蠅の女王
「あーあ、あたいの魔女、殺しちゃったんだ? 結構気に入っていたのに」
人を、いや、魔女を殺した罪悪感に立ち尽くす僕の目の前に突然現れたのは、美しい女……悪魔だった。男の言ったとおりだ。美しいが、「汚らしい」。この女悪魔には、大量の蠅がたかっているのだ。
「気に入ったなら、どうして助けてやらなかったんだ?」
僕は素朴な疑問を口にした。2対1なら、絶対に勝てなかっただろう。
「魔女同士の戦いになんて、手は出せないわ。魔女も人間なんだから。あたい達悪魔が人間に手を出せるのは、人間が契約に違反した場合と、悪魔自身が人間に攻撃された場合だけよ」
なるほど、山羊が口にしたルールは、自分の魔女が攻撃された場合であっても例外とはならない、ということか。魔女同士の戦いに悪魔の加勢を認めれば、結局は悪魔同士で争うことになってしまうからだろう。
「こんなに『いい魔女』は、なかなかいないのに、ムカつくなぁ」
言いながら、蠅女は男の死体に手をかざした。その手に光が集まっていく。これが、魂なのだろう。
光を吸い尽くした後、蠅女は男の死体に跨ると、愛おしげに手を這わせ……次の瞬間、粉々になって男に降り注いだ、ように見えた。実際は、無数の蠅に姿を変えて男にたかっているのだと気付いた時には、蠅女は再び人間の姿に戻っていた。ぱちんっ、と女が指を鳴らすと、男の死体を食い破って、数万の蠅が飛び出し、蠅女に吸い込まれた。あまりにグロテスクなその光景に、僕は完全に呑まれてしまっていた。
「それで、どうするの? あたいを狩る、とか言ってたみたいだけど」
蠅女が挑発的な視線を投げる。紫暗の瞳が、殺したいからかかってこい、そう語っている。こんな化け物に勝てるのか? 恐怖に脚がすくむけど、奈莉栖たちを助けるには、勇気を出すしかない。
「狩ってやるさ」
「いいわ。お前を殺しても魂は奪えないけど、その分お前の身体を弄んで、楽しませてもらうことにするわ。生きながらにして、蠅の苗床にしてあげる」
おぞましさに鳥肌が立つ。僕は逃げ出したい衝動を何とか抑えて、構えをとった。構えてみれば、不思議と震えは止まった。どうやって目の前の敵を倒すか、それだけに思考を集中する。
蠅女の力は、山羊子よりは強いものの、山羊よりは弱く見える。勝てない相手ではないはずだ。先手必勝! 僕は一気に間を詰めて、掌打を放った。
「桜花掌 咲乱!」
全身を巡って掌に集まった勁と魔力が、爆発するような感覚とともに打ち出される。しかし、僕の掌は、何の手ごたえもなく蠅女の体を突き抜けた。右腕に、虫がまとわりつく嫌悪感が走る。僕は慌てて後ろに跳躍し、間合いを離した。どうやら瞬時に体を蠅にしたらしい。僅かに数匹、死んだ蠅が地に落ちたけど、ダメージはないに等しいだろう。
「あーあ、手を出しちゃった。これであたいは、遠慮なくお前を殺せるわ」
心底嬉しそうに、蠅女が笑った。魅入ってしまうほどの可愛らしい笑顔なのに、その周りを無数の蠅が飛び回るという異様さにぞっとする。飛び回る蠅に気を取られた隙に、蠅女が手を伸ばした。屈伸させたという意味ではない。長くした、という意味だ。間合いは2m以上あったのに、伸びた蠅女の手は僕の首を絞めようとする。僕は慌ててそれを避けた。こいつ、身体の全部または一部を自在に蠅にできるらしい。人型の敵と考えていたのでは対処できなさそうだ。それでも、僕にできることは間合いを詰めて打つことだけだった。
「桜花掌 咲乱!」
再び、蠅女の心臓付近(心臓があるかどうかすら疑問だけど)をめがけて掌打を放つ。僕の腕はまたしても蠅女を突き抜けた。
「ぐわっ」
苦痛に、僕は思わず呻いてしまった。蠅の群れに手を突っ込んだ形の僕の腕に、無数の蠅が一斉に噛みついたらしい。一つ一つの傷は小さいものの、細かく肉を食いちぎられた痛みは我慢できるようなものじゃない。僕は転がりながら間合いを離して立ち上がった。
「馬鹿ねぇ、体術なんて、効くはずがないのに」
確かに、身体を自在に蠅に変えられたのでは、打突でダメージを与えるのは困難だ。何匹かの蠅は殺せているのだから、蠅化した状態では、防御力はほとんどないのかも知れない。しかし、たとえ一度に数匹の蠅を殺せたとしても、すべてを殺すのには何十万発と必要だろう。
『ダメージが0でないならいつかは殺せるわ』
山羊との戦いで奈莉栖はそう言ったけど、はっきり言って、蠅女に試してみる気にもなれない。ここに来て、僕は自分が勘違いしていたことを思い知った。あの山羊に勝てたんだから、他の悪魔にも勝てる、そんな思い上がりがあったのだ。
確かに、結界の中の山羊は、この蠅女よりも強かったかもしれない。しかし、あの時の僕は、一人ではなかった。杏樹や奈莉栖の協力がなければ、山羊にだって勝てなかっただろう。それを、自分ひとりでなんとかできると思ってしまったあたり、迂闊としかいいようがない。
「ほら、じっとして? 傷口に卵を産んであげるから」
言って再び、蠅女が腕を伸ばす。僕は必死になって逃げ回った。やけくそになって、僕は地面に落ちていた鉈を拾い上げ、それで蠅女を薙いだ。真っ二つ!
「なぁんて、ね?」
喜んだのも束の間、蠅女の胴体は一瞬で元通り繋がった。蠅女がこちらのスイングに合わせて蠅化しただけだったのだ。僕は鉈を投げ捨て、蠅女の手から必死で逃げ惑う。
「ちょこまかと、すばしっこいわね」
これまで、その場から動かなかった蠅女が、身体ごとこっちへ向かってくる。体捌きで蠅女の側面をすり抜けようとした瞬間、辺りが闇に包まれた。
「つっかまーえた♪」
どうやら、すれ違いざまに身体全部を蠅化して僕を包んだらしい。
「かぷり☆」
甘ったるい表現とは裏腹に、その噛み方は凶悪だった。全身くまなく噛みつかれて、激痛のあまり、僕はのた打ち回った。
「さて、そろそろ子作りタイム、イッちゃおうか?」
蠅女がゆっくりとこちらに近づいてくる。男の死体に起こった、先ほどのおぞましい光景が脳裏をよぎる。生きながらにしてあれをやられたら、死ぬのと発狂するのとどちらが早いか……。
絶望的な状況にあって僕は、何とか相討ちにでも持ち込む術がないかを必死で考えた。出た結論は一つ。それは奴が僕を覆った瞬間に、自分の身体を爆発させることだ。果たして、自分の死に繋がるようなイメージを明確に持つことができるのか……そこまで考えて、僕はそのイメージが意外にも容易いことに気付いた。
(そうか、爆発呼吸だ)
『中国武術と言えば気功や発勁、そう考える人間は多いし、事実それは間違いじゃない。だが、運動物理学的には、気功も発勁も特別なものではない。どんな格闘技でも、いや、格闘技に限らず、どんなスポーツでも、普通に行われていることなんだ』
楓子さんの声が頭に浮かぶ。どんなスポーツでも、力を入れる瞬間に声を出す。えい、やー、のような掛け声を出しながら技を繰り出す人も多い。これは、声を出す、つまり、息を吐くことで、筋収縮の効率が20%近くも向上することに、無意識にも気付いているからだ。中国武術ではこうした呼吸の力を気の力として、呼吸と動作とが効率良く一致するように鍛錬を繰り返す。そして、その代表的な鍛練方法の一つが、爆発呼吸だ。
僕はじっと丹田に気を沈め、そこに小さな太陽を作るイメージでゆっくりと息を吸う。気と魔力の両方を、練り込むように注ぎ込む。小さな太陽は徐々に強い光を放ち丹田で熱く燃え盛る。
「あらら、観念しちゃった? もっと恐怖に歪んだ顔見せてくれないとつまんないよ」
言いながら蠅化して、蠅女が嬲るように僕の身体を包みこんだ。
「はぁぁぁぁっ!」
その瞬間、僕は、太陽を爆発させるイメージで一気に息を吐き出した。爆発した太陽が身体の隅々に力として行き渡り、身体を超えて本物の爆発として具現化する。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁ!?」
魔力で生み出された爆発は、蠅の大半を吹き飛ばしていた。辺りには夥しい数の蠅の死骸が絨毯を作っている。やはり、一匹一匹の蠅自体は、大した防御力を持っていなかったのだろう。
「き、さま、たかが魔女の分際で……」
おぞましい声とは裏腹に、蠅女は明らかに力を失っていた。
ここで相手を逃がせば、元も子もない。僕は舌戦には応じず、容赦なく蠅女に掌打を放った。
「桜花掌 咲乱!」
今度は確かな手応え。魔力の乗った一撃が蠅女を貫き、蠅女の身体は数多の蠅となって崩れた。
「あらぁ、勝っちゃったんだ? 勝てないと踏んでいたのに、予想がはずれたわ」
突然、甘い声で、後ろから抱きすくめられた。山羊子だ。
「うふふ、思ったより、強いのね。さすが兄様を殺しただけのことはあるわ」
山羊子が僕の身体に指を這わす。戦いで昂っている時に、この刺激はやばい。
「そんなことより、早く魂を回収しろよ」
僕は未練を断ち切るように、山羊子から離れた。
「分かっているわよ」
少し頬を膨らまして、山羊子が蠅の死骸に手をかざした。次々と光が集まる。
「うふふ、魂たくさん♪」
山羊子は上機嫌のようだ。これで、奈莉栖たちを助けることができるだろう。僕は疲れでその場に座り込んだ。気が緩んだからだろう、蠅に噛まれた傷が猛烈に痛痒い。治したいのに、魔力も尽きかけているのか、上手くいかない。
「あらあら、満身創痍ね。こんな状況、人に見られたらまずいでしょ。まぁ、今日は機嫌がいいから尽くしてア、ゲ、る」
山羊子は一瞬で僕を癒し、更に家まで飛ばしてくれた。優し過ぎて気味悪いくらいだけど、正直ありがたかった。奈莉栖たちのところに行くのもどうせ夜が明けてからになるだろうし、僕は何も考えずに、布団に倒れこんだ。




