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第6章 メイクトゥルー――幸福を願った魔法石と、厄災を呼ぶ遺跡

三日後に世界が変わる


「――鍵が揃った」


その声が頭の中に響いた直後、リンドス村の宿屋が激しく揺れた。

窓の外では、第三の宝石から放たれた光が夜空へと伸びている。

和人は宝石を握り締め、涼音の手を引いた。


「窓から離れろ!」


次の瞬間、宿屋の窓ガラスが震え、机の上に広げていた地図が風もないのに宙へ舞い上がった。

その地図に記された神殿の印が、一つ、また一つと青白く輝いていく。

最後に光ったのは、二国の国境から遠く離れた山脈の奥。


『帰還の門、再起動まで残り三日』


声が消えた。

同時に、宝石の光も収まっていく。


「……三日?」


涼音が呆然と呟いた。


「待って。帰還の門って、私たちが元の世界へ帰るための門よね?」


「たぶん。でも、再起動って何なんだ?」


和人は地図を拾い上げた。

さっきまで何も書かれていなかった場所に、見慣れない古代文字が浮かんでいる。


『始まりの神殿』


そして、その下には小さな文字が続いていた。


『継承者が門を開くとき、世界は選択を迫られる』


「……嫌な予感しかしないな」


「同感」


涼音は窓の外を覗いた。

村の入口には、二つの軍勢が集まっている。

ヴァリアス王国の紋章。

デュランダル王国の紋章。

本来なら敵同士であるはずの兵士たちが、互いに武器を向け合うこともなく、同じ人物の指示を待っていた。

その中央に立つ男の胸元には、古代神殿の壁画に刻まれていたものと同じ紋章がある。

三つの宝石を囲む、見知らぬ紋章。


「……あいつ、何者だ?」


和人が目を細めた。

男がゆっくりと顔を上げる。

まるで、宿屋の中にいる二人の存在を見透かしているかのようだった。


「まずい。こっちを探してる」


「第三の宝石が反応したから?」


「そう考えるのが自然だな」


和人は宝石を布で包み、バッグの奥へしまった。


「逃げるわよ」


涼音が即座に言った。


「賛成。ここにいたら、事情を説明する前に捕まる」


二人は宿屋の裏口から外へ出た。

夜の路地を抜け、村の外れへ向かう。

しかし、門へ続く道には兵士の姿があった。


「和人、右!」


涼音が小声で叫ぶ。

二人は農家の物置へ身を隠した。

すぐそばを、複数の兵士が通り過ぎていく。


「対象は二名。赤い宝石の杖と、青い宝石の剣を所持している」


「生死は問わない。ただし、第三の鍵は傷つけるな」


その言葉に、和人の背筋が凍った。


「……第三の鍵って、俺たちのことか?」


涼音は首を横に振った。


「違うと思う。生死は問わないって言ってた。でも、あの人たちは宝石のことを知っている」


「だったら、なおさら捕まるわけにはいかないな」


兵士たちの足音が遠ざかる。

二人は村の外へ出ると、森の陰でようやく足を止めた。


「これからどうする?」


涼音が尋ねる。

和人は地図を広げた。


「まず、第三の宝石について調べる。あの声が本当なら、三日以内に始まりの神殿へ行かなきゃならない」


「でも、今の私たちじゃ場所も分からないし、道も知らない」


「だから、情報を集めるんだ」


和人は地図の端に記された、小さな村の名前を指した。


「ラリサ村。ここなら、古い遺跡や魔法石について何か知っている人がいるかもしれない」


「はぁ……また遺跡?」


涼音は小さくため息をついた。


「今度は、魔獣に背中を蹴飛ばされない場所だといいんだけど」


「それ、俺に言ってる?」


「ほかに誰がいるのよ」


二人は顔を見合わせ、ほんの少し笑った。

だが、笑い終えた和人は、地図を握り締めた。

三日。

それは、元の世界へ帰る希望が見つかったという意味であると同時に、何かを決断するまでの期限でもあった。

そして二人はまだ知らない。

第三の宝石が光を放ったことで、世界各地の遺跡でも、長い眠りについていた何かが動き始めていたことを。


翌朝。

リンドス村を離れる前に、和人と涼音は一人の老婆を訪ねた。

以前、古代神殿の場所を教えてくれた人物だ。


「この文字を読める人を知らないかな?」


和人は、神殿で書き写した古代文字を見せた。

老婆は紙を受け取った瞬間、表情を変えた。


「……おまえさんたち、あそこへ行ったのかい」


「はい。神殿の奥で、第三の宝石を見つけました」


涼音がバッグから布包みを取り出す。

中から宝石が姿を現した瞬間、老婆は思わず一歩後ずさった。


「しまいなっ!」


二人は驚いて顔を見合わせた。


「えっ?」


「その石を、軽々しく人目にさらすんじゃない!」


老婆の声には、明らかな恐怖が滲んでいた。

和人は慌てて宝石を包み直した。


「……この石を知っているんですか?」


老婆はしばらく黙っていた。

やがて、家の裏にある薪割り場へ二人を招き入れた。


「知っていると言っても、昔話で聞いただけさ。だが、その文字なら、少しは読める」


老婆は紙を広げ、欠けた文字を指でなぞった。


「ここには……こう書いてあるね」


ゆっくりと、古代文字を読み上げる。


「この宝石が、世に出回らぬことを切に願う……」


老婆の声が低くなった。


「この石――デモンズスピリッツには、強大な魔力が封じられている。その力が解放されれば、世界は滅亡への道を歩むだろう……」


涼音の表情が強張った。


「世界が、滅亡……?」


「残念だが、そこから先は欠けていて読めないね」


和人は布包みを見つめた。

デモンズスピリッツ。

その名には、神殿で触れたときに感じた、奇妙な圧力がよみがえる。


「でも、この石は俺たちを攻撃したりはしなかった」


「だからといって、安全とは限らないよ」


老婆は和人をまっすぐ見た。


「毒蛇は、噛みつくまで毒を見せたりはしないからね」


「……確かに」


「それに、あの神殿は昔から禁忌の場所だった。宝を求めて入った者はいたが、戻ってこない者も多かった。戻った者も、あそこで何を見たのかは決して話そうとしなかった」


涼音が尋ねた。


「じゃあ、どうして神殿に宝石が残されていたんでしょう?」


老婆は首を横に振った。


「分からない。ただ一つ言えるのは、あの石は人々を幸福にするために作られたものじゃない、ということさ」


和人は、その言葉に引っかかりを覚えた。


「……人々を幸福にするために作られた石?」


「いや、逆だよ。あの石は、人々が幸福を願う心さえ、利用するかもしれない」


老婆は紙を返した。


「もし本当にその石を手に入れたのなら、使い方が分かるまで、決して力を解放してはいけない」


和人は頷いた。


「分かりました」


老婆は二人の顔を見比べ、最後にこう言った。


「それから……もし、あの石とは正反対の性質を持つ魔法石を見つけたら、そちらの記録も調べるといい」


「正反対の魔法石?」


「古い伝承に、そんな石が出てくるのさ。名前は知らない。でも、願いを叶える石だと言われている」


和人と涼音は顔を見合わせた。

願いを叶える石。

元の世界へ帰る方法を探している二人にとって、その言葉は聞き流せるものではなかった。


「その石がある場所は?」


涼音が尋ねた。

老婆は、遠くの山並みを見つめた。


「ラリサ村の北にある遺跡……。昔は、そこへ願い事をしに行く者がいたそうだよ」


和人は、すぐに地図を取り出した。


「ラリサ村の北……」


そこには、小さな遺跡の印が記されていた。


「行ってみよう」


涼音が頷く。


「ただし、今度は無茶をしないこと」


「分かってるって」


「本当に?」


「……できるだけ」


「そこは絶対って言いなさいよ!」


二人の声が、朝の静かな村に響いた。

だが、二人が村を出た後、老婆は長い間、その背中を見送っていた。


「……どうか、あの子たちが間に合いますように」


老婆の手には、古代文字が書かれた紙が残されていた。

その裏面。

誰も気づかなかった場所に、薄い文字が浮かび上がっていた。


『幸福の石が目覚めるとき、厄災の石もまた目覚める』


老婆は、ゆっくりと目を閉じた。


「また……始まるのかい」


ラリサ村へ向かう道中、二人は小さな商人から馬を二頭購入した。

徒歩での移動は時間がかかりすぎる。

三日という期限を考えれば、少しでも移動時間を短縮する必要があった。


「……財布が、ほとんど空になった」


和人は残った硬貨を数え、肩を落とした。


「異世界生活って、もっと華やかなものだと思ってたんだけどな」


「あんた……ラノベの読みすぎにアニメに見すぎ」


涼音は呆れたように言った。


「でも、馬があれば助かるわ。歩いていたら、日が暮れるもの」


「そうだな。宿代も節約しないと」


「冒険者って大変ね」


「まだ冒険者にすらなってないけどな!」


そんな会話を交わしながら、二人はラリサ村へと向かった。

村に到着したのは、日が傾き始めた頃だった。

食堂で食事を取りながら、二人は地図を広げた。


「この辺りにも遺跡がある」


和人が指差す。


「しかも、かなり古いみたいだ」


涼音は、少しだけ嫌そうな顔をした。


「また遺跡……。前回は雷をまとった魔獣と戦ったのよ?」


「今回は、宝石を探すだけだって」


「その台詞、信じていいの?」


「たぶん……善処します」


涼音はため息をついた。

そのとき、隣の席から老人たちの話し声が聞こえてきた。


「また、北の遺跡に行った冒険者が帰ってこなかったらしいぞ」


「またか。これで何人目だ?」


「昔から、あの遺跡には宝が眠っていると言われておるからな」


「願いを叶える魔法石、だったか?」


その言葉に、和人の手が止まった。


「……願いを叶える石?」


涼音も、そっと耳を傾ける。

老人たちは話を続けていた。


「古代の魔法使いが作った石らしい。正しき者が使えば、人々を幸福へ導くという」


「だが、悪しき者が使えば、国を滅ぼすとも言われておる」


「結局、誰も使い方を知らんのだ。遺跡へ入った者が戻ってこないのも、そのせいかもしれん」


和人と涼音は顔を見合わせた。

老婆が話していた石。

その特徴は、あまりにも一致していた。


「……行くしかないわね」


涼音が小声で言った。

和人は頷いた。


「ただ、さっきの話が本当なら、かなり危険な場所だ」


「だからって、三日後まで何もしないわけにはいかないでしょ」


「それはそうだけど……」


和人は、第三の宝石をしまったバッグに触れた。

元の世界へ帰れるかもしれない。

その希望が、二人を前へ進ませていた。

だが、もしその石が危険なものだったら。

願いを叶える代わりに、何かを奪うものだったら。


「……とにかく、明日の朝に出発しよう」


和人が言った。


「準備は私がする。和人は、魔法の確認をしておいて」


「了解」


二人は、食事を終えると宿へ戻った。

窓の外では、遠くの山並みが夜の闇に沈んでいく。

その山のどこかに、願いを叶える石が眠っている。

そして、二人の知らない場所で、その石を求める者たちもまた動き始めていた。


厄災の遺跡・・・

翌朝。

二人は薬草と包帯、簡単な治療道具を買い込み、村を出発した。

森へ入るにつれ、鳥の声が少なくなっていく。

風の音も弱まり、やがて周囲は不気味な静けさに包まれた。


「……静かすぎない?」


涼音が周囲を見渡す。


「魔物がいる場所では、ほかの生き物が近づかなくなることもあるらしいぞ」


「へぇ~、詳しいじゃない」


「ゲームとラノベの知識だけどな」


「その変な知識が今まで役に立っているのが、ちょっと怖いわ」


和人は苦笑した。

やがて、木々の間から石造りの建物が姿を現した。

崩れた屋根。

苔に覆われた壁。

そして、正面の石門には、古代文字が刻まれている。


『願いを求める者よ、己の心を知れ』


「……なんだか、試されてるみたいね」


涼音が呟いた。


「願いを叶える石なんだから、願いの内容を確認するってことか?」


「だとしたら、私は元の世界に帰りたいって答えるわ」


「俺も同じだ」


和人は杖を構えた。

赤い宝石の隣で、青い光が淡く瞬いている。

水の魔導書を得てから、和人は少しずつ水の魔法を扱えるようになっていた。

しかし、まだ炎ほど自由には操れない。


「涼音、ちょっといいか?」


「何?」


和人は杖を掲げた。


「水の加護」


淡い水色の光が涼音の身体を包み込む。


「これで、少しだけ動きやすくなるはずだ」


涼音は手を握り、足元を確かめた。


「……確かに、身体が軽い」


「まだ長時間は維持できないけどな」


「ありがとう。でも――」


涼音は和人を見た。


「男なら、女の子を前に出さないようにするものじゃない?」


「…………」


和人は目を逸らした。


「いや俺……後衛タイプだから」


「あ!逃げた!」


「すんませんねー!」


二人は小さく笑った。

その直後、和人の表情が引き締まる。


「でも、今回は本当に気をつけよう。嫌な予感がする」


「分かってる」


涼音は剣を抜いた。

二人は石門を押し開き、遺跡の中へ足を踏み入れた。

内部は広く、壁には古代の魔法使いたちが石を掲げる壁画が残されていた。

中央の広間に入った、その瞬間。

カチリ。

足元から、小さな音が響いた。


「……今、何か踏んだ?」


「ん?うんこでも踏んだか?」


「バカ……違うわよ!」


和人が尋ねる。

涼音は足元を見た。

床に刻まれた円形の紋章が、赤黒い光を放っている。


「和人、離れて!」


だが、間に合わなかった。

壁の穴から、無数の魔物が飛び出してきた。

小型の獣型魔物。

甲殻に覆われた虫型魔物。

そして、天井から垂れ下がる、黒い触手のようなもの。


「うわっ、数が多すぎる!」


涼音は剣を振るった。


「水刃!」


水の刃が飛び、迫り来る魔物を切り裂く。

和人も杖を掲げた。


「ファイアボルト!」


炎の弾丸が連続して放たれ、魔物たちを押し返す。


「この程度なら、何とかなる!」


涼音が叫ぶ。

しかし、その言葉を嘲笑うかのように、広間の奥で地面が震えた。

ドンッ。

巨大な影が、暗闇から現れた。

人間の倍以上の体格。

岩のような外殻。

両腕には鋭い爪が生え、胸元には赤黒い紋章が刻まれている。

魔獣は二人を見下ろすと、低く唸った。


「……こいつ、さっきの魔物たちとは違う」


和人が杖を構え直す。


「涼音、距離を取れ!」


だが、魔獣は見た目からは想像できない速さで動いた。

一瞬で涼音との距離を詰める。


「――え?」


鋭い爪が、彼女の背中を直撃した。


「きゃあっ!」


涼音の身体が宙を舞い、石床へ叩きつけられた。


「涼音!」


和人の頭が真っ白になった。

魔獣は倒れた涼音へ向かって、再び腕を振り上げる。

和人は反射的に杖を振った。


「ファイヤーウォール!」


炎の壁が二人の間に立ち上がる。

魔獣の爪が炎にぶつかり、轟音が広間に響いた。

和人は炎の壁の内側へ駆け込んだ。


「おい、涼音! しっかりしろ!」


涼音は苦しそうに息をしていた。


「……大丈夫。ちょっと、油断しただけ……」


「全然大丈夫じゃないだろ!」


和人は震える手を彼女の背中へ向けた。


「水よ……ヒールウォーター!」


淡い水色の光が傷口を包み込む。

血は少しずつ止まり、傷もゆっくりと塞がっていく。

しかし、完全には治らなかった。


「くそっ……!まだ不完全か」


和人は唇を噛んだ。

回復魔法は、万能ではない。

深い傷を一瞬で治すことも、失われた血液を元に戻すこともできない。

涼音はまだ動けそうになかった。

そのとき――。

バキッ!

炎の壁に亀裂が走った。

魔獣が、力任せに炎を打ち破ろうとしている。

和人は立ち上がった。


「……お前」


声が、自分でも驚くほど低くなった。


「よくも、涼音に……!」


杖の宝石が激しく輝く。

胸の奥から、熱いものが込み上げてきた。

恐怖と怒り。

そして、二度と目の前で大切な人を傷つけさせたくないという、強烈な思い。

和人の周囲で、炎が渦を巻き始めた。


「和人……?」


涼音が顔を上げた。

彼の背中から、赤い光が立ち上っている。

今まで見たことのない魔力だった。

だが、涼音には分かった。

このままでは、和人自身が危ない。


「和人、落ち着いて!」


声をかけても、彼は振り返らない。

魔獣が炎の壁を破壊した。


「グオオオオッ!」


咆哮とともに、魔獣が突進する。

和人は杖を構えた。


「燃えろ!」


炎が床を走り、魔獣の足元から噴き上がる。

魔獣は炎を振り払い、なおも迫ってくる。

和人は後退しながら、次々と炎の壁を生み出した。

一枚。二枚。三枚。

魔獣の進路を塞ぎ、動きを制限する。

だが、魔力の消耗は激しかった。

視界が揺れる。

頭の奥で、何かが焼けるような痛みが走った。

それでも、和人は杖を下ろさなかった。


「まだだ……!」


魔獣が最後の壁を破壊する。

その瞬間、和人は真正面から杖を突き出した。


「スピリームエクスプロード!」


爆炎が広間を覆い尽くした。

衝撃で石壁が震え、天井から破片が降り注ぐ。

魔獣の身体が炎に包まれた。

だが――まだ倒れない。

赤黒い紋章が輝き、魔獣は炎の中から立ち上がった。


「……嘘だろ」


和人は荒い息を吐いた。

もう、魔力はほとんど残っていない。

それでも魔獣は、涼音へ向かって歩き始めた。

和人は、その姿を見て歯を食いしばった。


「……まだ、行くのかよ」


杖を握る手が震える。

そのとき、背後から涼音の声がした。


「和人……!」


彼女は壁に手をつき、必死に立ち上がろうとしていた。


「もういい! 私のことはいいから、逃げて!」


和人は振り返った。


「そんなこと、できるわけないだろ!」


「でも、このままじゃ、あなたまで……!」


「分かってる!」


和人は叫んだ。


「分かってるけど……!」


言葉が途切れた。

本当は、怖かった。

魔獣に負けることも。

自分の魔力が尽きることも。

涼音を失うことも。

この世界で命を落とせば、二度と元の世界へ帰れないかもしれない。

それでも。


「……お前を置いて逃げるなんて、できるかよ」


和人は杖を構え直した。


「俺は、涼音と一緒に帰るって決めたんだ」


その言葉に、涼音は目を見開いた。

和人の杖が、再び輝いた。

しかし、今度は違った。

赤い光の中に、青い光が混じっている。

炎と水。

本来なら相反するはずの二つの魔力が、互いを打ち消すことなく、ゆっくりと重なっていく。


「……何だ、これ?」


和人は自分の手を見た。

水の魔導書を手に入れたとき、謎の女性は言っていた。


水は、押さえつけるものではない。

受け入れ、流れを読むものだと。

和人は深く息を吸い込んだ。


怒りに任せて魔力を解き放つのではなく、炎の勢いを抑え、水の流れに乗せる。


「涼音……少しだけ、力を貸してくれ」


涼音は、痛みをこらえながら頷いた。


「……もちろん」


彼女は剣を床へ突き立てた。

青い光が、床の紋章へ流れ込む。

すると、魔獣の足元に水が広がり、赤黒い紋章の光が一瞬だけ弱まった。


「今だ、和人!」


和人は杖を構えた。


「炎よ、集え――!」


炎が一点へ集まっていく。

だが、その中心には水の魔力が流れていた。

炎が暴走しないように、内側から流れを整えている。


「これで……終わりだ!」


和人は杖を突き出した。


「カグヅチ!」


圧縮された炎が、一直線に魔獣へ放たれた。

轟音と閃光。

魔獣の身体を覆っていた赤黒い紋章が砕け散った。

そして、巨体はゆっくりと膝をつき、そのまま石床へ倒れ込んだ。

静寂が戻った。

和人はしばらく、杖を構えたまま動かなかった。

やがて、全身から力が抜ける。


「……倒した、のか?」


その場に膝をついた。

視界が暗くなりかける。


「和人!」


涼音が駆け寄り、彼の肩を支えた。


「ちょっと! しっかりして!」


「……大丈夫。たぶん」


「たぶんじゃない!」


涼音は怒ったように言った。

しかし、その声は震えていた。


「……本当に、心配したんだから」


和人は、彼女の顔を見た。

そして、弱々しく笑った。


「ごめん」


涼音は何も言わず、彼の手を握った。

二人はしばらく、その場で呼吸を整えていた。

勝った。

けれど、簡単な勝利ではなかった。

そして和人は気づいていた。

先ほどの魔法を放った瞬間、確かに何かが変わった。

炎と水が、一つの力として働いた。

偶然なのか。

それとも、二つの宝石が持つ本来の性質なのか。

その答えは、まだ分からない。

しばらく休息を取った後、和人は遺跡の奥へ向かった。

涼音は傷が痛むため、入口近くの壁に寄りかかって待つことになった。


「無理しないでね」


「ああ。何かあったら、すぐ戻る」


和人は杖を構え、慎重に奥へ進んだ。

最深部には、大きな壁画が残されていた。

そこには、白い衣をまとった魔法使いが描かれている。

その手には、小さな石。

石の周囲には、たくさんの人々が集まっていた。

子供を抱く母親。

肩を寄せ合う老人たち。

傷ついた兵士。

誰もが、穏やかな表情を浮かべている。


「……これが、願いを叶える石?」


和人は壁画を見つめた。

しかし、隣の壁画には、まったく異なる光景が描かれていた。

同じ石を手にした人物。

その周囲では、建物が崩れ、人々が逃げ惑っている。

空は黒く染まり、大地には亀裂が走っていた。


「同じ石なのに……」


和人は眉をひそめた。

幸福と、厄災。

二つの光景の違いは、石ではなく、それを手にする人物の姿にあるように思えた。

さらに奥へ進むと、石造りの台座があった。

中央には、淡い光を放つ小さな魔法石が置かれている。

赤黒い光を宿していたデモンズスピリッツとは違い、その石の輝きは穏やかだった。

近づくだけで、心の奥が少し温かくなる。


「……これか」


和人は、ゆっくりと手を伸ばした。

指先が石に触れた瞬間。

ドクン。

心臓が大きく跳ねた。

魔力が身体へ流れ込んでくる。

だが、苦しさはなかった。

むしろ、長い間張り詰めていたものが、少しだけほどけていくような感覚だった。

和人の杖が光る。

赤と青。

そして、魔法石の淡い金色。

三つの光が重なり、台座の周囲に古代文字が浮かび上がった。


『願いを叶える石――メイクトゥルー』


和人は息を呑んだ。


「……メイクトゥルー」


その名前を口にした瞬間、頭の中にかすかな声が響いた。


『願いを……』


「誰だ?」


和人は周囲を見回した。

誰もいない。

声は、それきり聞こえなくなった。

彼は魔法石を慎重に手に取り、台座の隣にある石碑を調べた。

古代文字が刻まれている。

今回は、以前の神殿よりも保存状態がよかった。

和人は急いで紙を取り出し、文字を書き写した。


『この魔法石メイクトゥルーには、人々が幸福になるよう願いを込め、我がすべての魔力を注ぎ込んだ』


和人は、続きを読み取ろうとした。


『正しき心を持つ者が使えば、幸福への道を示す』


『己の欲望のみを満たそうとする者が使えば、厄災への道を開く』


そして、最後にこう記されていた。


『願いを叶えることと、願いの代償を消すことは、同じではない』


和人の手が止まった。


「……願いの代償?」


それ以上の説明はなかった。

文字の一部は、長い年月によって失われていた。

だが、その一文だけは、はっきりと残っていた。

和人はメイクトゥルーを見つめた。

この石は、願いを叶える。

しかし、願いを叶えた結果まで保証してくれるわけではない。

元の世界へ帰る。

その願いが叶ったとして、もし帰るためにこの世界の何かを犠牲にしなければならないとしたら。

それでも、自分は願うのだろうか。


「……今は、答えを出せないな」


和人は石を布で包み、バッグへしまった。

その瞬間、遺跡の奥から低い振動が伝わってきた。

ゴゴゴゴ……。

壁画の一部が、ゆっくりと動き始める。

その向こうには、隠された小部屋があった。

和人は警戒しながら中を覗いた。

そこには、壁一面に古代文字が刻まれていた。

中央には、二つの秘宝を示す絵。

ディストラとマダスカス。

そして、その下に描かれていたのは、デモンズスピリッツとメイクトゥルーだった。

二つの石は、対になっていた。

さらに、その中央には第三の宝石。


「……やっぱり、全部つながってるんだ」


和人は文字を一つずつ書き写した。

そのとき、壁の端にある記述が目に入った。


『二つの秘宝は、世界を守るために分けられた』


『二つの石は、願いと厄災を封じるために作られた』


そして、その下には、短い一文が刻まれていた。


『封印を解く者は、世界の記憶を呼び覚ます』


和人は、しばらくその文字を見つめていた。


「……世界の記憶?」


答えを探すように壁画を見回す。

だが、それ以上の記述は見つからなかった。

代わりに、背後から涼音の声が聞こえた。


「和人! 大丈夫?」


「涼音?」


振り返ると、涼音が壁を支えにしながら立っていた。


「無理するなって言っただろ!」


「そっちこそ、一人で奥へ行きすぎよ」


涼音は和人の手元を見た。


「それが、魔法石?」


「ああ。メイクトゥルーっていうらしい」


和人は石碑の写しを見せた。

涼音は読み終えると、難しい顔をした。


「願いを叶える石なのに、代償がある……」


「そうみたいだ」


「じゃあ、元の世界に帰る願いを叶えたら、何が起きるんだろう?」


和人は答えられなかった。

その疑問こそが、二人の未来を左右することになる。

遺跡を出た二人は、森の入口で休息を取った。

涼音の傷はまだ痛んでいたが、歩くことはできるようになっていた。

和人はメイクトゥルーとデモンズスピリッツを並べた。


「こっちは世界を滅ぼす可能性がある石。そして、こっちは願いを叶える石」


涼音が二つを見比べた。


「正反対ね」


「でも、どちらも世界を変える力を持っている」


和人は石を布で包み直した。


「偶然、同じ時代に存在しているとは思えない」


「じゃあ、誰かが作った?」


「その可能性はある。問題は、誰が、何のために作ったのかだ」


涼音は地図を広げた。


「前の神殿で見た壁画には、三つの宝石と二つの秘宝が描かれていた。今回の遺跡にも、同じ絵があった」


「つまり、メイクトゥルーも、帰還の門と関係しているのかもしれない」


和人は、第三の宝石を取り出した。

その輝きは、以前よりも弱くなっている。

しかし、メイクトゥルーを近づけると、わずかに光が強まった。


「……反応してる?」


涼音が身を乗り出した。


「たぶん。第三の宝石は、門を開くための鍵。メイクトゥルーは、その門を開いたときに必要になる力なのかもしれない」


「でも、デモンズスピリッツも関係している」


「ああ。だから、まだ何も使わない方がいい。リスクがありすぎる」


和人は二つの石を見つめた。

願いを叶える石。

世界を滅ぼすかもしれない石。

その二つを、誰かが同じ仕組みの中に組み込んだ。

ならば、そこには必ず理由があるはずだ。

涼音が静かに口を開いた。


「和人。もし、元の世界に帰るために、この世界を危険にさらす必要があるとしたら……どうする?」


和人はすぐには答えなかった。

自分たちが帰りたい世界には、家族も、友人も、これまでの生活もある。

帰りたい。

その気持ちは、今も変わらない。

だが、この世界で出会った人々も、確かに生きている。


「……そのときにならないと、分からない」


和人は正直に答えた。


「でも、何も知らないまま、誰かを犠牲にするようなことはしたくない」


涼音は、ほっとしたように微笑んだ。


「うん。それなら、私も同じ」


二人は地図を見つめた。

まだ、帰還の門を開く方法は分からない。

だが、確かな手掛かりは増えていた。

ディストラ。マダスカス。デモンズスピリッツ。メイクトゥルー。

そして、第三の宝石。

それぞれの力がどこかで結びついている。

その答えを知るには、残された時間があまりにも短かった。

ラリサ村へ戻った二人は、宿屋で数日分の情報を整理した。

和人は古代文字の写しを広げ、涼音は地図に記された神殿の位置を確認する。


「始まりの神殿まで、ここからだとかなり遠いわね」


「馬で急いでも、一日では厳しいかもしれない」


「残り三日……間に合う?」


和人は地図を見つめた。


「普通に進めば、ぎりぎりだ。途中で魔物に遭遇したり、追っ手に見つかったりしたら……」


「考えていても仕方ないわ。出発しましょう」


涼音は立ち上がった。

しかし、和人は動かなかった。


「待ってくれ。もう一つ、気になることがある」


「何?」


和人は、遺跡で写し取った古代文字の一部を指差した。


『封印を解く者は、世界の記憶を呼び覚ます』


「この文章、どういう意味だと思う?」


涼音は少し考えた。


「封印を解いたら、過去に何が起きたのか分かる……という意味かしら」


「俺もそう思った。でも、もしそうなら、世界の記憶っていうのは何だ?」


そのときだった。

和人のバッグの中で、メイクトゥルーが光を放った。

同時に、第三の宝石も輝き始める。


「……また反応した!」


涼音が剣を抜いた。

二つの石は、互いに呼応するように光を強めていく。

そして、地図に記された北の遺跡の印が、赤黒い光を放った。


「何だ……?」


和人が地図に手を伸ばした瞬間、視界が揺れた。

一瞬だけ、見知らぬ光景が頭の中に流れ込んでくる。

巨大な神殿。

崩れ落ちる石柱。

逃げ惑う人々。

そして、空を覆い尽くす黒い光。

その中心に立つ、一人の人物。

人物は手にした石を掲げ、叫んでいた。


『願いを叶えろ! すべてを元に戻せ!』


次の瞬間、世界が暗転した。


「和人!」


涼音の声で、和人は我に返った。


「……今のは、何だ?」


和人は額を押さえた。


「遺跡の記憶……なのか?」


涼音は、机の上の二つの石を見つめた。


「メイクトゥルーが、過去の出来事を見せたのかもしれない」


「だとしたら、あの石を使った誰かが、世界を変えようとした?」


二人は顔を見合わせた。

そのとき、宿屋の扉が乱暴に叩かれた。

ドンドン!


「開けろ! 王国の命令だ!」


和人と涼音は、同時に顔を上げた。

窓の外には、武装した兵士たちが集まっている。

その中に、リンドス村で見た謎の紋章を掲げる男の姿があった。


「……また来たのか」


和人は杖を握った。

涼音は剣を構える。

しかし、扉の向こうから聞こえた言葉に、二人は動きを止めた。


「我々は、お前たちを捕らえに来たのではない!」


男の声が響く。


「始まりの神殿へ向かうのなら、話がある!」


和人と涼音は顔を見合わせた。

罠かもしれない。

だが、三日という期限が迫っている。

情報を得る機会を、簡単に捨てるわけにはいかなかった。

和人は扉の前へ進み、慎重に問いかけた。


「……あんたは何者だ?なんで俺たちのことをしてる?」


扉の向こうで、男が答えた。


「我々は、古代の封印を守る者だ」


「封印……?」


「お前たちが手にした石は、世界を救う鍵にも、滅ぼす引き金にもなる」


男は、一度言葉を切った。


「そして、三日後に門が開けば――この世界の歴史そのものが変わる」


和人の手の中で、第三の宝石が強く光った。

男は続けた。


「お前たちが本当に元の世界へ帰りたいのなら、始まりの神殿へ行く前に、知っておかなければならないことがある」


扉の隙間から、一枚の古い羊皮紙が差し込まれた。

そこには、二人がまだ見たことのない紋章が描かれていた。

三つの宝石。

二つの秘宝。

そして、その中央には――人間の世界へ通じる門。

その下に記された文字を見た瞬間、和人の顔色が変わった。


『帰還の門を開くには、世界を一つ選ばなければならない』


涼音が、震える声で呟いた。


「……世界を、一つ選ぶ?」


男の声が、扉の向こうから響いた。


「そうだ。お前たちが帰る世界か、それとも、この世界か」


その言葉と同時に、メイクトゥルーが淡い光を放った。

そして、遠く離れた山脈の奥。

始まりの神殿の地下で、封印されていた何かが、ゆっくりと目を覚ました。


『帰還の門、再起動まで残り二日』


残された時間は、もうわずかしかない。

和人は、涼音を見た。

涼音も、和人を見つめ返した。

二人は元の世界へ帰りたい。

その願いだけは、今も変わらない。

だが、その願いが、この世界を滅ぼすことにつながるのだとしたら。

二人は、何を選ぶのだろうか。

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