魔女の鉄槌
目覚めは、悪いものではなかった。
悪夢のような宴を終えて、僕が家に辿り着いた頃には、既に空も白んでいた。疲れていたせいだろう、そんなことは全く気にならず、僕はベッドに入ってすぐに深い眠りに落ちた。
何時間眠ったのかはわからないけれど、頭はすっきりしている。それでも、昨夜自分の身に起きたことを深く考えるのは躊躇われた。僕はベッドの中で軽く伸びをして、できることならもう一度寝てしまおうと思ったのだけど……。
むにっ
伸ばそうとした手は、自分の体のすぐ近くで何か柔らかく、温かいものにぶつかった。何かいる!? ぎょっとして、僕は布団から飛び起きてしまった。
「もう、そんなに激しく動かないでよぉ」
寝ぼけ眼で甘ったるい声を出したのは、山羊子だった。
「な、な、何でお前がこんなとこで寝てるんだよ!?」
「そりゃ、悪魔だってベッドで寝るわよ。床でなんて寝たくないわ」
「そうじゃなくて、どうして僕のベッドにいるんだよ!?」
「あら、悪魔と魔女は持ちつ持たれつの関係なんだから、いつも近くにいるのは当然でしょ?」
言って、妖艶な仕草で僕の頬に触れてくる。山羊子は出会った時の毛皮姿ではなく、パジャマのようなものを着ていたけど、下には何もつけておらず、前をボタンで合わせてもいない。パジャマの隙間からは柔らかそうな横チチが見えているけれど、大事なところだけは相変わらず見えない。そんな、半裸に近い姿の美女(但し山羊の角付き)に触れられて、僕は思わずベッドから転げ落ちてしまった。
「あら、そんなにうろたえなくてもいいのに。ウブなのね。アタシのこと、好きにしてくれてもいいのよ? もちろん、それなりの対価はいただくけど」
言いながら、胸元を腕で隠すような仕草で谷間を強調して見せる。
「え、遠慮しておきます」
その誘惑になんとか抵抗したものの、美しい谷間から目は離せず、断る言葉も丁寧語になってしまった。
「あら、残念ねぇ」
馬鹿にしたような視線を投げて、山羊子は身体を布団で隠してしまった。残念だけれど、白い肌をこれ以上見せられたら理性を保つ自信もないし、仕方ないだろう。
それにしても、寝起きから刺激が強すぎる。こんな誘惑が毎日続くとしたら、僕はどうにかなってしまうのではないか……そう考えて、僕は恐ろしい可能性に気付いてしまった。もし、僕が奈莉栖たちを生き返らせずに他の願い事をしていたら、僕の隣には山羊子ではなく、山羊が……誘惑と戦う必要はないだろうけど、それはそれでうんざりだろう。まだしも、山羊子で良かったのかも知れない。
ベッドの中にいる山羊子を極力気にしないようにして、僕は携帯を手に取った。時間はもう17時に近い。明け方にベッドに入った時点で覚悟はしていたけど、金曜日だったのに、学校を無断欠席してしまった。
たー、たたー、ほわちゃぁ!
その時突然、携帯の着信音が鳴った。遊馬からだ。大方、無断欠席を咎める電話だろう。無視してやろうかとも思ったけど、起きぬけに着信音を聴き続けるのも辛い。僕は渋々電話にでた。
「何だよ、遊馬。一日学校行かなかったくらいで電話してくるなよ」
僕からのいきなりの非難に怒るかと思いきや、遊馬はわずかな沈黙の後、絞り出すような声でこう言った。
「……颯姫が、誘拐された」
「え……そんな……」
僕は言葉を失った。遊馬はバカだが、こんな嘘を吐く奴じゃない。
「俺は、どうすればいい?」
そんなことを僕に聞くあたり、相当パニックになっているのだろう。最愛の、といっても過言ではない妹を誘拐されたのだ、無理もない。
「誘拐されたのはいつ、どこだ? 犯人から何か連絡はあったのか? 警察へは知らせた?」
とりあえず、思いつく質問を矢継ぎ早に投げる。
「時間は30分ほど前、学校からの帰り道だ。遠目に颯姫を見つけて、声を掛けようとしたら、見知らぬ車に連れ込まれた。俺の目の届くところで……くそっ。警察には連絡したが、犯人から連絡はない」
「車のナンバーとかは、覚えてない、よな?」
「ああ、覚えられなかったよ、悪かったな!」
自分の頭の悪さを、もう自分で何度も責めているんだろう。
「とりあえず、僕も闇雲にでも探してみる。車の特徴とか何か覚えてないか?」
「白い車だった」
たったそれだけとは……聞いた僕がバカだった。もし犯人から電話があったら早まらず警察の指示に従うようにだけアドバイスして、僕は電話を切った。
「きっと、わいせつ目的の誘拐ね。可哀想に、颯姫ちゃん、今頃ぼろぼろに犯されてるかも」
布団から顔を出した山羊子が、うっとりした顔で身悶えしながら言う。可哀想とは全然思っていなさそうだ。しかし、山羊子の言葉を、僕は否定できなかった。それどころか、颯姫ちゃんが誘拐されたと聞いて、最初に心に浮かんだ犯人の動機は、それだった。小学5年生の颯姫ちゃんは、遊馬に似ても似つかないくらい聡明で、可愛い。欠点と言えば、遊馬の妹であることくらいだ。
「遊馬の声も、聞こえていたのか?」
「もちろん。デビルイヤーは、悪魔耳だから」
意味はわからなかったけど、聞こえていたなら話は早い。できることなら、助けてあげたい。昨日までの僕なら、遊馬同様、パニックになることしかできなかっただろうけど、今なら……。
「山羊子、僕の魔法でなんとか颯姫ちゃんを探し出せないか?」
「もちろん、できるわよ」
えらくあっさりと、山羊子は肯定してくれた。
「本当か!? どうやるか、教えてくれ!」
「いいけど、対価は?」
山羊子が悩ましげに唇を舐める。
「こんな非常時に、一体何が欲しいんだよ!」
「そうね、対価の基本は生命力を象徴する体液よ。血液とか、精液とか。でも今回は方法を教えるだけだし、唾液、つまり、キスでいいわ」
「き、き、キス!?」
思わず、みっともなく狼狽えてしまった。確かに、初めてではないけど、奈莉栖との初めての時も恋人とのキスと言うよりは、流されてしまった感が強い。こんな風に、恋人でもない女性とキスをすることで、段々自分が汚れていく気がした。
それでも、山羊子は角さえ気にしなければ妖艶な美女だ。颯姫ちゃんを助けるという大義名分もあるし、山羊子の申し出に抵抗することはできなかった。
「わかったよ。どうすればいい?」
「じっとしてて」
言われるままに、僕は立ったままの姿勢で身動きを止めた。不安と期待で体が強張る。山羊子は少し身を屈めて甘えるように僕の首に腕を絡めると、焦らすようにゆっくりと僕の下唇に舌を這わせて、甘く噛んだ。そのまま舌を侵入させ僕の舌に絡める。奈莉栖としたときの僕の稚拙なキスとは比べものにならない、大人のキスだ。気持ちよすぎて腰が抜けそうだった。
「ふふ、ごちそうさま」
山羊子がイタズラっぽく笑う。終わった……時間にすれば十数秒といったところだろうけど、僕は気持ちよさと疲労感でその場にへたりこんだ。
「あら、キスだけなのに情けないわね。まぁ、精気も一緒にもらってるから仕方ないんだけど」
山羊子の言葉に、僕は反応すらできない。キスでこれなら、それ以上されたら僕はどうなってしまうんだろう?
「……それで、結局どうやるんだよ」
なんとか息を整えて聞く。
「簡単よ。その子のことをはっきりと思い浮かべて、居場所を求めるだけ。何をするときも同じよ。自分のしたいことを明確に想像して、魔力を注げばいいの」
言われるままに、僕は颯姫ちゃんを思い浮かべて集中した。すると、ほどなく颯姫ちゃんの姿が見えた。今のところ、着ている制服に乱れはなさそうだけど、両手首をきつく縛られて吊り上げられている。気を失っているのか、颯姫ちゃんはまったく身動きしていない。ただ、手首に食い込む縄はかなり痛いのだろう、颯姫ちゃんは苦悶の表情を浮かべている。仮にも縛りを生業としている僕には、この仕打ちはかなり許せない。
僕は、視界に入る範囲を広げるようにイメージした。地図の縮尺が大きくなるように、徐々に広範囲が写し出される。何度か縮尺を調整して、僕は自分と颯姫ちゃんの位置関係を把握することができた。ここから、颯姫ちゃんの監禁されている汚いマンションまでは車で30分といったところだろう。
「はぁ、はぁ……」
集中し過ぎて頭がくらくらする。
「随分辛そうね。今のアナタは、魔女っ子の頃と違ってオド、つまり自分の精気から魔力を生成できるけど、まだまだ変換効率が悪いみたいね。慣れればもう少しマシになると思うけど、魔力を使いすぎれば生命を削ることになるから気を付けた方がいいわ」
「それでも、今はそんなこと言ってられないだろ。颯姫ちゃんを助けないと……思い浮かべれば、瞬間移動もできるんだよな?」
やれやれ、といった感じで山羊子が頷く。僕は自分の体が颯姫ちゃんの傍に飛ぶことを強くイメージした。嫌な浮遊感が僕を襲う。耐えること数秒、僕は見事に空間を渡っていた。強い眩暈にしばらく立ち上がることもできそうにないけれど、目の前には縛りあげられた颯姫ちゃんがいる。可哀想に、やはり痛々しい顔で気を失っている。
「おい、貴様、何をしている!?」
ドアを開けて入ってきた男が怒声を発した。年は30代後半から40代と言ったところか。くたびれた背広姿の、どこにでもいそうな会社員といった感じの男だ。この男が犯人なんだろうけど、信じられないくらい普通のおっさんだった。
「お前が誘拐犯か?」
一応、確認してみる。
「死ね!!!」
男は否定も肯定もせず、懐からナイフを取り出し、僕に斬りかかってきた。僕はなんとか立ち上がり、それをかわす。男の動きは鈍重だった。荒事を嗜んでいるようにも見えない。本当に、こんなただのおっさんがこんなことをするのが不思議だけど、颯姫ちゃんへのこの仕打ちといい、今の僕への殺意といい、僕はかなりこのおっさんに怒りを覚えていた。僕は続く一撃を体捌きでかわし、外門から男の水月に肘を放った。ぐげぼっ、と、男が不自然な呻き声をあげて、力なく倒れた。
(え?)
違和感……肘を叩き込んだとき、いつも通りの自然な勁の流れと共に、いつもとは違う強い力が僕の身体を駆け抜けたのだ。恐る恐る男を見やる。男はピクリとも動かない。瞳孔の開き切ったその恐ろしい顔は、どうみても死人のそれだった。手加減を意識しなかっただけで、殺すほど本気で打ったわけでもないのに、男は一撃で死んでしまったのだ。
「あーあ、殺っちゃった。わいせつ目的の誘拐と殺人未遂だけだと、この国の法では絶対に死刑にはならないのに」
いつの間にか、山羊子が隣にいた。言葉とは裏腹に、僕を咎めるどころか、頬を上気させ、恍惚とした表情をしている。
「今の、なんだよ? 身体を、ものすごい力が駆け抜けたぞ」
言いながら、僕の身体は震えていた。杏樹を殺してしまったときと同じ恐怖が僕を苛む。杏樹を生き返らせたことで忘れていた、あの恐怖だ。
「ああ、それはきっと魔力ね。体術に魔力を絡めるのは、結構ポピュラーな戦闘方法よ」
確かに、奈莉栖の動きもそんな感じだったけど、自分にそれができるとは思ってもみなかった。
「殺すつもりなんてなかったのに、くそっ、どうすればいいんだ……」
殺人犯として牢獄に入る自分が頭に浮かぶ。自分の人生が終わってしまった恐怖に、僕の体は震えていた。
「別にいいんじゃない? 殺すほどではなかったとしても、人間の価値観からすれば悪人には違いなかったんだし、そもそも正当防衛でしょ」
興味なさげに、山羊子が言う。正当防衛という言葉の響きに、僕は少し落ち着きを取り戻した。
「とりあえず、コレをなんとかしないと……」
仮に正当防衛だったとしても、警察が来るまでのんびりしているつもりはなかった。僕は男の死体をひきずって、押し入れの中に詰め込んだ。その後、颯姫ちゃんの戒めを解いて、そっと地面に横たわらせた。
颯姫ちゃんから離れた位置に置いてあった、ピンクの携帯を確認する。電源は入っていない。犯人が切ったのだろう。電源を入れると、まだ電池は十分にあった。僕はGPSが作動することを期待して、電源を入れたままで携帯を颯姫ちゃんの傍においた。
「それにしても、派手に痕跡を残したわね。これでは、現場検証されたら、男を殺した犯人が誰か、ばればれよ?」
山羊子に言われて初めて、僕はそのことに気付いた。確かに、この部屋には確実に、僕の指紋が沢山残っている。おそらくは髪の毛なんかも残ってしまっているだろう。
「どうしよう……」
魔法で何とかすることも考えたけど、痕跡を綺麗に消し去る、というイメージは今の僕には難しすぎる。
「アタシが消してあげてもいいわよ。対価は……まあ、一人殺してくれたおかげで、黒字だし、今回はサービスでいいわ」
僕は後の処理を山羊子に任せて、一足先に自分の部屋へ空間移動した。
自分の行為が正当防衛と認められるのか否か、そんなことは分からなかったけれど、人の命を奪ってしまったという事実に、僕の心はどす黒く淀んでいた。魔法を使い過ぎたこともあってか、僕は部屋に帰るなり、再びベッドに倒れこんでしまった。一度目を覚ましたときに、颯姫ちゃんが無事保護されたとの遊馬からの留守電に気づいたけど、遊馬の泣いて喜ぶ声を聞いても、僕の心は晴れなかった。




