第2話「ぬかるみの果てに現れた黒衣の影」
森の奥へ進むにつれて、雨は氷のように冷たさを増していった。
木々の枝が幾重にも重なり合い、空の光を完全に遮断している。
リゼットの足取りは、ひどくおぼつかないものになっていた。
一歩を踏み出すたびに膝が震え、全身の筋肉が悲鳴を上げる。
喉の奥がカラカラに乾き、鉄のような血の匂いが呼吸に混じった。
濡れた麻のドレスは容赦なく体温を奪い、指先は紫色に変色しつつある。
ぬかるんだ地面に足を取られ、彼女の体は大きく傾いた。
「あっ」
かすれた声が漏れると同時に、リゼットは冷たい泥の中に倒れ込んだ。
膝と手のひらを鋭い石が擦り抜け、皮膚が破れる嫌な感覚が走る。
泥水が顔に跳ね返り、唇に砂の味が広がった。
起き上がろうと両手に力を込めるが、腕はもはや彼女の意思に従わない。
震える手首が崩れ、再び顔から泥に沈み込む。
雨の粒が、倒れ伏した背中を絶え間なく打ち据えた。
視界の端が黒く染まり始め、思考が薄い霧の中へと溶け出していく。
寒さすら感じなくなり、奇妙な安堵感が全身を包み込み始めた。
『ここで終わるなら、それもいいかもしれない』
閉じたまぶたの裏で、そんな諦めが静かに広がっていく。
誰にも望まれない命なら、この静かな森で土に還るのがふさわしい。
意識が遠のく中、微かに地面が震える感覚があった。
雨音とは違う、規則的で重たい振動。
複数の蹄が、ぬかるんだ土を蹴り上げる音が近づいてくる。
リゼットは重い目を開け、わずかに顔を上げた。
雨の向こう側から、漆黒の外套をまとった数騎の影が姿を現す。
先頭を進む馬が、彼女のすぐ手前で嘶きを上げて立ち止まった。
大きく立派な黒馬の背から、一人の男が軽やかに飛び降りる。
金属の擦れ合う硬質な音が、雨の降る森に響き渡った。
男の足音が、泥を踏みしめながらゆっくりと近づいてくる。
リゼットの霞む視界に、黒い革張りの長靴が映り込んだ。
男が片膝をつき、彼女の顔を覗き込むように身をかがめる。
銀色の髪が雨に濡れ、鋭い双眸が夜の森でもはっきりと輝いていた。
彼は無言のまま、はめていた革手袋を片方だけ引き抜く。
そして、泥にまみれたリゼットの頬に、素手をそっと添えた。
氷のように冷え切っていた彼女の肌に、男の手のひらから力強い熱が伝わってくる。
「……君は」
男の低い声が、雨音を縫ってリゼットの耳に届いた。
その瞬間、リゼットの体の奥底で眠っていた力が、呼応するように淡い金色の光の粒子を生み出す。
彼女の肌に触れていた男の手を包み込むように、目に見えないほどの小さな光が舞い上がった。
男の瞳が、驚きに見開かれる。
彼はリゼットの顔の輪郭を確かめるように、親指でそっと泥を拭った。
その手つきは、彼が身にまとう冷ややかな空気とは対照的に、酷く慎重で優しいものだった。
「見つけた。ずっと、探していた」
男の言葉の意味を理解する前に、リゼットの体はふわりと宙に浮いた。
彼が両腕でリゼットを抱き上げ、自身の広い胸の中に収めたのだ。
雨風を遮るように、厚く温かい漆黒の外套が彼女の体をすっぽりと包み込む。
鉄と、微かな獣の匂い、そして雨の匂いが混じった独特の香りが鼻腔をくすぐった。
氷点下に近い森の中で、彼の体温だけが信じられないほど温かい。
「殿下、その者は」
背後で控えていた騎士の一人が、戸惑ったように声をかけた。
男は振り返らず、抱きしめる腕の力をわずかに強める。
「城へ戻る。急ぎ医官を手配しろ。この娘に万が一のことがあれば、貴様らの首を刎ねる」
冷徹で、一切の反論を許さない鋭い命令。
その声の響きに、騎士たちが慌てて馬首を返す気配がした。
リゼットは限界を迎えた重いまぶたを、ゆっくりと閉じる。
最後に感じたのは、彼女の背中を支える男の、力強く規則的な心音だった。
深い泥の底に沈むようにして、リゼットの意識は完全な暗闇へと落ちていった。




