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第5話「薔薇の香りと白磁の肌」

 深い眠りから覚めると、窓の外はすでに柔らかな午後の光に満ちていた。

 ベッドの傍らには、昨日と同じ初老の侍女が静かに控えている。

 彼女はリゼットが目を開けたのを確認すると、深く一礼して口を開いた。

 温かいお湯の準備が整ったので、体を清めてはどうかという提案だった。

 リゼットはためらいながらも、シーツを握りしめたまま小さくうなずく。

 侍女に支えられながらベッドを降りると、足の裏に深紅の絨毯の柔らかい感触が伝わってきた。

 隣室に通されると、そこには大理石で設えられた広い浴室が広がっていた。

 中央に置かれた純白の湯船からは、ふわりと白い湯気が立ち上っている。

 微かに甘い、薔薇と数種類のハーブを煮出したような香りが空間を満たしていた。

 侍女の熟練した手つきによって、リゼットの身を包んでいた寝間着が静かに剥がれ落ちる。

 鏡に映った自分の姿を見て、リゼットは思わず両腕で体を隠すように身をすくませた。

 痩せぎすの体には、あばら骨がうっすらと浮き出ている。

 白い肌のあちこちには、転んだときの擦り傷や、古く変色したあざが無数に残っていた。

 満足な食事を与えられず、日々の過酷な労働を強いられてきた痛々しい痕跡だった。

 しかし、侍女の瞳には同情や憐れみの色はいっさい浮かんでいない。

 ただ尊いものに触れるような手つきで、リゼットの背中をそっと支えて湯船へと促した。

 つま先からゆっくりとお湯に浸かると、熱すぎない絶妙な温度が肌を包み込む。

 体の芯まで冷え切っていた骨の髄に、じんわりと心地よい熱が染み渡っていった。


『温かい』


 声に出さずとも、自然と吐息がこぼれ落ちる。

 ヴァレリア家にいた頃は、冷たい井戸水を被って急いで汚れを落とすことしか許されていなかった。

 凍えるような冬の朝でも、それは変わらなかった。

 今、こうしてたっぷりの温かいお湯に身を委ねていることが、ひどく現実離れした夢のように感じられる。

 侍女が柔らかな海綿のスポンジにたっぷりと泡を立て、リゼットの背中を静かに滑らせる。

 傷口を避けるように、ひたすら優しく、丁寧に汚れが落とされていく。

 泥と恐怖にまみれた過去の記憶までが、白い泡と一緒に洗い流されていくようだった。

 洗い髪をすすぐお湯の音が、静かな浴室に心地よく響く。

 手入れもされずパサパサに乾いていた銀色の髪が、上質な香油の溶け込んだお湯を吸って本来の艶を取り戻していく。

 湯上がりには、驚くほど分厚くふわふわとした布で全身の水分が拭き取られた。

 用意されていたのは、真珠のような光沢を放つ淡い水色の室内着だった。

 袖を通すと、羽衣のように軽く、肌に吸い付くような滑らかな感触が全身を包み込む。

 傷の手当てを終え、櫛で髪をきれいにとかし終えたとき、浴室の扉の向こうから静かな足音が近づいてきた。


「入るぞ」


 低く落ち着いた声とともに、レオンハルトが部屋に姿を現した。

 彼は昨日と同じ漆黒の衣服を身にまとっていたが、その表情は驚くほど穏やかだった。

 湯上がりでわずかに頬を桜色に染めたリゼットの姿を認めると、彼の足がぴたりと止まる。

 鋭い双眸が、彼女の濡れた銀髪から、真新しい室内着に包まれた華奢な肩へとゆっくり視線を滑らせた。

 リゼットはどう振る舞えばいいかわからず、視線を床に落として指先を強く握りしめる。

 彼のような高貴な人物の前に、身分を剥奪された自分が立っていること自体が恐ろしかった。

 レオンハルトは数歩進み出て、リゼットの目の前で立ち止まった。

 彼の大きな手が伸びてきて、リゼットの肩口でわずかに跳ねた銀髪の毛先をそっとすくい上げる。


「見違えた。君の髪は、月明かりを溶かしたように美しいな」


 その言葉に嘘や世辞の響きは一切なく、ただ純粋な感嘆だけが込められていた。

 リゼットの心臓が、胸の奥で大きく跳ねる。

 美しいと言われたことなど、生まれてからただの一度もなかった。

 華やかな金髪と琥珀色の瞳を持つマリアンヌこそが、常に称賛を独占していたからだ。

 地味で特徴のない自分の容姿を、こんなふうに真っ直ぐな瞳で肯定されることに慣れていない。


「もったいないお言葉です、殿下。私のような者に、これほどの手厚い扱いをしていただく理由が」


 言葉の途中で、レオンハルトの人差し指がリゼットの唇にそっと触れた。

 革手袋越しではない、彼自身の指の熱が直接伝わってくる。

 リゼットは息を呑み、言葉を途切れさせた。


「君は理由を求めるが、私にとってはこれが当然の報いだ。命の恩人を冷たい床に寝かせるような真似は、我がアークス王家の名折れになる」


 彼は指を離すと、今度はリゼットの小さな手を自分の両手で包み込んだ。

 昨夜巻かれたばかりの真っ白な包帯を、労るように親指で優しくなぞる。


「しばらくはここで体を休めるといい。君を傷つける者は、私の手の届く範囲には一人として存在しない」


 その静かな宣言には、氷のような冷徹さと、炎のような強い守護の意志が同時に宿っていた。

 リゼットは彼の手のぬくもりを感じながら、胸の奥で小さく渦巻いていた不安が少しずつ溶けていくのを覚えた。

 誰かに守られているという確かな実感が、彼女のすり減った心を静かに満たしていく。

 窓から差し込む午後の光が、手を取り合う二人の姿を淡い黄金色に照らし出していた。

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