番外編「戦神の執着と泥に沈めた断罪」
◇レオンハルト視点
鼻をつく鉄の匂いと、降りしきる雨の冷たさだけが記憶の底に張り付いている。
五年前、隣国との国境に近い名もなき森で、俺は死の淵にいた。
放たれた暗殺者の毒刃は俺の胸を深くえぐり、体温を容赦なく奪っていった。
ぬかるんだ地面に倒れ、視界が白く濁っていく中で、俺は死を確信していた。
だが、その絶望を切り裂くようにして、一筋の柔らかな光が俺を包み込んだ。
泥まみれの手で俺の傷口を必死に押さえ、泣きながら祈る少女の姿。
彼女の指先からあふれ出した淡い金色の光の粒子が、焼けるような痛みを静めていく。
それは神話に語られる浄化の力そのものだった。
意識が遠のく間際、俺は彼女の細い指先のぬくもりと、月明かりを映したような銀色の髪を瞳に焼き付けた。
目が覚めたとき、傍らに彼女の姿はなかった。
残されていたのは、俺の胸元で奇跡的に塞がった傷痕と、森に漂う清浄な空気の名残だけだ。
それからの五年、俺の心は静かな狂気にも似た執着に支配されていた。
戦場に立ち、どれほどの返り血を浴びても、俺の魂はあの夜の光を追い求めていた。
名前も顔もわからない恩人を探すため、俺は王国の隅々にまで密偵を放った。
銀髪で、浄化の性質を持つ魔力を宿した少女。
だが、その手がかりは驚くほどに掴めなかった。
アークス王家を支える第一王太子として、俺は常に冷徹であることを自分に課してきた。
感情を殺し、戦局を俯瞰し、不要なものを切り捨てる。
周囲からは冷酷な戦神と恐れられたが、それで構わなかった。
俺の熱量は、ただ一人を見つけ出すためだけに温存されていたからだ。
運命が動いたのは、三日間に及ぶ北方の視察から帰還する途上のことだった。
激しい雷雨に見舞われ、馬車が森のぬかるみに足を取られた。
御者が道を整えるのを待つ間、俺はふと外の気配に意識を向けた。
雨音に混じって、消え入りそうな微かな呼吸の音が聞こえた気がした。
胸元の古い傷が、疼くような感覚を覚える。
俺は騎士たちの制止を振り切り、泥の中へと足を踏み出した。
森の奥へと続く獣道を進むと、そこには泥にまみれて倒れ伏す一人の娘がいた。
薄い麻のドレスはボロボロに裂け、剥き出しになった肩や腕には無数のあざと擦り傷が刻まれている。
俺は彼女の顔を覗き込み、息を呑んだ。
泥の下から覗く、月明かりを溶かしたような銀色の髪。
指先に触れた瞬間、彼女の中から漏れ出した淡い金色の光の残滓。
間違いない。
五年もの間、焦がれるように探し続けてきた俺の恩人が、今、目の前でゴミのように捨てられている。
彼女を抱き上げたとき、そのあまりの軽さに俺の奥底で凍りついていた怒りが爆発した。
どれほどの空腹と苦痛に耐えてきたのか、彼女の体は折れてしまいそうなほどに痩せ細っていた。
城へ連れ戻し、医官を総動員して彼女を治療させる間、俺は並行して彼女の素性を洗わせた。
報告書が届くたび、俺の執務室の温度は氷点下へと下がっていった。
リゼット・ヴァレリア。
ヴァレリア男爵家の長女でありながら、魔力を持たない無能として地下室に閉じ込められていた娘。
食事は残飯、着るものは古布、寝床は冷たい床。
さらに実の妹であるマリアンヌとその婚約者、クロード・ルグランによる陰湿な搾取。
彼らの繁栄はすべて、リゼットが無意識に放ち続けていた浄化の魔力によって支えられていたのだ。
恩恵を受けながら、彼らは彼女を家畜以下の扱いをして森へ捨てた。
俺の腕の中で、死を待つように静かに眠る彼女の顔を見つめ、俺は誓った。
彼女を傷つけたすべての者たちに、死よりも過酷な絶望を与えることを。
俺はあえて、彼らを建国記念の夜会に招待した。
リゼットが俺の隣で、この世の誰よりも輝く姿を見せつけるために。
彼らが縋り付きたいほどに困窮するのを待ち、最高に惨めな状態で王都へ這い寄らせるよう、裏で貴族間の派閥を操作した。
夜会の場で、リゼットの正当な権利を公言し、彼らの罪状を白日の下に晒す瞬間。
クロードの顔から血の気が失せ、床に膝をつく様子を、俺は心の底から愉悦とともに見つめていた。
マリアンヌが騎士たちに押さえつけられ、無様な悲鳴を上げるのを聞きながら、俺は彼女が受けていた苦痛の万分の一すら返せていないことに苛立ちすら覚えた。
だが、リゼットは彼らを恨んでいないと言った。
その清らかな魂が、泥にまみれた彼らと同じ場所に留まることを拒否したのだ。
ならば俺が、彼女の代わりに手を汚せばいい。
彼らを辺境の採掘場へと送り、一生を泥と雪の中で過ごさせるよう手配した。
貴族としてのプライドを粉々に砕き、一日中土を掘り返し、飢えと寒さに震える日々。
それが、彼女からすべてを奪おうとした罪の対価だ。
執務室の窓から、王都の平和な街並みを見下ろす。
今、リゼットは庭園で花々に囲まれて穏やかに笑っている。
俺は執務服の襟を整え、彼女の元へと歩き出した。
かつての俺は、ただ奪うためだけに剣を振るっていた。
だが今は、彼女の微笑みを守り抜くためだけに、この力を使おうと決めている。
彼女が俺を救ったあの日から、俺の命も魂も、すべては彼女のものなのだから。




