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第1話「降り注ぐ冷雨と断ち切られた過去」

登場人物紹介


◇リゼット・ヴァレリア

 ヴァレリア男爵家の長女。

 魔力を持たない無能として家族から虐げられてきた。

 控えめで大人しい性格だが、内に秘めた芯の強さを持つ。

 実は周囲の穢れを払い、生命を息吹かせる強大な『星屑の魔力』を無意識に行使しており、実家や婚約者の領地を陰から支えていた。


◇レオンハルト・フォン・アークス

 アークス王国の第一王太子。

 戦場では無敗を誇り『冷酷戦神』と恐れられる美しい青年。

 数年前、瀕死の重傷を負ったときに命を救ってくれた名も知らぬ少女をずっと探し求めていた。

 リゼットに対してのみ、底なしの甘さと執着を見せる。


◇マリアンヌ・ヴァレリア

 リゼットの妹。

 天使のような可憐な容姿の裏に、底知れぬ承認欲求と傲慢さを隠している。

 姉からすべてを奪うことを至上の喜びとしており、クロードを誘惑してリゼットから奪い取った。


◇クロード・ルグラン

 ルグラン伯爵家の令息で、リゼットの元婚約者。

 プライドが高く、見栄っ張り。

 マリアンヌの美貌と甘い言葉にたぶらかされ、リゼットを冷酷に切り捨てる。

 領地が豊かであるのは自分の才能だと思い込んでいる。

 冷たい雨がリゼットの頬を打ち据えた。

 泥にまみれた薄い麻のドレスが、鉛のように重く体にまとわりつく。

 屋敷の重厚な木扉が、彼女の背後で冷酷な音を立てて閉ざされた。


「行き倒れて死ねばいいのよ、無能な姉様」


 二階の窓の向こうから、妹マリアンヌの高く澄んだ笑い声が聞こえる。

 隣には、かつて永遠を誓い合ったはずのクロードが立っていた。

 彼はリゼットに一瞥もくれず、マリアンヌの細い肩を引き寄せる。

 マリアンヌの琥珀色の瞳が、見下すように細められた。


「ルグラン領を豊かにしたのは僕の才覚だ。魔力すらない君は、ただのお荷物でしかなかった」


 クロードの冷ややかな声が、雨音を切り裂いて降ってくる。

 彼が身につけている豪華な外套は、かつてリゼットが夜を徹して刺繍を施したものだった。

 布地がほつれないよう、一針ずつ願いを込めて縫い上げた記憶がよみがえる。

 しかし、そのことに彼が気づくことは永遠にない。

 リゼットは足元に転がされた小さな革鞄を拾い上げる。

 雨水で濡れた持ち手は滑りやすく、かじかんだ指先が小刻みに震えていた。

 泥水が古びた靴の底から染み込み、足先の感覚をゆっくりと奪っていく。

 振り返ることはしなかった。

 ただ、薄暗い森の奥へと続くぬかるんだ道を見つめる。

 息を吐くたび、白い塊が冷たい空気の中に溶けて消えた。

 屋敷の敷地から一歩を踏み出すと、風の強さが一段と増す。

 濡れた髪が頬に張り付き、視界を遮った。

 冷え切った手で前髪を払いのけながら、重い足を引きずり続ける。

 彼女の左手薬指には、婚約指輪を引き抜かれた赤い擦れ跡だけが残っていた。


「ヴァレリア家の恥晒しめ。二度と敷居を跨ぐな」


 数十分前に投げつけられた父の怒声が、耳の奥にこびりついて離れない。

 領地の水源を浄化し、枯れかけた畑に実りをもたらすため、彼女は毎夜こっそりと祈りを捧げてきた。

 誰にも気づかれないほどの微かな淡い金色の光が、土に染み込んでいくのを見るのが好きだった。

 それが自身にしか扱えない浄化の魔力であることなど、リゼットは知る由もなかった。

 ただ、家族に少しでも認めてほしくて。

 領民たちが笑顔になるのが嬉しくて、身を削って祈り続けた。

 その手柄はすべて、華やかな魔力を持つマリアンヌのものとして扱われていた。

 光の粒は夜闇に紛れ、誰の目にも留まらなかったからだ。

 リゼットは小さく息を吸い込み、冷たい空気を肺の奥まで満たした。


『私には、もう帰る場所なんてない』


 声に出す気力すらなく、乾いた思考だけが脳裏をよぎる。

 歩幅を狭く保ちながら、ぬかるみに足を取られないように一歩を踏み出した。

 雨は勢いを増し、森の木々が風に揺れて不気味な影を落とす。

 枝葉の隙間からこぼれ落ちる水滴が、首筋を伝って背中へと流れ落ちた。

 全身の熱が、雨水とともに地面へと吸い込まれていく感覚がある。

 それでも足を止めるわけにはいかなかった。

 ここで立ち止まれば、本当に冷たい泥の一部になってしまう。

 彼女は革鞄を胸に強く抱きしめ、暗い森の奥へと歩みを進めた。

 遠くで獣の遠吠えが響き、木々のざわめきがそれをかき消す。

 濡れた落ち葉が靴底に張り付き、歩みをさらに重くした。

 視界は雨と霧で白く濁り、どこへ向かっているのかさえ定かではない。

 ただ、あの屋敷から少しでも遠ざかりたいという本能だけが、彼女の背中を押していた。

 時折、むき出しになった木の根につまずきそうになる。

 そのたびに荒い呼吸を繰り返し、姿勢を立て直した。

 指先の感覚はとうに失われ、自分の足で歩いているという実感すら薄れつつある。

 それでも、リゼットの足は止まらない。

 自由になったのだと、自分に言い聞かせるように。

 誰にも虐げられることのない、孤独で静かな暗闇の中へ。

 彼女はひたすらに、ただひたすらに歩き続けた。

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