第3話「白亜の天井と戦神の微熱」
深い眠りから覚めるようにして、まぶたをゆっくりと持ち上げる。
白く濁っていた視界が、まばたきを繰り返すたびに少しずつ輪郭を結んでいく。
まず目に飛び込んできたのは、見上げるほど高い白亜の天井だった。
そこには見慣れない精緻な百合の花の彫刻が、壁際まで隙間なく施されている。
どこか遠くで小鳥のさえずりが聞こえ、柔らかな朝の光が部屋の中に満ちていた。
開け放たれた窓から微かな風が流れ込み、ベッドを囲む薄絹の天蓋を静かに揺らしている。
背中を包み込んでいるのは、あの恐ろしい森の冷たい泥ではない。
雲のようにふかふかとした、極上の羽毛で作られた分厚い敷布団だった。
リゼットは小さく息を吸い込み、肺の奥まで澄んだ空気を満たす。
ほのかに甘い花の香りが鼻先をくすぐり、不快な鉄の匂いは完全に消え去っていた。
自分が生きているという事実を、鈍い頭で少しずつ理解していく。
首だけをわずかに動かして、部屋の中を静かに見回した。
視線の先には、美しい木目を持つ豪華な調度品が整然と並んでいる。
床には足音が響かないほど毛足の長い、深紅の絨毯が敷き詰められていた。
自分がどこにいるのかまったく見当がつかず、胸の奥で鼓動が少しだけ早くなる。
リゼットは身を起こそうとして、両腕にそっと力を込めた。
しかしひどい倦怠感が全身にまとわりつき、指先ひとつ動かすことすら難しい。
自分の着ているものが、泥まみれだった粗末な麻のドレスではないことに気づく。
肌触りの良い純白の絹の寝間着が、清潔な匂いとともに体をふんわりと包んでいた。
擦り傷だらけだったはずの両腕には、真新しい白い包帯が丁寧に巻かれている。
泥の味しか残っていなかった口の中も、今はきれいに拭い清められていた。
ふと、左手の薬指に布越しの感触を覚える。
そこにはもう、クロードから贈られた小さな銀の指輪は存在しない。
婚約破棄を告げられた冷たい雨の夜の記憶が、鮮烈に脳裏によみがえる。
マリアンヌの高く澄んだ笑い声と、蔑むようなクロードの冷ややかな眼差し。
すべてを奪われ、家から追い出された暗い絶望の淵。
『ここは、どこなのかしら』
声に出そうとしたが、かすれた吐息が唇から漏れただけだった。
ひどく乾燥した喉が引きつり、小さくむせてしまう。
そのわずかな音を拾い上げたように、部屋の奥で重厚な木扉が開く音がした。
絨毯の上を歩く静かな足音が、ベッドへとまっすぐに近づいてくる。
視界の端に、漆黒の布地が揺れるのが見えた。
反射的に体がこわばり、リゼットは呼吸を止めて身をひそめる。
天蓋の隙間から姿を現したのは、森の中で泥に沈む彼女を抱き上げたあの男だった。
銀色の髪が、窓から差し込む朝の光を受けて淡く透き通るように輝いている。
夜の森では恐ろしげに見えた鋭い双眸は、今は驚くほど穏やかな光をたたえていた。
彼はベッドの脇に置かれた背もたれのある椅子に、音を立てずに腰を下ろす。
リゼットを見つめる視線は、壊れ物に触れるかのようにひどく慎重だった。
「目が覚めたか」
低く落ち着いた声が、静かな部屋の空気を震わせて響き渡る。
リゼットは声の主を恐る恐る見つめ返した。
彼が身にまとっているのは、王城の近衛騎士が着るような仕立ての細やかな衣服だった。
胸元には、アークス王家を示す剣と獅子の紋章が銀の糸で誇り高く縫い取られている。
その紋章の意味を理解した瞬間、リゼットの背筋が冷たく凍りついた。
目の前にいるのは、第一王太子であるレオンハルト・フォン・アークスその人だ。
戦場では無敗を誇り、冷酷な戦神として他国から恐れられる存在。
そんな高位の人物が、なぜ一介の追放された娘のベッドの傍らに座っているのか。
混乱と恐れから、リゼットはシーツを強く握りしめようとして痛みに顔をしかめる。
手のひらの包帯の下にある傷が、鋭く引きつったのだ。
そのわずかな変化を見逃さず、レオンハルトは彼女の手の上にそっと自分の手を重ねた。
革手袋を外した大きな手のひらが、氷のように冷えていた彼女の指先を覆う。
彼の肌から伝わる力強い熱が、リゼットの体温を少しずつ引き上げていく感覚があった。
「無理に動かなくていい。君は三日間、高熱にうなされて眠り続けていたのだから」
彼の言葉に、リゼットはかすかに目を見張った。
あの冷たい雨の森で倒れてから、それほどの日数が経っていたことすらわからなかったのだ。
『三日も、この方が私を看病してくださっていたの』
信じられない思いで、リゼットはレオンハルトの顔をじっと見つめる。
彼の目の下には、微かに疲労の影がにじんでいた。
「ここは王城の奥にある私の私室だ。誰にも邪魔はさせない。だから、もう怯える必要はない」
静かな、けれど有無を言わせない確かな響きを持つ言葉だった。
リゼットの喉がひくつき、ようやく微かな声が唇からこぼれ落ちる。
「なぜ、殿下が、私のような無能な娘を」
かすれた声は震え、途切れ途切れになって空気の中に消えていく。
レオンハルトは重なった手をわずかに握り込み、優しい眼差しで彼女を見つめ返した。
彼は何も言わず、傍らの小さな円卓に置かれた銀の杯を手に取る。
中には透き通った水が満たされており、かすかに冷たい水滴が表面に浮かんでいた。
彼はベッドの縁に腰を下ろし直し、空いている方の腕をリゼットの背中にそっと差し入れる。
分厚い胸板が近づき、微かな鉄と清潔な石鹸の匂いが鼻先をかすめた。
彼の腕に支えられ、リゼットの上半身がゆっくりと持ち上げられる。
首の後ろを大きな手のひらで固定され、銀の杯が乾いた唇に静かに押し当てられた。
冷たく澄んだ水が、砂のようにひび割れた喉の奥へと流れ込んでいく。
リゼットは夢中でその水を飲み込み、二度、三度と喉を鳴らした。
体中の細胞が水分を吸収し、生き返っていくような心地よい感覚が全身を駆け巡る。
ゆっくりと杯が離されると、彼女は小さく息を吐き出して枕へと沈み込んだ。
レオンハルトは杯を卓に戻し、空いた手で彼女の額にかかる銀色の髪をそっと払いのける。
その指先は驚くほど優しく、リゼットの肌を傷つけないよう細心の注意が払われていた。
「君は無能などではない。私にとっては、誰よりも探し求めていた大切な恩人だ」
彼の紡いだ言葉の意味が理解できず、リゼットは小さく首を横に振った。
恩人と呼ばれるような行いをした記憶など、過去のどこを探しても見当たらない。
ヴァレリア男爵家では、ただの厄介者として地下室の片隅で息をひそめる日々を送っていただけだ。
しかし、レオンハルトの揺るぎない視線は、彼女のそんな戸惑いをすべて受け止めている。
彼はもう一度、リゼットの包帯に包まれた小さな手を両手で包み込んだ。
温かな体温が指先から伝わり、凍りついていた彼女の心が少しずつ溶かされていく。
窓の外から吹き込む風が、再び部屋の中を優しく通り抜けた。




