ep.41 受け継ぐ思い(ゲシュクール暦794年)
ep.41 受け継ぐ思い(ゲシュクール暦794年)
膝から崩れ落ちそうになる身体を、私はどうにかレイピア一本で支えた。
切っ先を地面へ突き立て、辛うじて体重を預ける。全身に走る痛みを押し殺しながら、意識だけは冷静に、周囲の状況を確認する。
まずノエル。彼女の足元に広がる巨大な魔法陣は、まだ3割程度しか紋様が刻まれていない。
詠唱の声は途切れずに続いているが、完成までには、まだ相応の時間が必要だった。額に浮かんだ汗が、彼女の集中の深さを物語っている。
(まだ、時間がかかる)
次に視線をレイザーへ向ける。あれだけの斬撃を浴びせられたというのに、その顔には余裕すら感じられる。まるで、この戦い全体が、彼にとって痛痒すら伴わない余興でしかないかのようだった。
そして、シルフィ。腹部から流れ続ける血が地面を赤黒く染めているというのに、それでも彼女はふらつきながら立ち上がろうとしていた。
指先が地を掻き、震える膝が何度も崩れかけては、それでも起き上がる。
「……リリア」
その一言に、私はすぐに理解した。彼女はまだ、私を私として見ていない。
それでも、今この瞬間、彼女が立ち上がろうとしているのなら――。
(時間を稼ぐしかない)
レイザーが、興味深そうに剣を構え直す。私はその視線を自分へ引き付けるように、一歩前へ出た。
全身の痛みが悲鳴を上げたが、構っていられなかった。
「シルフィ!」
呼びかけると、彼女がゆっくりとこちらを振り向く。
「リリア……?」
「私が道を作る! 合わせて!」
私は叫んだ。シルフィが、その言葉の意味を正確に理解しているとは思えなかった。
それでも、彼女は小さく頷いた。私の指示だからではない。――リリアの言葉だから、彼女は迷わず頷いたのだ。
その事実に、胸の奥が僅かに軋んだ。それでも、今は感傷に浸っている場合ではない。
レイザーが地を蹴り、一直線に突撃してくる。
私は真正面から迎え撃たなかった。《ライトニング》で加速した身体を横へ滑らせ、速度だけで彼の間合いを乱す。
だが、掠りもしなかった。剣先はレイザーの外套にすら触れず、空を切っただけだった。手のひらに、握り込んだレイピアの重みだけが虚しく残る。
(このままじゃ、届かない)
焦りが胸を焼く。その時、視界の端に、シルフィが展開し始めた黒炎の魔法陣が映った。
「シルフィ!」
「空中へ、剣を!」
叫ぶと同時に、黒炎の剣が一本、宙へと浮かび上がる。私は迷わず地を蹴った。
《ライトニング》
一段。踏み台にした黒炎の剣を蹴り、空中で軌道を変える。
二段。もう一本の黒炎を踏み、さらに角度を変えて加速する。
三段。最後の一蹴りで、レイザーの死角へ滑り込んだ。
レイザーが弾かれたように振り返る。だが、間に合わない。
浅い一撃だったが、確かにその肩口を掠めた。手応えが腕に走る。届く。届くのだ、この男にも。
「右!」
私はさらに叫んだ。シルフィが即座に反応し、右手側へ新たな黒炎の剣を展開する。
私はそれを踏み台に跳ね、再びレイザーの死角へ回り込んだ。
「次!」
黒炎。
「もっと奥!」
黒炎。
私が声を上げるたびに、シルフィは寸分違わぬ位置へ足場を生み出していく。まるで、彼女自身が私の意図を先読みしているかのようだった。
私が跳ぶ場所を、彼女が予測し、私が予測した場所へ、彼女が足場を用意する。息を合わせる必要すらなかった。
まるで、彼女の中に眠る八年分の経験が、私という不完全な身体を通して形になっていくようだった。
シルフィがたった一人で見せた、あの読めない軌道を、今は二人がかりで、辛うじて再現している。
レイザーの表情から、初めて余裕が消えた。
「……本当に、面白いな」
そう呟いた次の瞬間、彼の剣が唸りを上げる。宙に浮かんでいた黒炎の剣が次々と両断され、崩れた足場を失った反動で、シルフィの防御が一瞬だけ遅れた。
その隙を、レイザーは見逃さなかった。黒い刃が、シルフィの腹部を再び深く貫く。
「あ……ぐっ」
「シルフィ!」
私も反動で吹き飛ばされ、地面を転がった。全身の痛みに歯を食いしばりながら立ち上がり、背後のノエルへ視線を送る。
魔法陣は、まだ完成していない。
(まだ時間がいる……)
私は震える脚に力を込め、もう一度声を張り上げた。
「シルフィ! もう一度だ!」
崩れ落ちかけていたシルフィが、ゆっくりと顔を上げる。血に濡れた唇が、それでも小さく笑った。
「うん……リリア」
最後の力を振り絞るように、彼女は再び黒炎の魔法陣を展開し始めた。
「あいつの周りに黒炎の剣を散布して!」
「わかったよ」
私達の連携は徐々に密度を増し、少しずつレイザーの時間を奪いつつあった。
幾ばくかの時間が過ぎ、背後で紡がれ続けていた詠唱の声が、次第に密度を増していく。
ノエルの声が、これまでとは違う響きを帯び始めていた。一節ごとに空気が張り詰め、周囲の温度そのものが下がっていくのが分かる。
(もうすぐ……もうすぐだ)
視界が霞み、耳鳴りが止まらない。それでも、目だけは決してノエルから逸らさなかった。
魔法陣の紋様が、一つ、また一つと光を帯びていく。地面に刻まれた幾何学模様の隙間から、白銀の光が漏れ出し始めた。
まるで、地中に眠っていた何かが、今まさに目を覚まそうとしているかのようだった。
風が変わる。
それまで吹いていた生ぬるい夜風が止み、代わりに肌を刺すような冷気が岩場全体を包み込んでいく。
空に月はないはずなのに、ノエルの周囲だけが、青白い燐光にほのかに照らされていた。
「――終わる」
ノエルが、そう呟いた瞬間だった。
轟音とともに、大気そのものが引き裂かれるような音を立てて震える。巨大な四角形の魔法陣が、まるで空間を四角く切り取るようにレイザーの周囲へ屹立した。
幾重にも重なった紋様が眩いほどの光を放ち、その中心に描かれた古代文字が、生き物のようにうねりながら浮かび上がっては消えていく。
レイザーは、自分を囲んだその光の檻を、興味深そうに見上げていた。逃げようとする素振りは、一切ない。囲まれてなお、その口元には笑みが浮かんだままだった。
「空間系の禁呪だと思ったが、転送系だったか」
レイザーは囲まれた光の檻をコンコンと叩きながら息を吐いた。
そして軽い調子で、彼は続けた。
「これ、どこに行くの?」
詠唱を終えたノエルは肩で息をしながらレイザーを睨む。
「この世界の、どこかよ。行き場所は私にも分からない」
掠れた声だったが、そこには確かな意志が宿っていた。
レイザーは、その答えを聞いて、少し驚いたように目を見開いた。それから、心底愉快そうに笑う。
「そうか」
「なら――楽しい場所がいいな」
その声には、焦りも恐れも欠片も滲んでいなかった。まるで、これから旅行にでも出かけるかのような、あまりにも軽い口調だった。
囲まれた光の檻の中で、彼は腕を組み、まるで観客席から舞台を眺めるような余裕すら見せていた。
光の奔流が渦を巻き、レイザーの足元から徐々に、彼の輪郭そのものを飲み込み始めていく。
爪先が、光の粒子へと分解されていく。脛が、腰が、次々と溶けるように薄れていく。
それでも彼は、表情を崩さなかった。腕が、肩が、胸が、光に呑まれていく最中でさえ、まるで自分の身に何一つ起きていないかのように、余裕を崩さず佇んでいた。
「兄貴」
最後に、アスカーの方へ視線を投げる。
「先に行くぜ」
それだけを言い残し、レイザーの姿は完全に光の中へ溶け込んだ。
眩い閃光が一際強く弾け、視界のすべてを白く塗り潰す。私は思わず腕で顔を庇った。次に目を開けた時には、あれほど眩しかった光は跡形もなく消え去り、巨大な魔法陣そのものも、静かに地面へ溶けるように消えていた。
戦場に、静寂が戻る。
アスカーは、消えた空間をしばらく無言のまま見つめていた。やがて何事もなかったのように踵を返して静かにその場を去っていく。
引き止める余力は、もう誰にも残っていなかった。
張り詰めていた緊張の糸が、ふっと切れる。
シルフィの身体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
「シルフィ!」
私は転がるように駆け寄り、その身体を抱き止める。血の気の失せた頬。力の入らない指先。それでも、彼女は微かに笑っていた。
震える手が、私の頬へゆっくりと伸びてくる。その瞳は、最後まで私を「リリア」として映していた。
「……リリア」
掠れた声で、名を呼ぶ。
「守れたよ」
その声には、これまで積み重ねてきたあらゆる絶望を塗り替えるような、確かな喜びが滲んでいた。
「今度は……ちゃんと」
「最後まで、あなたを守れた」
安堵したような、それでいて誇らしげな笑みだった。まるで、八年という途方もない歳月をかけて、ようやく一つの罪から解放されたかのように。
「静かな街で……」
「暖かい家で……」
「みんなで、笑って暮らそう……」
その夢を、まるで本当にすぐそこにあるかのように語りながら、彼女の指から、ゆっくりと力が抜けていく。
「シルフィ……!」
私は叫んだ。だが、その声が届くことはなかった。
シルフィは、満たされたような微笑みを浮かべたまま、静かに息を引き取った。
シルフィの身体はもう動かない。
それでも私は、何度もその名を呼んだ。
返事はない。
ただ静かな笑顔だけが残っていた。
その身体が、ゆっくりと青白い光に包まれていく。
「あ……ぁ……」
光が私の胸へ流れ込んでくる瞬間、堰を切ったように記憶の奔流が押し寄せた。
一人分の、あまりにも重すぎる人生そのものが、私という器の中へなだれ込んでくる。
学院の中庭で交わした指切り。焚き火を囲んで語り合った、静かな街での未来。仲間たちが揃って笑っていた、あの温かい食卓。ガレスの笑い声、キースの軽口、ユリウスが夢中で広げていた古い地図。
彼らが笑う声、軽口を叩き合う声、その一つ一つが、まるで自分自身の記憶であるかのように鮮明に流れ込んでくる。
そして――リリア。彼女が刃を受け止め続ける光景。時短再生の光が、少しずつ濁っていく光景。
永久欠損に沈んでいく、あの瞳。
「……っ、ぁあ……!」
私は堪えきれず、声を漏らした。仲間を失った瞬間の絶望。自らの胸へ剣を突き立て続けた、あの終わりの見えない8年間。
忘れたいという願いと、殺してやるという執着が、同じ手の中でせめぎ合い続けた記憶。何百回、何千回と繰り返された死。
その度に薄れていく、大切だったはずの記憶。春が過ぎ、夏が来て、秋が終わり、雪が積もる――それだけを、ただ延々と繰り返す日々。
涙が止まらなかった。声を上げて泣いた。目の前で崩れていく仲間たちの姿。誰にも届かない絶叫。積み重なる喪失の重さに、私自身の心まで押し潰されそうだった。
「こんなの、ひどい……」
叫びながら、私は自分の胸を掻きむしるように押さえた。怒りなのか、悲しみなのか、もう区別がつかなかった。ただ、この理不尽さへの憤りだけが、腹の底から突き上げてくる。
レイザーへの怒りか。世界への怒りか。それとも、この記憶を私へ託さなければならなかったシルフィ自身への、やり場のない痛みなのか。
私は、初めて理解した。
シルフィは、狂ってしまったのではなかった。
ただ、リリアとの約束だけを支えにして、削れていく自分を必死に繋ぎ止めながら、生き続けてしまっただけだったのだ。
光が収まり、流れ込んでいた記憶が静かに終わる。
私は腕の中で冷たくなっていくシルフィを、しばらく抱き締めたまま動けなかった。
嗚咽が漏れ、涙が止まらない。何度も名前を呼んだ。返事はもう、返ってこない。
どれくらい、そうしていただろう。涙が少しずつ収まってきた頃、ようやく声が出た。
「……ばか」
自分でも驚くほど、掠れた声だった。
「勝手に、守ったとか言って……勝手に、笑って……」
言葉にしようとすると、また喉が詰まる。うまく纏まらない。
ただ、思ったことが、そのまま口からこぼれ落ちていくだけだった。
「私はあなたを、許すことは出来ない」
アミルを壊してしまった事実は、消えてなくならない。
それでも――あなたの人生を、私は今、確かにこの身で見てしまった。あなたの苦しみも、あなたが背負い続けたものも。
「でも」
私は震える手で、乱暴に涙を拭った。
「あなたの思いは、私が引き継ぐ」
大層な決意でも、綺麗な言葉でもなかった。ただ、そうするしかないと思っただけだった。
ゆっくりと立ち上がる。青白い光は、やがて光の粒子となって、夕闇の岩場へ静かに溶けていった。
そしてシルフィが人生かけて積み重ねた技術の欠片が、静かに私の中へ刻まれていった。
空を踏む感覚。
風を読む感覚。
私の身体の奥底に、新しい感覚が根を下ろしていく。
戦場を見渡す。詠唱を終え、その場に膝をついたノエル。
静かに去っていったアスカー。
そして、光の中へ消えていったレイザー。
そのすべてを、私は胸の奥へ刻み込んだ。
静まり返った戦場に、私は一歩を踏み出した。
この足で、もう二度と誰かの想いを途切れさせないために。
死ねないエリシャは、仲間の死を見届ける
第二章 完




