第2章 幼馴染みは敵国にいる――剣士になった少女との初陣、せまる
――異世界に来て、三日目。
「……いや、どう考えても展開が早すぎるでしょ」
デュランダル王城。
その長い廊下を歩きながら、涼音は見渡した。
磨き上げられた石床。壁に並ぶ歴代の王や騎士たちの肖像画。天井から吊るされた豪華なシャンデリア。
そして、すれ違うたびに恭しく頭を下げてくる兵士たち。
昨日まで、彼女はただの高校二年生だった。
剣道部で竹刀を振り、授業が終われば幼馴染みの柊和人とくだらない話をする。夏休みには一緒にゲームを遊ぶ予定だった。
それなのに今は――。
「騎士団長に、王様との謁見に、国同士の戦争……。私、ゲームを始めただけなんだけどなぁ」
涼音は腰に差した剣を見下ろした。
柄に埋め込まれた、藍色の宝石。
光を受けるたび、水面のような輝きがその奥で揺れている。
この剣に選ばれた瞬間、彼女の身体には説明のつかない力が流れ込んできた。剣を振るう感覚は、長年続けてきた剣道に似ている。だが、今の自分は明らかに以前とは違っていた。
踏み込めば、信じられないほど速く動ける。
剣を構えれば、相手の動きが以前より鮮明に見える。
そして、望めば剣に水をまとわせることさえできる。
「……ほんと、ゲームみたい」
「また、その言葉?」
「ひゃっ!?」
背後から声をかけられ、涼音は肩を跳ね上げた。
振り返ると、そこには腕を組んだアリシアが立っていた。昨日、コロシアムで涼音と死闘を演じた女騎士であり、現在は彼女の先輩にあたる人物だ。
「ア、アリシアさん! いつからそこに!?」
「あなたが自分の剣に見とれているあたりからかしら」
「そんなに前から!?」
「ええ。三度ほど声をかけようか迷ったわ」
「いるなら声をかけてくださいよ!もう」
アリシアは楽しそうに笑った。
その笑顔につられ、涼音も少しだけ頬を緩める。
だが、アリシアはすぐに表情を引き締めた。
「国王陛下がお待ちよ。急いで」
「えっ、もうですか?」
「あなたを正式に騎士団へ迎えるための謁見よ」
「……本当に騎士団長になっちゃうんだ」
「昨日、あれだけの戦いを見せておいて、今さら逃げるつもり?」
「逃げませんけど! 心の準備ってものがあるじゃないですか!」
「なら、歩きながら準備なさい」
アリシアはさっさと歩き出した。
涼音は慌ててその後を追う。
――この世界の人たちは、どうしてこうも話が早いのだろう。
そんなことを考えながら。
しかし、王の間へ続く扉の前まで来たとき、涼音の足は自然と止まった。
扉の両脇には、槍を携えた近衛兵が立っている。
その奥から、重々しい空気が漂っていた。
アリシアが振り返る。
「ここから先は、あなたが思っているよりも大事な話になるわ。冗談では済まないこともある」
「……戦争の話ですか?」
アリシアは、静かに頷いた。
「そうよ」
その一言で、涼音の胸に冷たいものが落ちた。
和人の顔が浮かぶ。
魔法使いになりたいと言っていた幼馴染み。
もし彼がこの世界にいるなら、どこにいるのだろう。
そして、どちらの国に――。
「入るわよ」
扉が開いた。
王の間の中央には、豪奢な玉座が置かれていた。その前には数名の大臣と騎士たちが並び、壁には巨大な剣の紋章が掲げられている。
玉座に座る国王は、年齢を重ねながらも威厳を失っていない男だった。
「そなたが、宝剣に選ばれた少女か」
「は、はい! 観音寺涼音です!」
涼音は慌てて頭を下げた。
「顔を上げよ」
国王の声は低く、よく通った。
「アリシアから報告は受けている。コロシアムでの戦い、見事であったそうだな」
「いえ、そんな……。最後は運がよかっただけです」
「謙遜は不要だ。あのアリシアと渡り合い、勝利した。その事実だけでも十分に価値がある」
アリシアが隣で小さく咳払いをした。
「陛下。私としては、運だけで片づけられるのは少々心外なのですが」
「お前も、あの少女の力を認めているのだろう?」
「……それは、もちろんです」
「ならばよい」
国王は涼音へ視線を戻した。
「観音寺涼音。そなたをデュランダル王国の騎士として迎えたい。アリシアの指揮のもとで力を磨き、いずれは騎士団を率いる者として働いてもらいたい」
「騎士として……」
涼音は、自分の腰の剣にそっと触れた。
断る理由はある。
そもそも、ここは本当の世界なのか。元の世界へ帰る方法はあるのか。和人はどこにいるのか。
分からないことばかりだ。
それでも、この世界で生きていくためには、自分にできることを探さなければならない。
そして、剣を握る自分にできることは――。
「……分かりました。私でよければ、よろしくお願いします」
「よい返事だ。期待しているぞ」
国王は満足そうに頷いた。
だが、次の言葉で、その場の空気が一変する。
「では、そなたにも知っておいてもらおう。この国が、なぜ戦い続けているのかを」
国王の背後にある壁画。
そこには、二つの宝物を掲げる人影が描かれていた。
一方は剣を持つ者。
もう一方は杖を持つ者。
「我がデュランダル王国と、魔法王国ヴァリアス。この二国は、八百年にわたり争いを続けている」
「八百年……!?」
「発端は、二つの秘宝だ」
国王は壁画を見上げた。
「伝承によれば、剣の国と魔法の国には、それぞれ古代から受け継がれてきた秘宝が存在する。そして、二つが揃ったとき、世界の理さえ変えうる力が解き放たれるという」
「世界の理……」
「それを求めて、両国は何度も戦った。幾度もの停戦があり、幾度もの裏切りがあった。それでも争いは終わらなかった」
涼音は眉をひそめた。
「でも、八百年も前の話ですよね? 今の人たちまで戦い続ける理由があるんですか?」
一瞬、王の表情が曇った。
「よい問いだ」
大臣たちがざわめく。
「だが、答えは簡単ではない。秘宝を相手に渡せば国が滅びる。そう信じる者もいれば、相手が秘宝を手にすれば世界を支配すると恐れる者もいる。何が真実なのか、今となっては確かなことを知る者も少ない」
「……それって」
涼音は壁画を見つめた。
「どちらかが間違っているんじゃなくて、どちらも相手を信じられなくなっている……ってことですか?」
国王は答えなかった。
その沈黙が、何よりの返事に思えた。
涼音の胸に、嫌な予感が広がっていく。
ヴァリアス……魔法の国だ。
和人がこの世界にいるなら、そこにいる可能性は高い。
「……和人」
思わず、小さな声が漏れた。
「何か申したか?」
「い、いえ! なんでもありません!」
涼音は慌てて首を振った。
国王はそれ以上追及しなかったが、彼女の表情には気づいていたのかもしれない。
「明日から、騎士団の訓練に参加せよ。そなたの力が何なのか、我々も知る必要がある」
「はい!」
こうして涼音は、正式にデュランダル王国の騎士となった。
そして彼女は、まだ知らなかった。
この国が求めている力と、自分が探している幼馴染みの力が、やがて同じ戦場でぶつかり合うかもしれないことを。
翌日の昼。
デュランダル王城の訓練場には、数百人の兵士が集まっていた。
「構え!」
号令とともに、無数の剣が一斉に持ち上がる。
「振り下ろせ!」
ザンッ!
地面を揺らすような音が響いた。
兵士たちは一糸乱れぬ動きで剣を振り、次の号令を待つ。中には大柄な者もいれば、身軽そうな者もいる。鎧の種類も剣の形もさまざまだ。
涼音は、その光景に思わず見入っていた。
「すごい……。部活の練習とは、まるで別物だ」
「ブカツ?まあいいわ、彼らは国境を守る兵士。毎日の訓練が、そのまま命を守ることにつながるのだから」
隣でアリシアが言った。
「剣を振るうだけじゃない。相手の動きを読むこと、仲間と呼吸を合わせること、退くべきときに退く判断。それらすべてが必要になる」
「……私にできるかな」
「できるかどうかを考えるのは、やってからにしなさい」
「厳しいなぁ……」
涼音が苦笑した、そのときだった。
「おい! あれが昨日の優勝者か?」
訓練場の反対側から、ひとりの兵士が歩いてきた。
肩幅の広い男だった。使い込まれた鎧を身につけ、手には訓練用の剣を持っている。顔には、興味と対抗心が半分ずつ浮かんでいた。
「俺はガルド。第三騎士隊の副隊長だ」
「観音寺涼音です。よろしくお願いします」
「話は聞いた。コロシアムでアリシア隊長を破ったそうだな」
「いや、あれは本当に運もあって……」
「なら、今ここで確かめさせてもらおう」
ガルドが剣を肩に担いだ。
「一手、手合わせを付き合ってくれ」
周囲の兵士たちが一斉にこちらを向く。
「おい、始まるぞ!」
「宝剣の力ってやつを見られるのか?」
「新人が副隊長とやるのかよ!」
涼音は困ったようにアリシアを見た。
「……断れませんよね?」
「断ってもいいわよ」
「えっ、いいんですか?」
「ただし、明日から毎日、彼に勝負を挑まれるでしょうね」
「えぇ~……やっぱりやります!」
涼音はしぶしぶ答えた。
アリシアが小さく笑う。
「では、訓練用の剣を使いなさい。宝剣の力を制御できるかどうかも確認するわ」
涼音は剣を抜いた。
キィィン――。
柄の藍色の宝石が、淡く光った。
その瞬間、頭の奥で、聞き覚えのない声が響いた。
『――水の継承者。試練を受け入れますか』
「……え?」
涼音は思わず動きを止めた。
「どうした?」
ガルドが不思議そうに尋ねる。
「い、いえ……なんでもありません!」
今の声は何だったのだろう。
初めてこの剣を手にしたときに聞いた、あの不思議な声に似ていた。
だが、今は答えを考える余裕などない。
「始め!」
合図と同時に、ガルドが踏み込んできた。
「はっ!」
鋭い一撃。
涼音は剣を横に構え、受け止める。
ガキィンッ!
腕に衝撃が走った。
「重っ……!」
竹刀とは違う。本物の剣ではないとはいえ、相手の力がそのまま骨まで響いてくるようだった。
ガルドは間髪入れず、二撃、三撃と打ち込んでくる。
涼音は後退しながら、攻撃を受け流した。
――落ち着いて。
相手の肩を見て、足の向きを読む。
剣道の試合で、何度も繰り返してきたことだ。
けれど、ガルドの動きは速い。力任せに見えて、打ち込む角度に無駄がない。
「噂通り、なかなかやるじゃないか!」
ガルドが笑う。
「だが、守っているだけじゃ勝てないぞ!」
「それは……分かってます!」
涼音は一歩、踏み込んだ。
ガルドの剣が頭上から振り下ろされる。
その瞬間――。
彼女の視界が、不思議なほど鮮明になった。
相手の剣が通る軌道。
踏み込んだ足の位置。
次の一撃が来る方向。
すべてが、まるで先に知っていたかのように分かる。
「――っ!」
涼音は身体をひねり、剣を滑らせた。
ガルドの剣が空を切る。
「なにっ!?」
その隙に、涼音は相手の懐へ入った。
だが、そこで動きが止まる。
――勝てる。
そう思った瞬間、剣の宝石が強く輝いた。
「えっ、ちょっと……!」
剣身を透明な水が包み込む。
水流が螺旋を描き、青白い光を帯びながら剣先へ集まっていった。
周囲からどよめきが上がる。
「水だと!?」
「剣に魔法をまとわせたのか!」
涼音自身が、誰よりも驚いていた。
「いや、私、何もしてないんだけど……!」
『力を恐れるな』
再び、あの声が響いた。
『その剣は、あなたの意思に応える』
「意思……?」
涼音は剣を握り直した。
勝ちたい。
ただ、それだけではない。
自分が何者なのか知りたい。
この世界で何が起きているのか知りたい。
そして、和人を見つけたい。
そのために、今は目の前の相手から逃げたくない。
「……よし!」
涼音は床を蹴った。
水をまとった剣が、青い軌跡を描く。
ガルドが剣を構えるよりも早く、涼音の一撃が相手の武器を打ち上げた。
カァンッ!
訓練用の剣が宙を舞い、地面に転がる。
唖然とし、静寂が訪れる。
数秒遅れて、訓練場が歓声に包まれた。
「おぉー!すげえ!」
「今の動き、見えたか!?」
「宝剣の力なのか……!」
ガルドは呆然と自分の手を見つめていた。
やがて、彼は豪快に笑った。
「参った!参った!俺の負けだ!」
「えっ、あ、ありがとうございました!」
涼音は慌てて頭を下げた。
心臓が激しく鳴っている。
勝ったことが信じられない。
それ以上に、さっきの自分の動きが信じられなかった。
「アリシアさん……。今の、私がやったんですよね?」
「何言ってるのかしら?。当然でしょ。少なくとも、あなたの身体が動いたことは間違いないわ」
「なんか、どんどんゲームっぽくなってきてません?」
「涼音」
アリシアの声が、いつもより低くなった。
「ひとつ、覚えておきなさい。力を持つことと、その力を使いこなすことは別よ」
「……はい」
「あなたの剣が本当に何なのか、なぜあなたを選んだのか。それを知らないまま戦場へ出れば、命取りになる」
涼音は、剣の宝石を見つめた。
その奥で、水のような光が揺れている。
「この剣……いったい何なんでしょう」
「それを調べるのも、これからの課題ね」
アリシアが答えた、そのとき。
訓練場の入口から、ひとりの伝令兵が駆け込んできた。
「アリシア隊長! 陛下への緊急報告です!」
兵士たちのざわめきが止まる。
伝令兵は息を切らしながら、封蝋の押された書簡を差し出した。
「国境付近で、ヴァリアス軍の動きを確認! 偵察隊が複数の部隊を発見しました!」
アリシアの表情が険しくなる。
「規模は?」
「現在、確認中です。しかし……通常の巡回部隊とは明らかに違います」
「どういうこと?」
涼音が尋ねた。
伝令兵は、彼女を一瞥したあと、慎重に口を開いた。
「ヴァリアス軍は、国境の砦を避けて進んでいます。まるで……こちらの防衛線を把握しているかのように」
「そんな馬鹿な」
ガルドが顔をしかめた。
「国境の情報が漏れているっていうのか?」
「まだ断定はできません」
伝令兵は続けた。
「もうひとつ、不可解な報告があります。偵察隊が確認したヴァリアス軍の一部に、通常の魔法兵とは異なる装備を持つ者たちがいたそうです」
「異なる装備?」
「赤い宝石のようなものを携えた杖を持っていた、と」
その言葉を聞いた瞬間。
涼音の胸が、どくんと跳ねた。
赤い宝石の杖に魔法使い。
頭に浮かんだのは、ひとりの少年だった。
「……和人?」
声が漏れた。
アリシアが振り返る。
「知っているの?」
「い、いえ! そういうわけじゃ……!」
否定しようとした。
けれど、言葉が続かなかった。
もし和人がヴァリアスにいるのなら。
もし彼もまた、この世界で不思議な力を手に入れているのなら。
あの報告は、彼に関係しているのだろうか。
それとも、まったく別の誰かなのか。
何ひとつ分からない。
ただ、胸の奥に嫌な予感だけが残った。
「涼音」
アリシアが静かに言った。
「今夜、緊急の軍議が開かれる。あなたも同席しなさい」
「私もですか?」
「ええ。あなたの宝剣に関わる話が出る可能性もある。それに――」
アリシアは国境の方角を見た。
「この戦いは、あなたが思っているより早く始まるかもしれない」
その夜。
涼音は城のバルコニーに立ち、夜空を見上げていた。
異世界の月は、日本で見ていた月とよく似ていた。
けれど、その下に広がる景色はまるで違う。
城壁の向こうには、見知らぬ大地が広がっている。
そのどこかに、和人がいる。
そう思うと、今すぐ走り出したくなった。
「……和人、何やってるんだろう」
きっと、魔法を使っている。
杖を振り回して、炎を出して。
そして、いつもの調子で得意げに言うのだ。
『俺、もしかして魔法の才能あるんじゃね?』
「……ふふっ。絶対言う」
思わず笑みがこぼれた。
和人は運動が苦手なくせに、ゲームになると妙に負けず嫌いだった。新しい能力を手に入れたら、きっと何度も試しているに違いない。
「でも、無茶だけはしないでよね……」
笑顔が、少しずつ消えていく。
この世界では、痛みが本物だった。
剣がぶつかる音も、傷ついた兵士の表情も、訓練場で見たものはすべて現実のようだった。
もし和人が戦いに巻き込まれたら。
もし敵兵と戦うことになったら。
そして、もし――。
「……敵同士になっちゃったら、どうしよう」
言葉にした途端、胸が苦しくなった。
和人がヴァリアスにいるなら、自分はデュランダルの騎士だ。
国が違う。
立場が違う。
守らなければならないものも、これから命じられることも違う。
幼馴染みだからといって、戦争が二人を見逃してくれる保証はない。
「そんなの、嫌だよ……」
涼音は宝剣の柄を握った。
藍色の宝石が、かすかに明滅する。
まるで、彼女の不安に応えるように。
そのときだった。
――ゴォォォン!
夜の静寂を破り、鐘の音が響き渡った。
一度。二度。三度。
城の中が一気に騒がしくなる。
廊下を走る足音と兵士たちの怒号。
鎧がぶつかり合う金属音。
そして、遠くから聞こえた叫び。
「緊急招集だ!」
「国境から伝令!」
「全騎士団、出動準備!」
涼音はバルコニーから駆け出した。
「いったい何が……!」
廊下の向こうから、アリシアが走ってくる。
いつもの優雅な雰囲気は消え、すでに鎧を身につけていた。
「涼音!」
「アリシアさん! 何が起きたんですか!?」
アリシアは一瞬だけ、言葉をためらった。
そのわずかな間が、涼音にはひどく長く感じられた。
「ヴァリアス軍が、国境を越えたわ」
「……え?」
「複数の部隊が侵入。国境の砦から救援要請が届いている。陛下は騎士団に出動を命じられた」
「そんな……。でも、まだ正式な宣戦布告も――」
「だからこそ、急がなければならないの」
アリシアは涼音の肩に手を置いた。
「あなたは初陣になる。怖いなら、今のうちに言いなさい」
涼音は唇を結んだ。
怖くないわけがない。
本物の剣を持ち、本物の兵士たちと、本物の敵に向かうのだ。
自分の一撃が誰かを傷つけるかもしれない。
自分が傷つき、立ち上がれなくなるかもしれない。
けれど、それ以上に恐ろしいことがあった。
この戦争の向こう側に、和人がいるかもしれない。
「……怖いです」
涼音は正直に答えた。
「でも、逃げたくありません」
アリシアは彼女を見つめ、やがて静かに頷いた。
「分かったわ。なら、私のそばを離れないこと。命令には必ず従いなさい。どんな状況でも、生きて帰ることを最優先にするのよ」
「はい!」
涼音は剣を握りしめた。
藍色の宝石が、今までにないほど強く輝く。
その光を見た瞬間、頭の奥に再び声が響いた。
『水の継承者よ――』
涼音は息をのんだ。
『二つの秘宝が目覚めるとき、世界は再び選択を迫られる』
「……何?」
『その剣を、誰のために振るうのか』
声は、そこで途切れた。
「涼音! どうしたの?」
「……いえ。大丈夫です」
本当は、大丈夫ではなかった。
二つの秘宝。
世界を変える力。
そして、誰のために剣を振るうのか。
それらの言葉が、頭から離れない。
涼音は剣を鞘に収め、アリシアの後を追った。
城門の向こうでは、すでに騎士たちが馬に乗り、出動の準備を進めていた。
夜の風が頬を打つ。
涼音は一度だけ、振り返った。
ここで立ち止まれば、和人を探すことも、元の世界へ帰る方法を見つけることもできない。
進むしかない。
たとえ、その先に何が待っていようとも。
「……和人。絶対、見つけるから」
その声は、騒がしい城門の音にかき消された。
同じ夜。
デュランダルから遠く離れた、ヴァリアス王国。
王城の一室では、柊和人が窓辺に立ち、夜空を見上げていた。
「……涼音、どこにいるんだろうな」
彼の手には、赤い宝石が埋め込まれた杖が握られている。
異世界へ来てから、わずか三日。
魔法を覚え、王都での居場所を得て、王から戦争への協力を求められた。
状況は少しずつ分かってきた。
だが、肝心の幼馴染みの行方だけは、まったく分からない。
「まさか、別の国にいるとか……?」
そこまで考えて、和人は首を振った。
「いやいや。そんな都合よく敵国にいるわけないだろ」
そう口にしたものの、胸の奥には小さな不安が残っていた。
そのとき、扉がノックされた。
「柊殿。陛下がお呼びです」
「えっ、今から?」
「至急とのことです。国境で緊急事態が発生したと」
和人の表情が変わった。
「……国境?」
「デュランダル軍が動き始めたとの報告が入りました」
一瞬、部屋の空気が凍りついたように感じた。
デュランダルといえば、剣の国。
涼音が剣士になりたいと言っていた国。
「……嘘だろ」
和人は杖を握りしめた。
赤い宝石が、呼応するように輝いた。
彼はまだ知らない。
その夜、涼音もまた剣を手に、同じ戦争へ向かおうとしていることを。
二人が望んでいるのは、ただ再会すること。
けれど世界は、二人を別々の陣営へと導いていた。
そして、八百年続いた戦争が再び動き出す。
次に二人が出会うとき――。
その手にある剣と魔法は、互いを守るための力なのか。
それとも、互いを傷つけるための力なのか。
まだ、誰にも分からなかった。




