第3章 敵陣の向こう側――初陣、そして最悪の再会
――国境を越えたヴァリアス軍。
その報せがデュランダル王国へ届いた日から、世界は静かに、しかし確実に動き始めていた。
八百年もの長きにわたり続いてきた、魔法王国ヴァリアスと剣の王国デュランダルの対立。
これまでにも、国境付近で小競り合いが起きることはあった。
だが、今回の侵攻は違った。
ヴァリアス軍は国境の砦を押さえ、物資を運び込み、次の進軍に備えていた。対するデュランダルも、黙って領土を明け渡すつもりはない。
両国の王城では軍議が繰り返され、兵士たちは武器を磨き、魔法兵たちは古びた魔導書を読み返す。
そして、その戦争の渦中にいる二人の少年少女は――。
「柊和人」「観音寺涼音」
異世界から召喚された幼馴染みだった。
二人は互いの居場所を知らないまま、別々の国で力を身につけていた。
和人は炎の魔法を。
涼音は藍色の宝石を宿す剣の力を。
それぞれの国に必要とされる存在になりつつあることも知らずに。
そして、国境を越えたあの日から一か月。
二人にとって初めての戦場が、目前に迫っていた。
その戦場で待ち受けているのが、敵兵なのか、それとも――。
ヴァリアス王国・軍事作戦本部
「……初陣、か」
和人は、机いっぱいに広げられた地図を見つめていた。
山、森、川、街道。
その上には、青と赤の駒が幾つも並べられている。
青はヴァリアス軍。
赤はデュランダル軍。
ゲームの戦略マップなら、見慣れた光景だった。
しかし、今は違う。
駒の一つ一つの向こう側には、命を懸けて戦う人間がいる。
「なんか……ゲームの作戦会議みたいだな」
「ゲーム?なんですかそれは?」
即座に返ってきた声に、和人は肩をすくめた。
「いや。ちょっと緊張をほぐそうとしただけだよ」
「緊張しているのなら、なおさら作戦を頭に入れてください」
金髪の女性――エリスは、涼しい顔で地図を指さした。
王国軍の参謀を務める彼女は、敵味方の配置や地形を読み解く能力に優れている。若くして軍議に参加するほどの才覚を持ち、兵士たちからも一目置かれていた。
その隣には、長身の男が立っている。
ヴァリアス屈指の魔法使いオルスター。
魔法兵を率いる指揮官であり、数々の実戦を経験してきた歴戦の魔法使いだ。
「ところで、オルスター」
「何だ?」
「指揮官って、後ろでどっしり構えてるものじゃないのか? なんで俺たちと一緒に最前線へ行くんだよ」
「必要だからだ」
「……その答え、便利すぎない?」
オルスターは真顔のままだった。
「魔法兵を率いる者が、魔法の届かない場所にいてどうする。部下に命令する以上、自分も危険を引き受けるのはしごく当然。それだけだ」
「なるほど……。正論すぎて何も言えない」
和人が小さく息を吐くと、エリスが地図の一点を指した。
「今回の戦場は、タリージェ草原です」
国境に近い、広大な平原。
遮蔽物が少なく、互いの軍勢を遠くから確認できる場所だ。
遮蔽物がない分、魔法側が圧倒的に有利な地形だ。
「斥候の報告によれば、デュランダル軍は約千五百。対する我々は千です」
「五百人も差があるのか……」
「兵数だけで勝敗が決まるわけではありません。地の理を生かし戦術が勝敗を分けます」
エリスは淡々と続けた。
「敵が数にものを言わせて正面から攻めてくるなら、こちらは陣形と魔法で対抗します」
彼女の指が、地図の中央をなぞった。
「オルスター隊と和人様が中央で敵を引きつけます。敵が中央に戦力を集中させたところで、私の部隊が左右から展開。敵の隊列を分断し、包囲します」
「三日月の陣、だったな」
「ええ。敵の全軍を一度に相手にせず、崩れた部分から押し返す作戦です」
和人は地図を見つめた。
理屈は分かる。
だが、頭で理解できることと、実際にできることは違う。
「……一つ聞いていいか?」
「どうぞ」
「俺が失敗したら、どうなる?」
エリスの指が止まった。
「作戦に支障が出ます」
「だよな……」
「だから、失敗しないように準備するのです」
あまりにも当然の答えだった。
和人は苦笑した。
「手厳しいな……エリスって、もうちょっとこう……励ましの言葉とかないの?」
「ありますよ」
「おっ」
「生きて帰ってきてください。あなたが倒れれば、作戦の修正が必要になりますので」
「最後の一言が余計なんだよ!」
思わず声を上げると、オルスターが小さく笑った。
だが、すぐにその表情を引き締める。
「和人。戦場では、魔法の威力だけが重要なわけではない。味方の位置を見ろ。敵の動きを見ろ。自分が何をすべきか、常に考えろ」
「……分かった」
「それと、あの大魔法は使いどころを間違えるな」
和人は杖を握り直した。
赤い宝石が埋め込まれた杖。
この世界へ来た初日、湖のほとりで授かったものだ。
炎を操るたび、宝石は熱を帯びる。
そして和人は、この一か月で幾つもの魔法を身につけてきた。
炎の弾を放つ魔法。
炎の壁を作る魔法。
敵の進路を塞ぐ魔法。
その中でも、ひときわ強力なのが――《インフェルノ》。
だが、強力な魔法には相応の代償がある。
魔力を大きく消耗し、制御を誤れば味方まで巻き込んでしまう。
「……俺に、できるかな」
ぽつりと漏れた本音。
エリスは一瞬だけ、和人の顔を見た。
「できるかどうかではありません」
「え?」
「あなたにしかできない役目がある。ならば、その役目を果たせるよう最善を尽くす。それだけです」
和人はしばらく黙っていた。
そして、杖を強く握りしめる。
「……分かった。俺にできることをやるよ」
「期待しています」
「だから、その期待を少しだけ軽くしてくれって……」
冗談めかして返したものの、胸の奥にある緊張は消えなかった。
この世界では、失敗してもやり直せる保証などない。
それでも――。
和人は、逃げないと決めた。
デュランダル王国・作戦室
同じ頃。
デュランダル王国の作戦室でも、軍議が行われていた。
「敵は約千。こちらは千五百。数の上では優勢ね」
アリシアが地図を広げる。
彼女はデュランダルの騎士団を率いる女騎士であり、涼音がこの国で出会った先輩でもあった。
涼音は騎士としての訓練を重ね、少しずつこの世界の戦い方を学んでいた。
それでも、目の前の地図を見れば緊張する。
「じゃあ、勝てる可能性は高いんですね?」
「数だけならね」
アリシアは、ヴァリアス軍を示す駒に視線を落とした。
「問題は、遮蔽物がないことと敵に強力な炎の魔法使いがいることよ」
涼音の表情が変わった。
「……炎の魔法使い」
「まだ身元は分かっていない。けれど、斥候の報告では、通常の魔法兵とは桁違いの火力を持っているそうよ」
胸の奥がざわついた。
炎の魔法。
異世界から来た少年。
魔法使いになりたいと、何度も楽しそうに話していた幼馴染み。
「……和人」
思わず、その名がこぼれた。
「知り合いなの?」
アリシアが尋ねる。
涼音は一瞬迷い、それから首を横に振った。
「まだ、そうと決まったわけじゃありません」
「そう」
アリシアは、それ以上追及しなかった。
「涼音。今回、あなたは後衛に配置するわ」
「えっ? でも……」
「初陣でしょう。まずは戦場の動きを見なさい。あなたの剣が強いことは分かっている。でも、戦場は一対一の勝負とは違うわ」
涼音は腰の剣に触れた。
柄に埋め込まれた藍色の宝石。
この剣を手にしてから、水を操る不思議な力が使えるようになった。
剣を振れば、水が刃となって飛ぶ。
敵の攻撃を逸らし、時には魔法さえ切り裂く。
だが、力を使いこなせているとは言い切れなかった。
「……分かりました。死にたくはないので、まずは命令に従います」
「いい返事ね」
アリシアは地図を畳み、涼音に向き直った。
「一つ、約束して」
「何ですか?」
「自分の命を軽く扱わないこと。あなたが誰かを守りたいと思うなら、まず自分が生き残りなさい」
涼音は目を伏せた。
自分が守りたい人。
その顔は、すぐに思い浮かんだ。
「……はい」
そして、涼音は顔を上げる。
「でも、いつかは前に出ます。自分の力で戦えるようになりたいんです」
アリシアは、ほんの少しだけ微笑んだ。
「そのときは、私が隣に立つわ」
涼音は頷いた。
だが、心の中には一つの不安が残っていた。
もし、敵の炎の魔法使いが和人だったら。
もし、戦場で彼と出会ってしまったら。
自分は、彼に剣を向けられるのだろうか。
その答えを、涼音はまだ持っていなかった。
◆タリージェ草原――初陣
翌朝。
タリージェ草原を、冷たい風が吹き抜けていた。
地平線から朝日が昇る。
その光を受けて、無数の剣と槍が輝いた。
「敵軍、視認!」
「デュランダル軍、前進を開始!」
伝令の声が飛び交う。
両軍の距離が、少しずつ縮まっていく。
和人は、オルスターの隣で杖を握りしめていた。
「……うわ。すごい人数だな」
目の前に広がる兵士の列。
鎧の擦れる音。
馬のいななき。
号令に合わせて踏み鳴らされる足音。
画面越しに見た戦争ゲームとは、何もかもが違う。
土の匂いも、風の冷たさも、兵士たちの荒い息遣いも、緊張感も、すべてが現実だった。
「和人、前を見ろ」
オルスターの声に、和人は我に返る。
「敵が動くぞ。合図があるまで、無闇に魔法を撃つな」
「了解」
その瞬間。
戦場に角笛が鳴り響いた。
――ブオオオオッ!
デュランダル軍が一斉に前進する。
「盾を構えろ!」
「魔法兵、詠唱開始!」
オルスターが杖を掲げた。
「――光よ、我らの前に道を示せ!」
眩い閃光が戦場を走った。
敵兵たちが一瞬、視界を奪われる。
「今だ! 前衛、押し返せ!」
ヴァリアス軍が動き出した。
剣と剣がぶつかり合い、盾が軋む。
怒号が飛び交い、草原は瞬く間に戦場へと変わった。
「和人!」
「分かってる!」
和人は杖を掲げた。
赤い宝石が、熱を帯びる。
「――燃えろ!」
炎が地面を走り、敵の前衛を押しとどめた。
「炎の魔法だ!」
「怯むな! 進め!」
敵兵たちは、炎を避けながら隊列を立て直そうとする。
和人は続けて杖を振った。
「ファイアボルト!」
炎の弾が飛び、敵の進路に着弾する。
爆ぜる火花。
立ち上る煙。
敵の足が止まった。
――いける。
そう思った瞬間、敵兵の一隊が炎の隙間を抜け、中央の防衛線へと迫ってきた。
「右だ! 敵が回り込んでくる!」
オルスターが叫ぶ。
「和人、道を塞げ!」
「分かった!」
和人は杖を地面へ向けた。
「《フレイムウォール》!」
轟音とともに、炎の壁が立ち上がった。
敵兵たちが足を止める。
その隙を逃さず、オルスターが部隊を動かした。
「今だ! 中央を押し返せ!」
ヴァリアス軍が前進する。
そして――。
「エリス隊、展開!」
戦場の左右から、エリス率いる部隊が姿を現した。
「右翼、前進! 左翼は敵の退路を遮断してください!」
「了解!」
「三日月の陣を完成させます!」
中央で敵を引きつけ、左右から包囲する。
作戦どおりだった。
デュランダル軍の隊列が乱れ始める。
「挟まれるぞ!」
「隊列を立て直せ!」
「退路を確保しろ!」
戦況が大きく傾いた。
和人は息を呑んだ。
「……本当に、うまくいってる」
だが、そのときだった。
視界の端で、一人の兵士が倒れるのが見えた。
鎧の隙間から血が流れ、仲間が必死に声をかけている。
少し離れた場所では、敵兵も地面に倒れ込んでいた。
和人の手が震えた。
自分が放った炎の向こう側にも、人間がいる。
敵も味方も、痛みを感じる。
倒れれば、二度と立ち上がれないかもしれない。
「……俺は」
言葉が喉につかえた。
「俺は、本当に戦ってるんだな……」
「そうだ」
オルスターが、和人の前に立った。
「だから、目を逸らすな。だが、恐怖に飲まれるな。お前の魔法を待っている仲間がいる」
「……!」
「守りたいなら、考えろ。今、何をすべきか」
和人は唇を噛んだ。
怖い。
今すぐ逃げ出したい。
それでも、自分の後ろには仲間がいる。
そして、ここで自分が立ち止まれば、彼らが危険にさらされる。
「……分かった」
和人は杖を握り直した。
「俺にできることをやる!」
赤い宝石が、強く輝いた。
「《インフェルノ》!」
轟音が草原を揺らした。
巨大な炎が渦を巻き、敵の進路を塞ぐ。
炎の奔流が地面を走り、デュランダル軍の前進を押しとどめた。
「何だ、あの炎は!?」
「下がれ! 巻き込まれるぞ!」
敵兵たちが後退する。
その隙を逃さず、エリス隊が左右から圧力をかけた。
やがて、デュランダル軍は隊列を維持できなくなり、一時撤退を始めた。
「追撃はするな! 隊列を維持してください!」
エリスの指示が飛ぶ。
戦場に、少しずつ静けさが戻ってきた。
和人は杖を下ろし、その場に膝をついた。
「……終わった、のか?」
「この戦場では、こちらが優勢になった。それだけだ」
オルスターは遠ざかる敵軍を見つめていた。
「戦争は一度勝ったくらいで終わらん」
和人は答えなかった。
初めての戦い。
自分の魔法で、戦況を変えた。
それなのに、胸の中には重いものが残っていた。
――涼音は、どこにいるんだろう。
敵の軍勢の向こう側。
そのどこかに、幼馴染みがいるかもしれない。
そう考えると、和人の胸は不安で締めつけられた。
数週間後――変わり始める戦況
タリージェ草原の戦いは、戦争の終わりではなかった。
むしろ、それは長い戦いの始まりにすぎなかった。
国境沿いの砦を巡る攻防。
物資を運ぶ部隊への襲撃。
夜間の奇襲と、明け方の追撃。
両国は何度も衝突し、そのたびに兵士たちの疲労は蓄積していった。
和人もまた、戦場へ出るたびに魔法の使い方を学んでいった。
敵を倒すためだけに炎を放つのではない。
味方を守るために壁を作り、敵の進路を塞ぎ、仲間が退く時間を稼ぐ。
そうした判断を重ねるうち、和人は少しずつ戦場で頼られる存在になっていった。
だが、力を認められるほど、戦争から離れにくくなる。
「和人様がいれば、あの戦線を維持できます」
そんな言葉を聞くたび、和人は複雑な気持ちになった。
自分が必要とされていることは分かる。
けれど、自分が強くなるほど、戦争もまた自分を必要としていく。
一方、デュランダルでは――。
涼音が騎士団の訓練を重ねていた。
剣を振るうたび、藍色の宝石がかすかに輝く。
水を刃のように飛ばす。
敵の攻撃を受け流す。
剣先から放った水流で、相手の足元を崩す。
剣道で培った技術に、この世界の力が加わり、涼音の戦い方は少しずつ変化していた。
それでも、彼女は満足していなかった。
「まだ、力に振り回されているわね」
訓練を見ていたアリシアが言った。
涼音は荒い息を整えながら、剣を握り直す。
「分かってます。でも、もっと使いこなせるはずなんです」
「焦らないこと。力を急いで引き出そうとすれば、剣に呑まれるわ」
涼音は宝石を見つめた。
この剣を手にしたとき、確かに声が聞こえた。
――水の継承者よ。
あの声は、何を意味していたのだろう。
なぜ自分が選ばれたのか。
なぜ和人と離れ離れになったのか。
考えても、答えは見つからない。
それでも涼音は訓練を続けた。
和人を探すため。
元の世界へ帰る方法を見つけるため。
そして、いつか自分の力で未来を選ぶために。
しかし、二人の願いとは裏腹に、戦況は急激に悪化していった。
◆デュランダル王国・緊急軍議
「敵軍、推定五千!」
緊急報告を受け、作戦室の空気が張り詰めた。
「五千ですって?」
アリシアの眉が動く。
「はい。ヴァリアス軍の大規模な部隊が国境を越え、王都へ通じる街道に迫っています」
地図の上に、新たな駒が置かれた。
その数は、これまでの戦闘とは明らかに違う。
涼音は、思わず息を呑んだ。
敵兵、五千。
その中に、和人がいるかもしれない。
「……本気で攻めてくるんですね」
「ええ。ここを突破されれば、王都までの道が開かれるわ」
アリシアは地図を指でなぞった。
「敵の中核には、例の炎の魔法使いがいる可能性が高い」
涼音の拳に力が入る。
「アリシアさん」
「何?」
「敵にいるかもしれないんですよね……和人が」
アリシアは、涼音の顔を見つめた。
「可能性はあるわ。でも、確証はない」
「……」
「涼音。あなたに前線を任せたい」
涼音は顔を上げた。
「私が?」
「あなたの水の力なら、敵の炎を抑えられる可能性がある。私の風の刃は敵を切り裂けても、炎そのものを消せるとは限らない」
アリシアは涼音の剣に目を落とした。
「あなたの力は、あの炎に対抗するための切り札になるかもしれない。もしかしたら戦況を大きく変えるわ」
涼音は、しばらく黙っていた。
騎士として、自分の力を必要とされている。
それは嬉しい。
だが、その力を向ける相手が和人だったら。
自分は、彼を傷つけずに戦えるのだろうか。
「……もし、敵の魔法使いが和人だったら?」
涼音は、思わず尋ねていた。
アリシアはすぐには答えなかった。
やがて、静かに口を開く。
「そのとき、どうするかはあなた自身が決めなさい」
「それだけですか?」
「あなたの心まで、私が命令することはできないわ」
アリシアは一歩、涼音に近づいた。
「でも、戦場に出る以上、守らなければならないものがある。あなた自身の命も、その一つよ」
涼音は剣の柄を握りしめた。
「……分かりました」
藍色の宝石が、静かに光る。
「私が、止めてみせます」
その言葉が、誰に向けられたものなのか。
涼音自身にも、まだ分からなかった。
◆深夜――ヴァリアス軍前線野営地
その夜。
デュランダル王都へ通じる街道の近くに、ヴァリアス軍の前線野営地が築かれていた。
五千の軍勢すべてが一か所に集まっているわけではない。
主力部隊は街道沿いに展開し、先行部隊が野営地を設けて翌日の進軍に備えていた。
和人たちも、その先行部隊に加わっていた。
陣地のあちこちでは、兵士たちが交代で見張りに立っている。
焚き火の周囲には、明日に備えて休む者たちの姿があった。
和人はテントの中で、地図を眺めていた。
「明朝、敵の防衛線を突破します」
エリスが言った。
「正面から?」
「敵の配置次第です。状況によっては、進軍ルートを変更します」
「……なるべく、味方に被害が出ない方法を考えたいな」
エリスは少しだけ目を細めた。
「あなたは、勝利だけを考えているのではないのですね」
「当たり前だろ。仲間が傷つくところなんて、何度見ても慣れないよ」
和人は杖に目を落とした。
赤い宝石が、焚き火の光を受けて輝いている。
「俺は、魔法を使えるようになっただけだ。人を殺すために、この世界に来たわけじゃない」
「その気持ちは、忘れないでください」
エリスは地図を片づけた。
「今夜は休みましょう。明日の戦いに備えてください」
「分かった」
エリスがテントを出ていく。
一人になった和人は、杖を持ち上げた。
この世界に召喚された理由。
炎の力を与えられた理由。
そして、涼音と離れ離れになった理由。
何一つ、分からない。
「……涼音。無事でいてくれよ」
そのときだった。
「敵襲ぅぅぅっ!」
夜を切り裂く叫び声が響いた。
和人は跳ね起きた。
次の瞬間――。
ドガァァァンッ!!
野営地の一角で爆発が起きた。
地面が揺れ、火の粉が舞い上がる。
「な、何だ!?」
「デュランダル軍の夜襲だ!」
「見張りが突破された!」
テントの外から怒号が飛び交う。
和人は杖を掴み、外へ飛び出した。
闇の中から、剣を持った騎士たちが次々と突入してくる。
「隊列を組め! 魔法兵は後方へ!」
「敵の侵入を食い止めろ!」
野営地は混乱していた。
敵の狙いは、進軍前の指揮系統を乱すこと。
見張りを突破され、兵士たちは十分な隊列を組めていない。
「くそっ……!」
和人は杖を掲げた。
「《フレイムウォール》!」
ゴォォォッ!
炎の壁が立ち上がり、敵の進路を塞ぐ。
「これ以上は進ませない!」
一瞬、敵兵たちの動きが止まった。
だが、その直後。
炎の向こう側で、藍色の光が走った。
――ザンッ!
水の刃が、炎の壁を真っ二つに切り裂いた。
「……は?」
和人は目を見開いた。
炎が左右へ分かれ、火の粉となって夜空に散る。
その向こうに、一人の剣士が立っていた。
鎧を身につけ、剣を構えた少女。
月明かりを受け、腰の宝剣が藍色に輝いている。
剣の周囲には、水が渦を巻いていた。
「突撃ぃぃぃ!!」
少女の声を合図に、デュランダル軍が一気に押し寄せる。
和人は思わず後ずさった。
「なんだ、あの剣……!」
「私が止める!」
オルスターが前へ出た。
彼は杖を地面へ叩きつける。
「大地よ、我が敵を阻め!」
地面が隆起し、岩の壁が敵の前に立ちはだかった。
だが――。
ザンッ!
再び水の刃が走った。
岩の壁が、まるで柔らかい土のように切り裂かれる。
「なっ……何だと……!?」
オルスターの顔から余裕が消えた。
「水の魔法で、私の土壁を斬ったのか……!」
和人は息を呑んだ。
ただの水ではない。
あの剣には、魔法そのものを切り裂くような力がある。
そして、その剣士は迷いなく前へ進んでくる。
「……強い」
和人は杖を握り直した。
このままでは、野営地が突破される。
「和人様! 後退してください!」
エリスが駆け寄ってきた。
「敵の狙いは指揮系統です。あなたが倒れれば、こちらの防衛が崩れます!」
「分かってる!」
和人は敵の動きを見渡した。
騎士たちの後方には、指揮を執る者らしき姿がある。
まずは、敵の進軍を止めなければならない。
和人は杖を構えた。
「炎よ、集まれ――」
その瞬間だった。
水をまとった剣士が、敵兵の間から飛び出した。
そして、和人の目の前で足を止める。
炎の明かりが、少女の顔を照らした。
大きな瞳。
見慣れた表情。
驚きで見開かれた、その目。
和人の思考が止まった。
忘れるはずがない。
何度も一緒に笑い、くだらない話をして、同じ未来を夢見た相手。
「……涼音?」
少女の唇が震えた。
「……え?」
剣を握る手が、わずかに下がる。
「和人……?」
二人の視線が交差した。
「お前……涼音なのか!?」
「和人!? 嘘……なんでここに!?」
「それはこっちの台詞だよ!」
戦場のど真ん中。
敵と味方が入り乱れ、剣戟と怒号が飛び交う中。
二人だけが、時が止まって、まるで放課後の教室にいるかのような会話を始めていた。
「ずっと探してたんだぞ!」
「私だって! 目が覚めたら、知らない場所にいたんだから!」
「お前、デュランダルにいたのか!?」
「和人こそヴァリアスだったの!?」
「俺は魔法使いになったんだよ!」
「私は騎士になったの!」
「……いや、見れば分かる!」
「それもそうね!」
一瞬だけ、二人の間に笑顔が戻った。
たった一か月。
けれど、二人にとっては途方もなく長い時間だった。
ようやく会えた。
ようやく、互いが生きていると分かった。
その安堵が、胸の奥からこみ上げてくる。
だが――。
「敵兵が止まっています! 何が起きているのですか!?」
エリスの声が飛ぶ。
「涼音! そいつから離れろ!」
遠くから、デュランダル兵の叫びが響く。
二人は同時に周囲を見回した。
和人の後ろにはヴァリアスの兵士。
涼音の背後にはデュランダルの騎士たち。
二人は敵同士の陣営に立っていた。
「……あ」
和人が呟く。
「……これ、もしかして」
涼音も、ゆっくりと顔を引きつらせた。
「私たち……敵同士?」
「いやいやいや! そんなことある!?」
「現に、あるじゃん!」
「何でよりによって、こんなところで再会するんだよ!」
「こっちが聞きたい!」
せっかく会えたのに。
「よりによって、戦場でって」
しかも、互いの国の兵士たちに囲まれた状態で。
それ以上ないほど、最悪の再会だった。
そのとき。
和人の杖が、強く震えた。
「……何だ?」
涼音の剣も、同じように震え始める。
赤い宝石。
藍色の宝石。
二つの輝きが、互いに呼応するように明滅した。
「涼音、その剣……!」
「和人の杖も、光ってる!」
次の瞬間。
――キィィィィィンッ!!
耳をつんざくような高音が、戦場に響き渡った。
赤と藍。
二つの光が交わり、眩い輝きとなって広がっていく。
「な、何だ!?」
「全員、目を守れ!」
「魔法攻撃か!?」
兵士たちが一斉に目を覆った。
光は、ただ明るいだけではなかった。
空気が震え、地面が揺れ、二人の足元に幾何学模様が浮かび上がる。
それは、どちらの国の魔法陣とも違っていた。
古代文字のような紋様が、円を描くように広がっていく。
和人の脳裏に、見覚えのない光景が流れ込んだ。
巨大な扉。
二つの台座。
それぞれに置かれた、赤と藍の宝石。
そして、扉の向こうに立つ、顔の見えない誰か。
『二つの継承者が交わるとき――』
誰かの声が響いた。
『封じられた道は、再び開かれる』
「……誰だ!?」
和人が叫んだ瞬間、光が弾けた。
ドォォォォンッ!!
衝撃波が戦場を駆け抜ける。
兵士たちが吹き飛ばされ、焚き火が消え、夜の闇が一瞬だけ昼のように照らされた。
そして、すべてが静まり返った。
和人と涼音は、互いの手を握ったまま立ち尽くしていた。
二人の周囲には、焦げた地面と、光の残滓だけが残っている。
「……今の、何だったんだ?」
和人が呟く。
「分からないわよ……」
涼音も、剣を見つめた。
藍色の宝石は、先ほどまでの輝きを失い、静かに沈黙している。
だが、二人は確かに聞いた。
封じられた道。
二つの継承者。
その言葉が意味するものは、まだ分からない。
しかし、この杖と剣が偶然に与えられたものではないことだけは、二人にも感じ取れた。
「……和人」
涼音が、そっと声をかける。
「ん?」
「会えて、よかった」
和人は彼女を見た。
そして、ようやく笑った。
「……ああ。俺もだ」
その笑顔は、ほんの数秒で消えた。
「たださ」
和人は周囲を見渡す。
倒れた兵士たち。
呆然とする味方。
そして、こちらへ駆け寄ってくる両軍の指揮官たち。
「これ、かなりまずくない?」
涼音も周囲を見た。
「……かなりどころじゃないわね」
二人は顔を見合わせた。
そして、同時に叫ぶ。
「逃げよう!」
二人は走り出した。
「おい、待て! 和人様!」
「涼音! 戻りなさい!」
エリスとアリシアの声が、夜の森へと響いていく。
だが、二人は振り返らなかった。
◆名もなき森――二人だけの逃避行
どれほど走っただろう。
野営地の明かりが見えなくなり、兵士たちの声も遠ざかっていった。
二人は森の奥で、ようやく足を止めた。
「はぁ……はぁ……もう、無理……」
涼音が大きな木にもたれかかる。
和人も、近くの岩に腰を下ろした。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
夜風が木々を揺らす。
遠くから、鳥の鳴き声が聞こえた。
戦場の喧騒が嘘のようだった。
やがて、和人が口を開く。
「……生きてたんだな」
涼音は顔を上げた。
「和人もね……」
「一か月だぞ。一か月も、どこにいるか分からなかったんだ」
「私だって、ずっと探してたんだから」
涼音は少しだけ頬を膨らませた。
「最初はゲームの続きかと思った。でも、痛みもあるし、お腹も空くし……。どう考えても普通じゃなかった」
「俺もだよ。目が覚めたら湖のそばで、知らない女性に魔法を与えられてさ」
「何それ。私なんて、いきなり剣を渡されたんだよ?」
「いや、そっちも大概だろ……」
二人は顔を見合わせ、久しぶりに笑った。
笑っているうちに、和人はようやく実感した。
本当に、会えたのだ。
もう二度と会えないかもしれないと思っていた幼馴染みに。
「でも……よかった」
和人の声は、小さかった。
「本当に、よかった」
涼音も、何も言わずに頷いた。
その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
だが、再会の喜びに浸っていられる時間は長くなかった。
涼音は、自分の剣に目を落とした。
「ねえ、和人。さっきの光……」
「ああ。俺にも聞こえた」
「封じられた道、って言ってたよね」
「二つの継承者、ともな」
和人は自分の杖を見つめた。
赤い宝石。
涼音の剣に埋め込まれた、藍色の宝石。
二つの宝石は、先ほどのように光ってはいない。
それでも、どこか互いを意識しているような、不思議な感覚が残っていた。
「私たちが召喚されたことと、関係があるのかな」
「たぶんな」
和人は少し考え、言葉を続けた。
「この世界には、八百年続いてる戦争がある。二つの国には秘宝があるって話も聞いた。俺たちが持ってる杖と剣も、普通の道具じゃない」
「しかも、二つを近づけたら、あんなことが起きた」
「偶然とは思えないよな」
涼音は唇を結んだ。
「……私たち、何かのために呼ばれたのかもしれない」
「それが何なのかは、まだ分からないけどな」
和人は立ち上がった。
「一つだけ、はっきりしてることがある」
「何?」
「俺は、涼音と戦いたくない」
涼音は目を見開いた。
和人は真剣な表情で続ける。
「ヴァリアスが正しいのか、デュランダルが正しいのか。俺には、まだ分からない。でも、どっちかの国にいるってだけで、お前と殺し合うなんて絶対に嫌だ」
涼音は剣を握る手に力を込めた。
「……私も、同じ」
彼女は、ゆっくりと剣を鞘に収めた。
「私は騎士になった。デュランダルの人たちにも、助けてもらった。だから、簡単に国を裏切ることはできない」
「分かってる」
「でも、和人を敵だと思いたくない」
涼音は、まっすぐに和人を見つめた。
「だから、真実を知りたい。どうして私たちが召喚されたのか。どうして二つの国は戦い続けているのか。そして、あの秘宝が何なのか」
和人は頷いた。
「俺も同じことを考えてた」
二人は、しばらく見つめ合った。
ようやく再会できた。
けれど、元の世界に帰る方法も、この世界に隠された真実も、まだ何一つ分かっていない。
「……まずは、戦場から離れよう」
和人が言った。
「そうだね。追手が来る前に、休める場所を探そう」
「そのあと、秘宝について調べる」
「二人で?」
「ああ。今度こそ、離れ離れにならないようにな」
涼音は微笑んだ。
「約束ね」
二人は、拳を軽く合わせた。
その小さな約束が、八百年続いた戦争にどれほど大きな影響を与えるのか。
このときの二人は、まだ知らなかった。
森を抜けた先に、小さな村があった。
その村の名はニース。
街道から少し外れた場所にある、農業と旅人相手の商売で暮らす村だ。
夜明けが近づく頃、二人はようやく村の入口へたどり着いた。
「……助かった。もう一歩も歩けないかと思った」
和人が肩を回す。
「私はまだ歩けるけど?」
「さっき、木にもたれて動けなくなってたのは誰だっけ?」
「……それは、休憩してただけ」
「はいはい」
久しぶりの軽口に、二人はまた笑った。
村の宿屋を見つけると、二人は部屋を借り、ひとまず身体を休めることにした。
しばらくして、食堂に温かい食事が運ばれてくる。
和人は一口食べた瞬間、目を輝かせた。
「……うまい!」
「そんなに?」
「戦場の携帯食しか食べてなかったんだぞ。温かいスープって、こんなにありがたいものだったんだな……」
「大げさね」
そう言いながら、涼音もスープを口に運ぶ。
「……でも、確かにおいしい」
二人は、しばらく黙って食事を楽しんだ。
ようやく、落ち着いて話ができる。
そのとき、涼音が口を開いた。
「ねえ、和人」
「ん?」
「これから、どうする?」
和人はスプーンを置いた。
「まずは情報を集めよう。二つの秘宝について調べたい」
「私もそう思ってた。剣を手に入れたとき、声が聞こえたんだ。『水の継承者よ』って」
「継承者……」
「私たちが持ってる道具には、何か秘密がある。きっと、二つの国の秘宝とも関係してるんだと思う」
和人は頷いた。
「俺の杖をくれた人も、何かを知っているような感じだった。でも、詳しいことは教えてくれなかった」
「なら、調べるしかないね」
「そういうことだ」
二人は顔を見合わせた。
「まずは、図書館か古い記録が残っている場所を探そう」
「それと、できればこの世界の地理も知りたい。元の世界に戻る方法があるかもしれないし」
「賛成」
二人の方針が決まった。
だが、その直後。
食堂の入口で、村人たちが何やら騒ぎ始めた。
「おい、これを見ろよ!」
「王国からのお触れだってさ!」
一人の男が、壁に紙を貼り出した。
そこには、二人の顔が描かれていた。
和人はスープを飲む手を止めた。
涼音も、ゆっくりと振り返る。
紙の上部には、大きな文字が並んでいた。
【捜索対象】
柊和人。
観音寺涼音。
発見者には高額の報奨金を支給する。
「…………」
和人は、しばらく黙っていた。
やがて、隣の涼音を見た。
「……俺たち、指名手配されてる?」
「違うでしょ。捜索って書いてあるじゃない」
「でも、報奨金って……」
「……賞金首みたいなもの?」
「やっぱりそうじゃん!」
「声が大きい!」
涼音が慌てて和人の口を塞ぐ。
周囲の村人たちが、不思議そうに二人を見た。
和人はそっと涼音の手を外した。
「……どうする?」
「ガンとして知らないふりをする!」
「いや、無理だろ。似顔絵まで貼られてるんだぞ」
「うぅ……確かに」
二人はもう一度、壁の紙を見上げた。
描かれた顔は、驚くほどよく似ている。
「ねえ、和人」
「何?」
「私たち、これからずっと逃げ続けることになるのかな」
和人は、少しだけ考えた。
「……今は、そうなるかもしれない」
「そっか」
「でも、逃げるだけじゃ終わらせない。俺たちが召喚された理由も、戦争の真実も、必ず突き止めよう」
涼音は、静かに頷いた。
「うん。二人でね」
その言葉を交わした二人の背後で、宿屋の扉が開いた。
旅装束の男が一人、食堂へ入ってくる。
男は壁に貼られた捜索状を見上げ、しばらく二人の顔と紙を見比べた。
そして、懐から小さな通信石を取り出した。
「……見つけたぞ」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
「例の二人だ」
通信石の表面に、赤い光が灯る。
「至急、報告する」
その頃――。
◆ヴァリアス王国・軍司令部
「和人様が、行方不明?」
エリスは報告書を握りしめた。
「はい。夜襲の混乱の中で姿を消しました。敵側の騎士も同時に消息を絶っています」
「……二人が同時に?」
エリスの表情が険しくなる。
戦場で二人に何が起きたのか。
報告書には、説明のつかない光が発生したこと、両軍の兵士が衝撃波で吹き飛ばされたことが記されていた。
だが、肝心の原因は分かっていない。
「捜索隊を増やしてください。街道、村、森。考えられる経路をすべて調べるのです」
「承知しました」
エリスは窓の外を見た。
和人の魔法は、すでに王国軍にとって欠かせない戦力となっている。
だが、彼女が気にしていたのは、それだけではなかった。
――あの光は、一体何だったのか。
和人が持つ杖に、どんな秘密が隠されているのか。
「……あなたは、何を知っているのですか。和人様」
エリスの呟きは、誰にも届かなかった。
◆デュランダル王国・騎士団本部
「涼音が戻っていない?」
アリシアは報告を聞き、表情を険しくした。
「はい。戦場で発生した光の直後から、行方が分からなくなっています」
「……光、ね」
アリシアは窓辺に立った。
あの夜、彼女も確かに見た。
戦場を包み込んだ、赤と藍の光。
そして、その中心にいた二人の姿。
「捜索隊を編成して。涼音を見つけるまで、絶対に諦めないこと」
「承知しました」
部下が退室すると、アリシアは一人、机の上の報告書を見つめた。
涼音の剣に埋め込まれた宝石。
炎の魔法使いが持つ杖。
もし、あの二つが共鳴したのだとしたら――。
「……偶然ではないわね」
彼女は、ゆっくりと拳を握った。
涼音は、ただ強いだけの騎士ではない。
この戦争の行方を変えるほどの、何かを秘めている。
そして、その鍵を握っているのは、敵国の少年なのかもしれなかった。
◆ニース――新たな旅立ち
翌朝。
和人と涼音は、宿屋の部屋で荷物をまとめていた。
「まずは、この村で古い記録が残っていないか調べよう」
和人が言った。
「それから、二つの秘宝について詳しい人を探す」
「うん。できれば、両国のどちらにも属していない人がいいね」
「そうだな。片方の国の話だけ聞いても、真実かどうか分からない」
涼音は窓の外を見た。
村人たちが、いつもどおりの朝を迎えている。
畑へ向かう者。
店を開ける者。
荷車を引いて街道へ向かう者。
この世界には、戦争とは関係なく暮らしている人々もいる。
「……ねえ、和人」
「ん?」
「私たちがいた世界って、平和だったんだね」
和人は少しだけ目を伏せた。
「そうだな。少なくとも、朝起きて、学校へ行って、帰ったら俺の愛する二次元の嫁といちゃいちゃ」
「何、バカなこと言ってんのよ……また、戻れるかな」
「戻るさ」
和人は迷わず答えた。
「戻る方法を探す。俺たちがどうして呼ばれたのかも、全部調べる」
涼音は微笑んだ。
「……うん」
二人は部屋を出た。
扉の向こうには、見知らぬ世界が広がっている。
敵国に追われる身となった二人に、安住の地はない。
それでも、今は隣に幼馴染みがいる。
それだけで、進む理由には十分だった。
だが――。
二人の知らないところで、捜索の網はすでに広がり始めていた。
二つの王国。
二つの秘宝。
赤と藍の宝石。
そして、八百年もの間、誰にも解き明かされなかった召喚の謎。
あの夜、二人の宝石が共鳴した瞬間。
遠く離れた場所で、封印されていた古い装置が目を覚ましていた。
暗闇に沈む石造りの神殿。
その最奥にある巨大な扉。
扉に刻まれた二つの紋章が、かすかな光を放つ。
そして、誰もいないはずの神殿に、声が響いた。
『……ようやく、二人が出会った』
『ならば、次の段階へ進めよう』
扉の奥で、何かが動いた。
八百年の眠りを終えた何かが。
その存在を、まだ和人も涼音も知らない。
二人の再会は、ただの偶然ではなかった。
そして、この世界に召喚された理由も――。
まだ、誰も知らない真実へとつながっていた。




