第13話「凍てつく戦神の眼差しと泥にまみれた虚栄」
クロードの伸ばした右手が、空中で不自然に硬直していた。
彼とリゼットの間には、分厚い氷の壁でも出現したかのような明確な断絶が生まれている。
その断絶の正体は、彼女の前に立ち塞がったレオンハルトから放たれる、肌を刺すような冷気だった。
戦場において数多の敵を沈黙させてきた戦神の気迫が、目に見えない重圧となってクロードの全身を押し潰そうとしている。
クロードの顔から急速に血の気が引き、土気色に染まった唇が声にならない音を漏らして震え始めた。
彼は後ずさろうとするが、恐怖で足の裏が床に縫い付けられたように動かない。
広間を包んでいた優雅な弦楽器の調べはとうに止み、張り詰めた静寂だけが耳鳴りのように響いている。
周囲を取り囲む高位貴族たちの冷ややかな視線が、泥の染みをつけたままの侵入者たちへと一斉に注がれていた。
その視線の意味を理解する余裕すらなく、クロードの背後からヴァレリア男爵が口を挟む。
「で、殿下。恐れながら、その後ろにいる娘は私の長女でございます」
男爵の声はひどく上擦り、広間の高い天井に滑稽なほど響き渡った。
彼はハンカチで額の脂汗を拭いながら、媚びへつらうような薄笑いを浮かべてレオンハルトを見上げる。
「我が領地は今、少しばかり水不足で混乱しておりまして。その娘の些細な特技が少々必要になったのです」
男爵は言葉を選びながら、あくまで家庭内の小さな問題であるかのように取り繕おうとしていた。
リゼットが持つ『星屑の魔力』という神話級の力を、ただの些細な特技と貶めることで、彼女の価値を意図的に低く見積もらせようという浅ましい魂胆だ。
しかし、レオンハルトの鋭い双眸には、微塵の動揺も浮かんでいない。
彼は氷のように冷たい視線を男爵へと向け、ゆっくりと口を開いた。
「些細な特技、か。領地の土壌を完全に腐敗させ、水源を泥水へと変えるほどの深刻な崩壊を招いておきながら、随分と余裕のある口ぶりだな」
レオンハルトの低い声が、冷たい刃のように男爵の胸元を正確にえぐる。
男爵の顔から薄笑いが剥がれ落ち、大きく目を見開いて息を呑んだ。
遠く離れた辺境の領地の惨状が、なぜ王太子である彼の耳にこれほど正確に届いているのか、理解が追いつかないのだ。
クロードもまた、信じられないものを見るような目でレオンハルトを見つめている。
「そ、それは。少しばかり天候の巡りが悪かっただけで」
男爵がしどろもどろに言い訳を並べようとするのを、レオンハルトの静かな声が容赦なく遮った。
「その娘を連れ帰り、再び地下室に閉じ込めて力を搾取するつもりか。一日一杯の濁った水と、カビの生えたパンの切れ端だけを与えてな」
その具体的な言葉の羅列に、広間を取り囲んでいた貴族たちから息を呑む音が連鎖して広がる。
扇で口元を覆う令嬢たちの顔には、明確な嫌悪と軽蔑の色が浮かんでいた。
自らの血を分けた娘に対して、それほどまでに非道な扱いをしていたという事実が、公の場で白日の下に晒されたのだ。
リゼットはレオンハルトの背中に隠れるように立ち、自分のドレスの裾を強く握りしめていた。
心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、過去の暗い記憶が這い上がってきそうになる。
しかし、彼女の腰を支えるレオンハルトの手のひらからは、途切れることなく力強い熱が注ぎ込まれていた。
その確かなぬくもりが、彼女の足元を暗闇からすくい上げ、現実の明るい光の中へと留め置いている。
「ち、違います。私たちはそんなひどいこと」
「それに、彼女は僕の婚約者です。僕には彼女を領地へ連れ帰る正当な権利があるはずだ」
男爵の言葉を遮るように、クロードが血走った目で声を張り上げた。
彼は自分の領地の防壁が崩れ、魔獣がなだれ込んできているという絶望的な状況から目を背けるため、リゼットという命綱にすがりつくことしかできないのだ。
その傲慢な主張を聞いた瞬間、レオンハルトの瞳の奥で、青い炎が静かに、そして激しく燃え上がった。
彼はゆっくりと一歩前に踏み出し、クロードを見下ろす。
「婚約者だと。私の手元にあるルグラン家の報告書には、君が彼女との婚約を一方的に破棄し、妹であるマリアンヌに乗り換えたという記録が残っているが」
逃れようのない事実を突きつけられ、クロードの喉からひゅっと引きつった音が漏れた。
彼は後ろ盾を失った哀れな子供のように、激しく首を横に振った。
「あれは間違いだったんです。魔力を持たない無能だと騙されて、つい。でも、彼女の本当の力を知った今なら、僕は誰よりも彼女を愛し、大切にできる」
クロードの口から紡がれる自分勝手な愛の言葉に、リゼットの胸の奥で奇妙なほど冷たい感情が広がっていく。
かつては彼の微笑みに心を躍らせ、彼を支えるために夜を徹して祈り続けた日々があった。
しかし今、目の前で必死に弁明する彼の姿は、ひどく小さく、滑稽なものにしか見えない。
魔力があるから愛する。
魔力がないと勘違いしていたから捨てた。
そこにリゼットという人間そのものに対する情愛など、最初から一欠片も存在していなかったのだ。
クロードの言葉を聞いていたマリアンヌが、ついに我慢の限界を迎えたように甲高い声を上げた。
「ちょっと待ってよ、クロード様。私を捨てて、あんな地味で取り柄のない姉様を選ぶっていうの」
彼女は派手な桃色のドレスを振り乱し、クロードの腕を強く引いた。
琥珀色の瞳は怒りと屈辱で歪み、美しいはずの顔立ちが夜叉のように醜くひきつっている。
「私の華やかな炎の魔力の方が、あんな地味な光よりずっと優れているわ。あんな女、お父様もクロード様も必要ないじゃない」
彼女の甲高い叫び声が、冷え切った広間に虚しく反響する。
その声には、自分からすべてを奪い、見下していた姉が、今や王太子の隣で誰よりも眩い光を放っているという現実に対する、凄まじい嫉妬が渦巻いていた。
レオンハルトは三人の醜い争いを冷ややかに見下ろしたまま、小さく顎を動かした。
広間の壁際に控えていた近衛騎士たちが、一糸乱れぬ動きで前進し、三人の周囲を円陣で取り囲む。
鋭く磨き上げられた剣の柄に騎士たちの手が添えられ、金属の擦れ合う硬質な音が鳴った。
その音に三人は弾かれたように口を閉じ、周囲を取り囲む刃の壁に怯えて身を寄せ合う。
レオンハルトはリゼットの腰から手を離し、ゆっくりと彼女の隣に並び立った。
彼の手がリゼットの細い指先を包み込み、すべての貴族たちに見せつけるように高く掲げる。
「ここに宣言する。このリゼット・ヴァレリアは、私自身の命を救った恩人であり、アークス王国の次期王太子妃として迎え入れる唯一の女性である」
広間の空気が、その一言で完全に支配された。
リゼットの指先に残る微かな震えごと、レオンハルトの大きな手が力強く握りしめる。
その温もりが、彼女の心に巣食っていた過去の亡霊を完全に焼き払っていった。




