異端者の献身
杏樹のいる教会はすぐに特定できた。杏樹はその建物の居住部ではなく、礼拝堂にいた。礼拝堂奥のステンドグラスの前に置かれた聖母像の足元で、何故か鎖に繋がれている。身動きの取れない杏樹の前には、小学校高学年くらいの少女が立っていた。
シンプルな白い着物姿の杏樹に対して、少女は光沢のある黒い生地で作られたフリフリのゴスロリファッションに身を包んでおり、手にはチェーンソーを持っていた。
「嘘だろ……危ない!」
少女が何をしようとしているかは明白だった。僕は、奈莉栖に別れの言葉を言うこともせず、慌てて杏樹の元へ飛んだ。
「杏樹、無事か!?」
礼拝堂の中央辺りに転移した僕は、とりあえず、チェーンソーの少女の意識をこちらに向けるべく、声を掛けた。二人が同時に僕の方を見る。
「伊吹!? どうやってここに……」
「一応、魔法が使えるからね」
「ほんの僅かの間に、拳士から本物の魔女になってしまったんだな」
少し寂しそうな杏樹の言葉に、心がチクリと痛む。
「だけど、そのおかげで、こうして君を助けにくることができた」
「もう私に関わるなと言ったはずだ」
「でも、君の身体は……」
「知っている。だから、生き返らせるべきではなかったと言った」
つまり、あの時の杏樹の冷たい態度は、自分たちが完全には生き返っていないことを知った上でのことだったのか。それなら納得が行く。杏樹のことだ、完全に生き返るには何が必要かも、分かっていたのだろう。
「僕が完全に生き返らせるよ」
「他人の魂を犠牲にして、か? そんなことをして、私が喜ぶとでも思っているのか。魂は簡単に移し替えたり、喰らったりしていいものではないんだぞ」
杏樹の言葉が耳に痛い。反論の言葉を見つける前に、チェーンソーの少女が口を開いた。
「そうね、姉として、妹に他人の魂を移すことは認めないわ」
「姉!?」
チェーンソーの少女は、背丈も顔立ちも、どう見ても小学生だ。14歳という年相応の杏樹と比べても、明らかに幼く見える。
「ええ。初めまして、と言っておくわ。私は夜月黒鴉。杏樹の双子の姉よ」
確かに、顔立ちは似ていなくもない。特に、やや切れ長の紫水晶の瞳は杏樹と相似形だ。ただそこから放たれる光の威圧感は、杏樹よりも数段上だった。邪悪、と言い換えてもいい。もっと言えば、今まで僕が出会ってきた悪魔、蠅女よりも、山羊よりも、黒鴉の方が怖い。
「君も、退魔師なのか?」
「いいえ、違うわ。私は、異端審問官よ」
「異端審問官? それって、昔魔女狩りをしていた連中だろ? そんなもの、とっくになくなっているんじゃ……」
「そうね。昔、魔女狩りの名を語って欲望のままに罪もない人たちを虐殺した異端審問官、彼らの所属した異端審問所は、今はもうないわ。今あるのは、検邪聖省と言って、地味に検閲と禁書目録の作成を行っている機関だけよ。でも、本当はまだいるの。ほんのわずかだけど、教皇から直接任命され、異端を狩る使命と権限を与えられた、異端審問官が」
「異端を狩るって言ったって、少なくとも日本では異端じゃない方が珍しいんじゃないか?」
「確かに、これだけ価値観が多様化して、教会が力を失った今の世の中、信仰の違いだけで異端に認定することなんてできないわ。だから、今現在、私たち異端審問官の目的は二つだけ。それは、魂を冒涜する者への裁きと、冒涜された魂の救済よ。だから私は、犯されてしまった杏樹の魂を救わなければならない」
「まさか、殺すのか? 自分の妹なのに……」
「勘違いしないで。杏樹は、もう死んでいるの」
「馬鹿を言うな! まだ生きてるじゃないか!」
僕は思わず声を荒げてしまった。
「いいえ、死んだわ。貴方が殺したんでしょ」
対する黒鴉の声は冷たい。「貴方が殺した」というその一言で僕の心を凍りつかせるほどに。それでも、僕は後に引くわけにはいかない。
「僕が完全に生き返らせる!」
「なら、私は貴方を異端と認定するわ、綾女伊吹。魔女になっただけなら、貴方も被害者と言えなくもなかったけど、死者を生き返らせることの異常さを理解できないのなら、既に貴方は人じゃない」
確かに、そうかも知れない。でも、だからと言って、まだ助けられる杏樹をみすみす死なせる気にはなれない。僕はそのために悪魔のみならず魔女を、つまりは、人間を、この手で殺めることを選んだのだから。
しかし、言葉でこの少女を説得できるとはとても思えない。僕は無言で拳を構えた。
「そう、それが答えなのね。なら綾女伊吹、この異端審問官黒い十字架が貴方を裁くわ」
黒鴉も手にしたチェーンソーを構える。
「けけけ、人間を食いちぎれるなんて久しぶりだぜ」
品のない声で笑ったのはチェーンソーだった。
「黙りなさい、ルロイ。彼は杏樹以上の使い手よ。へし折られたくなかったら真面目にやることね」
へいへい、としぶしぶ頷いて、ルロイと呼ばれたチェーンソーの刃が、唸りを上げて回転しはじめた。
黒鴉はチェーンソーを左右に振りながら無造作に間合いを詰めてくる。身のこなし、つまり体術の熟練度だけで言えば、黒鴉は僕や杏樹に劣るようだ。
しかし、禍々しい気を放ちながら回転するチェーンソーを相手に、不用意に近づく気にはなれない。どう動くべきかという迷いが生じた瞬間、黒鴉の姿が消えた。かと思うと、すぐに僕の目と鼻の先に現れ、逆袈裟にチェーンソーを振るう。無造作な一撃を、僕はなんとか後ろ飛びに避けたけれど、完全にはかわしきれなかった。胸の辺りを裂かれ、血飛沫が舞う。
「けけけ、うめぇ」
ルロイと呼ばれたチェーンソーが舌舐めずりする。僕は必死で、今の黒鴉の動きがどのようなものなのか考えた。目で追えないほど速く動いたのか、それとも、空間を渡っているのか。見極めようと意識を集中したとたん、再び黒鴉が消えた。さっき消えてから現れるまでのわずかな時間を当て勘で計算して、僕はとっさに地面に倒れこんだ。先ほどまで僕がいた場所の真ん前に黒鴉が現れる。
「闇渡りをかわしたのは立派だけど、そうやって逃げているだけではどうにもならないわよ」
黒鴉の方には特に焦りもない。実際、このままではどうにもならないのは確かだ。でも、黒鴉は自分からネタばらしをしてくれた。黒鴉が消えたのは「闇渡り」だと。
つまり、理屈は杏樹と戦ったときに、彼女の姿が霞んで見えたのと同じだということだ。黒鴉がやれば消えて見える。動きの洗練さは杏樹の方が上なのに、黒鴉は身体能力だけで杏樹以上の動きができるということなのだろう。
先天的な才能は功夫、すなわち修練を凌駕する。中国武術の世界でも言われることだ。勝敗を決するのは一胆、二力、三功夫だと。持って生まれた肉体的な力の差を、功夫だけで埋めるのは難しい。そこで必要なのは、彼我の実力差を冷静に受け止めた上で、なおも勝利を掴み取るために考え、動けるだけの胆力、つまりは、心の強さだ。
「心配は要らないよ。闇渡りはもう見切ったから」
はったりだけど、丸切り嘘と言うわけでもない。杏樹の動きと黒鴉の動きを見て、なんとなく仕組みが分かってきているのは確かだ。でも見切ったのは闇渡りの技法ではなく、寧ろ、黒鴉の実力、つまり、黒鴉の武才は杏樹に劣るという事実だ。杏樹の場合、闇渡りから斬撃までが綺麗に流れていたのに対し、黒鴉の場合は明らかな間が存在する。闇渡り自体が見えないほど速いとしても、姿が見えた後攻撃までの間に先を取ることができる気がするのだ。
「面白い。破れるものなら破ってみなさい」
熱くなりやすい性格なのだろう、黒鴉は再び闇を渡った。黒鴉は必ず僕の目前に現れ、一瞬止まる。僕は冷静にその瞬間を待った。計算通り、僕の前に現れた黒鴉が、僅かな間を置いてチェーンソーを振るう。僕はそれを最小限の動きでかわして、勁を放つ! つもりだったんだけど……あろうことか、次の瞬間、チェーンソーは僕の体を深く切り裂いていた。痛みと衝撃で地面に倒れてしまった僕は、追撃をかわすためにそのまま地を転がり、なんとか体勢を整えた。
「けけけ、そんな小さな動きでこの聖剣ルロイ様をかわせるかってんだ。にしても、やっぱ血肉がうめぇ!」
チェーンソーが太刀筋を無視して食らい付いてくるなんて、不覚だった。
「どこの世界にそんな下品に笑う聖剣があるんだよ!」
僕は思わず突っ込んだけど、軽口を叩けるような局面ではない。
「あら、異端を屠るんだから、聖剣でいいでしょ」
余裕の黒鴉が応じてくれた隙に、僕は必死に魔力を注いで傷を塞いだけど、今の状況では応急処置がせいぜいだ。少し動けばすぐに傷口が開くだろう。
「異端だって人間だぞ。僕を殺して、ただで済むと思っているのか」
「馬鹿ね。異端に人権はないわよ。退魔師が狩ることを許されているのは悪魔だけだけど、異端審問官は、悪魔だけでなく、異端者も、つまりは人間でも殺すことを許されているのよ。その点について、『教会』は日本を含むほとんどの国の政府と密約を交わしている。異端、つまり魂を弄ぶ者は、どの国でも許すべからざる存在だから。その意味で、私には殺人許可証があるってことよ」
なんてことだ。いつの間にか、僕は人権を失っていたのか。確かに、他人の魂を悪魔に捧げ、自分の欲望を叶えるなど、我ながら悪魔の所業だ。犯罪の痕跡だって、魔法を使えば容易に消せるようだし。そんな魔女を裁くのは、やはり特殊な力を持った異端審問官ということになるのだろう。
「君が僕を殺す権利を持っているのは理解したよ。でもせめて、杏樹を治すまで黙って見ていてくれないか」
「ふざけるな!」
ダメ元の嘆願に、黒鴉は激怒した。何の小細工もなく突進してきて、僕の頬を殴る。なすすべもなく、僕の身体は吹っ飛んだ。これまでのどこか余裕のある態度とは異なり、剥き出しの感情をぶつけられた、そんな感じだ。
「ふざけてなんていない。あんたの妹を死なせたくないのが、そんなに理解できないのかよ!?」
痛みを堪え、身を起こしながら僕は反論したけど……。
「もう口を開くな。死ね!」
黒鴉は聞く耳も持たず、再び間を詰め、今度は手にしたチェーンソーを振りかざした。それをかわすだけの余力は僕にはない。終わった……。チェーンソーが振り下ろされ、頭が、弾けた。僕のではなく、黒鴉の。黒鴉がそのまま後ろに吹き飛ぶ。
「悪いが、邪魔させてもらうよ」
礼拝堂の入り口付近から聞こえるその飄々とした声は、紛れもなく、楓子さんのものだった。黒鴉は楓子さんの指弾に撃ち抜かれたのだろう。
「し、師匠、どうしてこんなところに……」
「当然、あたしが連れて来たのよ。図書館の前でたまたま会ってね」
得意気に弾む声は奈莉栖の声だ。礼拝堂の鍵は奈莉栖が開けたのだろう、工具を手で弄んでいる。
「話は後だ。そのお嬢ちゃんは、まだ元気があるようだ」
「貴様ら……」
立ちあがった黒鴉の美しい瞳に、邪悪な陽炎が立つ。思わず足が竦むほどの威圧感だ。
「ふむ、可愛いお嬢ちゃんかと思ったら、化け物の類か」
「解っているならしゃしゃり出るな、人間」
「そうは言っても、可愛い弟子のピンチを救ってあげるのが師匠ってものだし、仕方ないさね」
僕を庇うように、師匠が肩をすくめながら黒鴉の前に立ち塞がった。
「見たところ、お前はただの人間だが、お前の弟子は悪魔と契約した魔女だぞ? それでもなお弟子を庇うというならお前も同罪だ」
「魔女が許せないっていうのは、君の倫理だろ? 私の倫理では、弟子が死にかかっている女の子を命懸けで助けようとしていたら、手を貸したいね」
「助ける、だと? お前の弟子がしようとしているのは、魂の冒涜だ」
「私には物事の善悪なんて解らないけど、少なくとも私個人としては、その気味の悪いチェーンソーでぶった切られる方がよほど冒涜されたと感じるな」
「けけけ、そう言わずに血肉を食わしてくれよ、旨そうなねぇちゃん」
聖剣ルロイが下品に舌舐めずりする。
「話し合いは無駄か。なら、死ね!」
黒鴉がチェーンソーを振り上げ、再び後方に吹き飛ばされた。予備動作無しの、楓子さんの指弾だ。
「どうやらこのお嬢ちゃんとは倫理観の相違について拳で語り合う必要があるらしい。ここは私に任せて、伊吹はさっさとあの女の子を助けてあげな」
「ありがとうございます。師匠」
とは言ったものの、まともに立てないほど僕は消耗していた。
「ほら、あたしに捕まって」
ふらつく僕に、奈莉栖が肩を貸してくれた。奈莉栖の身体の柔らかさと、甘い香りに、別の意味でくらくらする。
「させるか」
杏樹に向かって進む僕たちに、黒鴉が襲いかかろうとする。でも、それが無理なことを、僕は知っていた。楓子さんが、任せろと言ってくれたのだから。
「君の相手は私だよ」
「く、たかが人間の分際で!」
「悪いな。化け物の相手は、慣れているんだ」
人間離れした戦いの気配を背後に感じながら、ようやく僕は杏樹のところに辿り着いた。
「誰がこんなことをしてくれと頼んだ? 早くここから出て行ってくれ」
悲痛な顔と声だ。事態がどう進もうと杏樹にとっては苦痛しかないのだろう。美しい顔は憔悴しきっている。
「勘違いしないでくれ。別に君のためにしてるんじゃないさ。僕は君の意思に反してでも、無理矢理に自分の我が儘を通そうとしているんだ」
「全く、貴方は見掛けに依らず頑固だな。私の忠告を何度も無視して……」
これ以上の言葉は不要だ。僕は、杏樹の言葉を遮って、彼女の口に指を二本くわえさせた。指を広げて口を開かせ、魂の欠片を口に入れる。
「んぁっ」
苦しそうな表情で杏樹が欠片を飲み込んだのを確認し、僕は指を引き抜いた。
「ばか、そんな乱暴にするな!」
「うわ、なんか、エロっ!」
涙目の杏樹の抗議と奈莉栖の呟きを無視して、僕は師匠と戦っている黒鴉に向かって叫んだ。
「悪いけど、杏樹の魂は補完させて貰ったよ! 杏樹自身は何ら魂を弄んだわけではなく、杏樹の魂も最早救済が必要な状態にはないんだから、お前が杏樹を拘束する理由もなくなったはずだ」
黒鴉は憎らし気に僕を睨み付けた。眼光は変わらず鋭いけれど、紫玉の瞳に一瞬だけど僅かに安堵の色が浮かんだように見えたのは気のせいだろうか。
「いいだろう、なら私の標的はお前だけだ。異端審問官の名にかけてお前を裁いてやる」
「済まないが、それは私の目の届かないところでやってくれ」
黒鴉が僕に気を取られた一瞬の隙を突いて、師匠が黒鴉の首筋に手刀を放って気絶させた。
「伊吹、これで貴方は完全に異端に認定されてしまった。姉だけではなく、他の異端審問官も貴方を狙うだろう。最早貴方に、安息は訪れないぞ」
奈莉栖に鎖を外してもらった杏樹が、手首をさすりながら言う。
「仕方ないよ。僕は名実共に、私利私欲のために悪魔に魂を捧げる『いい魔女』になってしまったみたいだからね」
おどけて肩を竦めて見せた僕に、杏樹は苦笑を洩らした。
「伊吹、早くしないと恐ろしいお嬢ちゃんが目をさますぞ」
楓子さんは既に礼拝堂の入り口付近で逃げ出す準備をしている。奈莉栖も楓子さんに向かって走っていく。そちらから聞こえるエンジン音からすれば、楓子さんと奈莉栖は、楓子さんのバイクで来たのだろう。
「確かに、起きたら大変だ。じゃあ、杏樹、また機会があれば、って、あったら困るかもだけど」
僕は杏樹の返事も待たずに自分の部屋を思い浮かべて、飛んだ。
「ありがとう……」
微かにだけど、杏樹がそう囁くのが聞こえた。




