり、重苦しい沈黙が落ちる。

 彼は椅子から立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。

 眼下には豊かだったはずの街並みが広がっているが、今は行き交う人々の顔に濃い疲労と不安の色が張り付いている。

 数日前から、領地を守る四方の結界が次々と不具合を起こし始めていた。

 魔獣の侵入を防ぎ、気候を安定させていた強力な魔力場が、まるで底の抜けた水桶のように力を失っていく。

 クロードは窓枠を強く殴りつけた。

 高価な指輪が木枠に食い込み、鈍い痛みが指を走る。


「マリアンヌの魔力があれば、結界などすぐに修復できるはずだ。あの女は一体何をしている」


 不快そうに舌打ちをしたそのとき、扉の外から軽い足音が近づいてきた。

 ノックもなしに扉が開かれ、マリアンヌが不満げな顔で姿を現す。

 彼女は手にした扇をぱたぱたと忙しなく動かしながら、クロードの元へと歩み寄った。


「クロード様、ひどいわ。私の実家の領地が泥水だらけで大変なのに、どうして助けに来てくださらないの」


「マリアンヌ、ちょうどいいところに来た。東の結界石が弱っている。君の魔力で今すぐ光を補充してくれ」


 クロードは彼女の言葉を遮り、焦るように細い肩を掴んだ。

 しかし、マリアンヌは目を丸くして彼の腕を振り払う。


「結界石の補充ですって。そんな地味で泥臭い作業、私がやるわけないでしょう。それに、私の魔力はそんなことに使うためにあるんじゃないわ」


 彼女の冷ややかな言葉に、クロードの顔からすっと血の気が引いた。

 マリアンヌの魔力は、派手な炎を生み出すことには長けているが、持続的な結界の維持や浄化の性質は一切持っていない。

 彼が真に必要としていた、領地を陰から支える静かで広大な魔力。

 それが誰のものだったのか、クロードの脳裏に泥まみれで追い出したリゼットの後ろ姿がよぎる。

 だが、彼はすぐに首を振ってその思考を掻き消した。


『あの無能な女が、この完璧な僕の領地を支えていたなどあり得ない』


 意地とプライドが真実から目を背けさせる。

 クロードはマリアンヌに背を向け、深く息を吐き出して怒りを飲み込んだ。


◆ ◆ ◆


 同じ日の夕刻。

 王城のレオンハルトの私室には、優雅な紅茶の香りが漂っていた。

 黒檀の机の向こう側で、漆黒の外套を着た隠密が片膝をついて報告を終えたところだった。


「ヴァレリア男爵領は土壌が完全に腐敗し、作物は全滅。ルグラン伯爵領は結界の崩壊により、魔獣の侵入が相次いでおります」


 隠密の報告を聞き、レオンハルトの口元に氷のように冷たい微笑が浮かんだ。

 彼は机上の書類に目を通したまま、視線を上げることなく短く命じる。


「ご苦労。他家からの支援要請があった場合、我が派閥の貴族には一切の関与を禁じろ。自らの手で恩人を切り捨てた愚か者たちが、どこまで堕ちるか見物だな」


 残酷なまでの冷徹さが、室内の空気を一瞬にして凍りつかせた。

 隠密が音もなく姿を消すと同時に、部屋の奥の扉が控えめにノックされる。

 レオンハルトが声をかけると、純白のエプロンドレスに身を包んだリゼットが、銀の盆を手に入ってきた。

 先ほどまでの冷たい気配は嘘のように消え去り、レオンハルトの表情は春の陽射しのように柔らかくほどける。

 リゼットは彼の机の端に、白い湯気を立てる陶器のカップをそっと置いた。

 柑橘系の爽やかな香りが、部屋の空気を優しく包み込む。


「少し休まれてはいかがですか、殿下。難しい顔をされていましたから」


 リゼットが盆を胸に抱きながら、小首を傾げて彼を見つめる。

 その瞳には、彼に向けた深い信頼と穏やかな親愛の情がはっきりと宿っていた。

 レオンハルトはカップの取っ手に指をかけ、温かな紅茶を一口含む。


「君が淹れてくれる茶は、城のどの職人が淹れるものより格別だ。疲れなど吹き飛んでしまう」


「大げさですわ」


 リゼットはくすくすと笑い、目尻を下げる。

 彼女の笑顔は、かつての暗い影を感じさせないほど明るく、清らかに澄んでいた。

 遠く離れた地で家族と元婚約者が泥にまみれて絶望していることなど、彼女は知る由もない。

 レオンハルトはカップを置き、彼女の小さな手をとって自らの頬にそっと寄せた。


「君はずっと、この安全な場所で笑っていればいい。外の冷たい風は、私がすべて遮ってみせる」


 その低く甘い誓いの言葉に、リゼットは安心したように目を閉じ、彼の手のひらに自身の温もりを委ねた。

 窓の外では、夕日が王都を赤く染め上げ、夜の帳が静かに下りようとしていた。

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