第7話「淀む水源と紡がれる光」
王城の奥深くに設えられた大図書室には、静寂とインクの古い匂いが満ちていた。
天井まで届く巨大な本棚が幾列も並び、背表紙の金箔が窓からの光を受けて微かに瞬いている。
リゼットは長椅子に深く腰掛け、膝の上に広げた分厚い植物図鑑を見つめていた。
ページに挟まれていたのは、すっかり色褪せて乾燥した一輪の押し花だ。
彼女は図鑑を閉じ、薄く脆くなった花びらに右手の指先をそっと近づける。
自分の内側にある熱の出処を探るように、ゆっくりと深く息を吸い込んだ。
胸の奥底で小さな火種が灯り、それが血液とともに腕を伝って指先へと集まっていく感覚がある。
目を閉じると、暗闇の中に淡い金色の光の粒が浮かび上がるのが見えた。
『少しずつ、そっと押し出すように』
レオンハルトから教わった言葉を胸の中で反芻する。
指先からこぼれ落ちた微かな光が、押し花をふんわりと包み込んだ。
乾ききっていた植物の繊維が光を吸い込み、失われた水分を急速に取り戻していく。
茶色く変色していた花びらが、鮮やかな瑠璃色へと染め直されていく。
わずかな時間で、押し花は今朝摘み取られたばかりのようなみずみずしい姿へと蘇った。
リゼットがほうと安堵の息を吐き出すと、背後から静かな足音が近づいてきた。
「見事な制御だ。力に振り回されることなく、必要な分だけを引き出せている」
振り返ると、レオンハルトが満足げな眼差しで彼女を見下ろしていた。
彼はリゼットの隣に腰を下ろし、瑠璃色の花をそっと指でつまみ上げる。
花びらから滴る小さな水滴が、彼の手袋の革に染みを作った。
「殿下のおかげです。私一人では、この力が何なのかすら理解できないままでしたから」
リゼットは控えめに微笑み、膝の上で両手を組み合わせた。
自分の手が、誰かの命を繋ぎ、植物を癒すことができる尊いものだと知った。
その事実が、長年虐げられて凍りついていた彼女の心に、確かな自己肯定感をもたらしていた。
レオンハルトは花を卓の上に置き、リゼットの頭に大きな手を乗せる。
彼の指先が銀色の髪を優しく梳き、頭皮に心地よい温もりが伝わってきた。
「君が本来持っていた才能が花開いただけのことだ。私はその手伝いをしたに過ぎない」
彼の低い声が耳元をくすぐり、リゼットの頬にわずかな朱が差す。
二人の間に流れる空気は、春の陽だまりのように穏やかで温かかった。
◆ ◆ ◆
同じ頃、ヴァレリア男爵領の空は分厚い灰色の雲に覆われていた。
領主の館の執務室では、重苦しい空気が室内の隅々にまで立ち込めている。
壁に飾られた絵画は傾き、床の絨毯には泥の足跡が無数に残されていた。
「どういうことだ。領地の井戸水がすべて泥水に変わっただと」
ヴァレリア男爵が、怒りで顔を赤黒く染め上げながら机を拳で叩きつけた。
鈍い音が響き、インク壺が跳ねて羊皮紙に黒い染みを作る。
彼の目の前には、泥まみれの衣服を着た領地の管理人が青ざめた顔で震えていた。
「は、はい。水源となっている北の湖が、三日前から急激に濁り始めまして。今ではひどい悪臭を放ち、魚もすべて腹を向けて浮いております」
管理人の報告に、男爵は苛立たしげに自身の頭髪をかきむしった。
窓の外を見下ろせば、かつて豊かな実りをもたらしていた小麦畑が一面に広がっている。
しかし、その穂先は不気味な黒色に変色し、重力に負けて力なく折れ曲がっていた。
土からは湿った腐敗臭が漂い、風に乗って館の中まで入り込んでくる。
「畑の作物が枯れ始めているのも、その汚水が原因か。お前たちは一体何を管理していたのだ」
「申し訳ございません。しかし、天候に異常はなく、魔獣の被害でもありません。ただ突然、大地から力が抜け落ちたかのように」
管理人が言い訳を連ねる中、執務室の扉が乱暴な音を立てて開け放たれた。
そこには、たっぷりとフリルがあしらわれた桃色のドレスを着たマリアンヌが立っている。
彼女の美しい顔は、不快感に歪みきっていた。
「お父様。侍女たちが用意したお風呂のお湯が、ひどい泥臭さなの。こんなお湯に入ったら、私のすべすべの肌が荒れてしまうわ」
彼女はハンカチで鼻を覆いながら、つかつかと机に歩み寄る。
男爵は頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
「今、領地の水源に問題が起きているのだ。少しの間我慢しなさい」
「我慢なんてできないわ。明日にはクロード様との夜会があるのに、こんな泥の匂いをまとって行くなんて絶対に嫌よ」
マリアンヌは床を踏み鳴らし、甲高い声で不満を撒き散らす。
彼女の琥珀色の瞳には、領民の苦しみや領地の危機に対する懸念は微塵も存在しなかった。
あるのはただ、自分の美しさが損なわれることへの怒りだけだ。
「ええい、うるさい。誰か、隣領から清浄な水を買ってこい。金はいくらかかっても構わん」
男爵の怒声が部屋に響き渡り、管理人は逃げるように執務室を飛び出していった。
リゼットを追放してからというもの、領地の環境は目に見えて悪化の一途をたどっている。
しかし、男爵もマリアンヌも、その原因が家から追い出した無能な娘の不在にあるとは夢にも思っていなかった。
彼らの目に映っていたのは、リゼットの価値ではなく、自分たちの傲慢な虚栄心だけだったからだ。
腐敗臭を孕んだ風が、開け放たれた窓から再び執務室へと吹き込んだ。




