第6話「陽光の温室と息吹く命」
城で保護されてから数日が過ぎた。
質の高い食事と十分な睡眠、そして何より誰からも虐げられない静かな環境が、リゼットの体を劇的に回復させていた。
擦り傷は目立たないほどに治りかけ、落ち窪んでいた頬にも自然な血色が戻りつつある。
ある晴れた日の午後、レオンハルトがリゼットの部屋を訪れた。
彼はいつもの執務用の衣服ではなく、少し装飾を抑えた動きやすい乗馬服のような装いだった。
「少し外の空気を吸いに行こう。ずっと部屋の中にいては、気が塞いでしまうだろう」
その提案に、リゼットはわずかに目を丸くした。
外に出るということは、王城の中を歩き、他の貴族や使用人の目に触れるということだ。
怯えの表情を浮かべた彼女の心を読み取ったように、レオンハルトは穏やかに微笑んだ。
「心配はいらない。離宮の奥にある私設の温室だ。私の許可なく誰も立ち入ることはできない」
彼はそう言って、リゼットの前に右腕を差し出した。
少しのためらいの後、リゼットは震える手で彼の腕にそっと指先を乗せる。
布越しに伝わる彼のがっしりとした筋肉の硬さと体温に、自然と背筋が伸びた。
歩幅を彼女の遅い歩みに合わせながら、レオンハルトは静かに廊下を進む。
大理石の床を歩く彼の軍靴の音だけが、高い天井に規則正しく反響していた。
すれ違う近衛騎士たちは遠くから深く頭を下げ、リゼットの姿を見ても一切の詮索をする素振りを見せない。
レオンハルトの統制が、城の隅々にまで行き届いている証左だった。
長い廊下を抜け、重厚なガラス扉を開けると、そこには別世界が広がっていた。
ドーム型の高い天井まで全面が透明なガラスで覆われ、太陽の光が降り注いでいる。
色鮮やかな花々が咲き乱れ、見たこともない異国の果樹が豊かな緑の葉を茂らせていた。
土と緑の湿った匂いが鼻腔をくすぐり、リゼットは思わずほうと感嘆の吐息を漏らす。
小川のように設えられた水路からは、さらさらと澄んだ水の流れる音が聞こえてきた。
「美しい場所でしょう。私の母が、生前に好んで手入れをしていた庭だ」
レオンハルトの横顔を見上げると、彼の視線は遠くの緑に向けられていた。
その瞳の奥には、かすかな郷愁の光が揺れている。
リゼットは彼の腕から手を離し、色とりどりの花壇へとゆっくり近づいていった。
ふと、彼女の足が止まる。
花壇の隅に、一本だけ枯れかかっている小さな薔薇の苗木があった。
葉は茶色く変色して丸まり、細い茎は重力に負けるように力なくうなだれている。
周囲の華やかな植物たちの中で、その小さな命だけが静かに終わりを迎えようとしていた。
リゼットは無意識のうちに膝をつき、枯れかけた苗木にそっと両手をかざした。
それはヴァレリア家の枯れた畑で、実りをもたらすために夜な夜な繰り返していた祈りの姿勢だ。
静かに目を閉じ、胸の奥にある微かな温もりを、目の前の小さな命へと分け与えるように願う。
その瞬間だった。
リゼットの両手のひらから、淡い金色の光の粒子が滝のようにあふれ出した。
光は細かい砂のように苗木へと降り注ぎ、枯れた葉を優しく包み込んでいく。
パリパリに乾いていた茶色い葉が、光を吸い込むにつれてみずみずしい緑色へと変化していく。
うなだれていた茎が水を吸い上げたようにピンと真っ直ぐに立ち上がり、枝の先端には新たな蕾が膨らみ始めた。
わずか数回のまばたきの間に、死にかけていた薔薇の苗木は息を吹き返したのだ。
それどころか、季節外れにもかかわらず、蕾はゆっくりとほころび、鮮やかな深紅の花びらを広げ始めた。
リゼットは自分の手から生まれた信じられない光景に、息を止めて見入っていた。
「これが、君の持つ本当の力だ」
背後から近づいてきたレオンハルトの声に、リゼットは弾かれたように振り返る。
彼は膝をつく彼女の傍らにしゃがみ込み、咲き誇る深紅の薔薇と、リゼットの顔を交互に見つめた。
「周囲の穢れを払い、失われかけた命の源流を呼び覚ます浄化の力。『星屑の魔力』と呼ばれる、神話の中にしか存在しないはずの奇跡だ」
彼の言葉が、リゼットの耳に現実感を持たずに響く。
自分は魔力を持たない無能だと、家族から散々罵られてきた。
クロードもまた、リゼットの力のなさを嘲笑い、華やかな炎を操るマリアンヌを選んだのだ。
「私に、そんな大層な力があるはずがありません。きっと、何かのお間違いで」
後ずさろうとするリゼットの肩を、レオンハルトの大きな手がしっかりと掴んだ。
決して逃がさないという強い意志が、その力強い指先から伝わってくる。
「間違いではない。五年前、隣国との国境近くの森で、私が暗殺者の毒刃に倒れた夜を覚えているか」
その言葉に、リゼットの脳裏の奥底に沈んでいた古い記憶が不意に引きずり出された。
まだ少女だった頃。
森の中で迷い、血まみれで倒れていた黒衣の青年を見つけた夜。
死の淵にいた彼の傷口に両手を押し当て、ただ生き延びてほしいと泣きながら祈った。
あのときも、彼女の手から淡い光がこぼれ、青年の胸の大きな傷が塞がっていったのを覚えている。
助けた彼が誰なのかもわからず、ただ屋敷に怒られるのを恐れて逃げるように立ち去った。
すっかり忘れていた、あまりにも遠い過去の出来事。
「あの夜、私を死の淵から引き戻した温かい光を、私は片時も忘れたことはない。君は、無能などではない。私の命を繋ぎ止めた、この世界でただ一人の尊い存在だ」
レオンハルトの真っ直ぐな言葉が、リゼットの心の奥深くにあった冷たい氷を叩き割った。
彼女の目から、せき止められていた大粒の涙がとめどなくあふれ出す。
レオンハルトは彼女を抱き寄せ、その背中を大きな手で静かに撫で続けた。
温室に咲く無数の花々が、二人を祝福するように甘い香りを放ちながら風に揺れていた。




