第15話「バルコニーの夜風と星降る誓い」
大広間の喧騒を背に、長く続く大理石の廊下をゆっくりと歩く。
壁に等間隔で設置された燭台の炎が、リゼットの銀色の髪に柔らかな光の輪を作っていた。
彼女はレオンハルトの腕にそっと手を添え、彼が刻む規則正しい足音に自身の歩幅を合わせる。
夜会での張り詰めた空気が少しずつ解け、心地よい疲労感が全身の筋肉を緩ませていった。
家族と元婚約者との決別。
それを公の場で宣言したことで、胸の奥底に重く沈殿していた黒い泥のような感情が、跡形もなく消え去っていることに気づく。
「疲れただろう。今日はゆっくり休むといい」
レオンハルトの低く穏やかな声が、静かな廊下に響いた。
リゼットは顔を上げ、彼を見つめて小さく微笑む。
「不思議です。あんなに恐ろしかった人たちなのに、最後はひどく小さく見えました」
「君自身の心が強くなった証拠だ。彼らが君を縛り付けていた鎖は、もはやどこにも存在しない」
彼の言葉に、リゼットは深くうなずいた。
二人はリゼットの私室の前で立ち止まり、レオンハルトは彼女の手の甲に静かに唇を落とす。
革手袋越しではない、彼の真っ直ぐな体温が指先から伝わり、リゼットの頬にほんのりと朱が差した。
彼に見送られて部屋に入ると、控えていた侍女たちが手際よく彼女の装いを解いていく。
星空を模した豪華なドレスが脱がされ、首元の青い宝石がベルベットの箱に収められた。
複雑に編み込まれていた髪が解かれ、百合の香りがふわりと部屋の空気に溶け出す。
肌触りの良い純白の室内着に着替えると、ようやく深い安堵の息が口からこぼれた。
侍女たちが下がり、一人になった部屋で、リゼットは開け放たれたバルコニーへと歩みを進める。
夜風が銀色の髪を揺らし、熱を持った頬を心地よく撫でた。
空を見上げると、雲ひとつない夜空に無数の星々が瞬いている。
手すりに両手を預け、彼女はゆっくりと目を閉じた。
雨の夜、泥まみれになって森をさまよった記憶が遠い過去のように感じられる。
あのとき、死を覚悟した自分を救い上げてくれた温かい手。
それが、今も変わらず自分を守り続けているという事実が、胸の奥を甘く満たしていく。
ふと、背後の扉が静かな音を立てて開く気配がした。
振り返ると、上着を脱ぎ、白いシャツに黒い長ズボンという少し寛いだ姿のレオンハルトが立っている。
彼の手には、微かな湯気を立てる二つの銀のマグカップが握られていた。
「眠る前に、少しだけ君の顔を見たくなってな」
彼は言い訳のようにそうつぶやき、バルコニーへと歩み寄ってくる。
差し出されたマグカップを受け取ると、温めた牛乳に蜂蜜と少量の香辛料を混ぜた甘い匂いが漂った。
リゼットはカップを両手で包み込み、指先から伝わる温もりに目を細める。
「ありがとうございます。殿下も、今日はお疲れになったでしょう」
「私の疲れなど、君の笑顔を一つ見るだけで消え失せてしまう」
彼が隣に並び、手すりに軽く腰を預ける。
夜風に混じる彼の清潔な石鹸の香りが、リゼットの呼吸をわずかに深くさせた。
一口だけ甘い飲み物を喉に流し込むと、胃の底からじんわりと熱が広がっていく。
と同時に、夜会の最中は気を張って抑え込んでいた感情の波が、不意に決壊した。
「私、本当に、自由になれたのですね」
震える声が唇から漏れた。
まばたきをした瞬間、大きな涙の粒が頬を伝ってカップの中に落ちる。
悲しみでも恐怖でもない、純粋な安堵と解放の涙だった。
リゼットは空いた手で慌てて目元を拭おうとするが、次から次へと涙があふれて止まらない。
レオンハルトはマグカップを近くのテーブルに置くと、彼女のカップもそっと取り上げた。
そして、空いた両腕でリゼットの華奢な体を強く抱き寄せる。
彼の分厚い胸板に頬を押し付けられ、力強い心音だけが耳元で規則正しく響いた。
「もう泣かせはしない。これからの君の人生には、喜びの涙以外は必要ない」
彼の手がリゼットの背中をゆっくりと撫でる。
そのひたすらに優しい感触に、リゼットは彼のシャツの胸元を強く握りしめ、声を出して泣きじゃくった。
何年も何年も耐え忍んできた孤独な日々が、彼の腕の中で完全に溶けて消えていく。
どれほどの時間が過ぎたのか。
リゼットの嗚咽が少しずつ落ち着きを取り戻し、深い呼吸へと変わっていく。
レオンハルトは彼女の肩をそっと離し、少しだけ身をかがめて視線を合わせた。
彼は親指の腹で彼女の目元に残る涙を優しく拭い取る。
「リゼット。夜会では次期王太子妃として紹介したが、私の本当の願いは少し違う」
彼の真剣な眼差しに、リゼットは息を呑んで彼を見つめ返した。
「政略や義務のためではなく、一人の男として君を愛している。生涯をかけて、君だけを大切に守り抜きたい」
飾り気のない、しかし熱を帯びた真っ直ぐな言葉。
リゼットの胸の奥で、淡い金色の光の粒子がふわりと舞い上がった。
それは彼女の魔力が生み出したものではなく、魂そのものが歓喜に震え、世界に祝福を与えようとする輝きだった。
彼女は彼の大きな手に自身の両手を重ね、花が咲くように微笑む。
「私も、あなたと共に生きていきたいです。この命が尽きるまで」
その答えを聞いたレオンハルトの瞳が、春の陽射しのように柔らかく細められる。
彼はリゼットの額に、誓いの印として静かに唇を落とした。
バルコニーを吹き抜ける夜風が、二人の体を優しく包み込み、星々が彼らの未来を祝福するように瞬いていた。




