表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
28/28

ep.28 受け継ぐ者(ゲシュクール暦794年)

ep.28 受け継ぐ者(ゲシュクール暦794年)


老人は私の腕を掴んだまま、当然のように工房の奥へ歩き出した。

「まったく、仕事を放り出して何日も帰ってこんとは。弟子失格じゃ」

「待ってください」

私は腕を軽く引いた。

「人違いです」

老人は振り返らない。

「何を言っとる。寝ぼけとるのか」

「違います。本当に——」

その時だった。


「おじいちゃん!」

工房の奥から少女が駆け寄ってきた。

栗色の髪を肩で切り揃えた、小柄な少女だった。老人の腕へ飛びつくと、困ったように私を見上げる。

「その人、おじいちゃんのお弟子さんじゃないよ」


老人はようやく足を止めた。

私と少女を交互に見つめ、小さく首を傾げる。

「……そうじゃったか?」

「そうだよ」


少女はため息をつく。

「母さんじゃないんだから」

老人は「ふむ」とだけ呟くと、私の腕を離した。


「あんた、誰じゃ?」

私は思わず苦笑する。

「さっきまで弟子だったんですが」

「そうじゃったか?」

本人は本気で覚えていないらしい。


少女が頭を下げた。

「ごめんなさい。おじいちゃん、思い込みが激しくて」

「私はボルドお爺ちゃんの孫でミーナです」

「エリシャです」


そう名乗ると、ミーナは少し安心したように微笑んだ。

「旅の人?」

「そうです……雨宿りをお願いしようと思って」

言葉と同時に、屋根を叩く雨音が一段と強くなる。窓の外はすでに暗く、森は黒い雨に包まれていた。

私は静かに外を見つめる。この天候では、シルフィを追うことはできない。

足跡は残らず、無理に森へ入れば自分が遭難するだけだ。

ミーナも外を見て、小さく頷いた。

「今日は危ないよ。夜の森は魔物も出るし、この雨じゃ道も見えないから」


私はもう一度ボルドへ向き直る。

「一晩だけ、お世話になってもよろしいでしょうか」

老人は炉へ薪を放り込みながら、小さく鼻を鳴らした。

「別に好きにしたらいいんじゃないかのぉ」

老人は鼻を鳴らし、炉へ向き直る。

その途中、私のレイピアを一瞥した。

ほんの一瞬。まるで品定めでもするような目だった。


私は静かに頭を下げる。

「ありがとうございます」

ミーナはほっとしたように笑うと、奥の部屋を指差した。

「こっちだよ。使ってない部屋があるから」

私は荷物を持ち上げ、少女の後を歩き始めた。工房には炉の熱と鉄の匂いが満ちている。

奥へ進む途中、私は何気なく振り返った。

ボルドはもう私には興味を失ったように、炉の前へしゃがみ込み、黙々と火を見つめていた。

案内された客間は、六畳ほどの小さな部屋だった。古びた家具が並ぶだけの質素な部屋だったが、床も窓も丁寧に磨かれている。


「何もない部屋だけど、ゆっくり休んでね」

「ありがとうございます」

私は荷物を下ろし、壁へレイピアを立て掛ける。旅へ出てから片時も手放さなかった剣だ。

それを確認すると、ようやく肩の力が抜けた。階下からは、時折金槌を打つ乾いた音が聞こえてくる。

あの老人は、こんな時間でも仕事をしているらしい。私は窓へ近付き、外を眺めた。

雨は相変わらず激しく降り続いている。森は闇に沈み、木々の輪郭さえ見えない。

シルフィを見失った場所も、もう分からなかった。


『黒騎士を追う者』


あの言葉だけが、頭の中で何度も繰り返される。

ロイドが残した手掛かり。そして、シルフィが追い続ける存在。

偶然とは思えなかった。考え込んでも答えは出ない。

私は窓を閉め、寝台へ身体を横たえた。

雨音を聞いているうちに、いつの間にか意識は眠りへ沈んでいった。



————翌朝————


目を覚ますと、窓から柔らかな朝日が差し込んでいた。

昨夜の雨が嘘のように空は晴れ渡り、濡れた森が朝日に照らされている。

私は身支度を整え、壁へ視線を向けた。動きが止まる。

昨夜そこへ立て掛けたレイピアが消えていた。

部屋を見回す。寝台の下。机の脇。荷物の中。


どこにもない。

私は静かに息を吐き、そのまま客間を出た。

工房へ入ると、炉にはすでに火が入り、ボルドが黙々と鉄を打っている。

一定のリズムで響く金槌の音だけが、工房に流れていた。

私は老人の前で足を止める。

「ボルドさん」

「ん?」

「レイピアを見ませんでしたか」


老人は槌を止めることなく首を傾げた。

「レイピア?」

「昨夜、部屋へ置いたまま寝たんです」

「知らんわいのぉ」


それだけ言うと、再び鉄を打ち始める。

私はしばらく老人を見つめた。

「本当に知りませんか」

「知らんよぉ」

短い返事だった。その時、朝食を運んできたミーナが私たちの顔を見比べ、小さく目を逸らす。

ほんの一瞬の反応だった。だが、何かを知っているようにも見えた。

私はもう一度ボルドへ向き直る。


「困っています」

老人はようやく槌を置き、腕を組んで考え込む。


「あぁ……」

思い出したのかと思った。しかし次の言葉は予想外だった。

「仕事をしとるうちに、思い出すかもしれんな」

私は老人の顔を見つめたまま、しばらく何も言えなかった。

「……分かりました」

問い詰めても答える気はないらしい。それなら付き合うしかない。

ボルドは工房の裏を親指で示す。

「薪じゃ」

裏庭には切り倒された丸太が山のように積まれていた。その脇には、使い込まれた斧が一本立て掛けられている。

私は無言で斧を手に取った。乾いた木の感触が掌へ伝わる。

丸太を切り株へ載せ、斧を振り下ろした。鈍い音とともに刃が食い込む。

だが、木は割れない。

もう一度。

今度は力任せに振り下ろす。

それでも刃は途中で止まり、丸太が大きく揺れるだけだった。


「違う」

後ろから声が飛ぶ。振り返ると、ボルドが腕を組んで立っていた。

「力で割るもんじゃない」

「木を見るんじゃ」

それだけ言うと、また工房へ戻っていく。私は丸太へ視線を落とした。

何が違うのか分からない。それでも斧を握り直し、何度も振り下ろした。

昼を過ぎる頃には腕が重くなり、肩も熱を帯び始めていた。

それでも薪の山は、ほとんど減っていない。


「休憩にしよう」

ミーナが水差しを持ってやって来る。私は礼を言って水を受け取った。

冷たい水が乾いた喉へ染み渡る。


「おじいちゃん、何か言ってた?」

「力で割るものじゃない、と」

ミーナは苦笑した。

「それしか言わなかったでしょ?」


私は頷く。

「あの人、説明するの苦手だから」

「昔からそうなの?」

「うん」

ミーナは遠くで鉄を打つボルドを見つめる。


「母さんも、よく怒ってた」

その言葉だけを残し、ミーナは工房へ戻っていった。


私はもう一度丸太の前へ立つ。

今度は斧を振り上げる前に、木を見つめた。

年輪。節。表面へ走る細かな亀裂。

しばらく眺めたあと、私は斧を振り下ろす。

乾いた音が響き、丸太は真っ二つに割れた。

その音に気付いたのか、工房からボルドが顔を出す。

割れた薪を一瞥すると、小さく頷いた。


「……ようやく木を見るようになったか」

それだけ言い残し、また何事もなかったように工房の中へ戻っていく。

私は割れた薪と老人の背中を交互に見つめた。意味は分からない。

だが、その言葉だけは不思議と胸に残った。


翌日も、ボルドから言い渡される仕事は変わらなかった。

薪を割り、水を汲み、炭を運ぶ。

レイピアのことを尋ねても返ってくるのは、


「思い出せんのぉ」

その一言だけだった。

三日もすると、私は木目や節を見て自然と斧を振るえるようになっていた。

無駄な力を使わず、木に合わせて刃を落とす。身体が、少しずつ覚え始めていた。


昼過ぎ。最後の薪を割り終えると、後ろから乾いた声が飛ぶ。

「終わったかのぉ」

振り返ると、ボルドが立っていた。


「はい」

老人は積み上げられた薪へ目をやる。


一本だけ手に取り、切り口を眺めると、小さく頷いた。


「だいぶよくなってきたのぉ」

ボルドは踵を返し、工房へ入っていく。


「こっちじゃ」

短く言われ、私は後を追った。


工房の中央では、炉の火が赤々と燃えている。その隣には、一塊の鉄が静かに置かれていた。

ボルドは火箸で鉄を掴み、炉へ放り込む。やがて赤く熱せられた鉄を金床へ載せると、槌を私へ差し出した。


「今日はこいつを打ってみるんだわい」

私は槌を受け取る。

ずっしりとした重みが腕へ伝わった。

「何を作るんですか」

「ナイフじゃ」

それだけ言って、ボルドは腕を組む。

見本もない。説明もない。

ただ私を見ているだけだった。

私は赤く染まった鉄を見つめ、小さく息を吸う。


そして槌を握り直した。

私は熱せられた鉄へ槌を振り下ろした。

乾いた音が工房へ響く。

もう一度。そして、もう一度。

鉄は少しずつ形を変えていく。だが、思うようにはいかなかった。

叩くたびに厚みはばらつき、刃先は僅かに曲がる。

修正しようとすれば、今度は別の場所が歪む。

思っていた以上に難しい。


額を伝う汗を拭うこともなく、私は黙々と槌を振り続けた。

ボルドは何も言わない。腕を組み、ただ私の手元だけを見ている。

やがて鉄は冷え、再び炉へ戻される。赤く熱しては打ち。

冷えればまた熱する。同じ作業を何度も繰り返した。


気が付けば、日は大きく傾いていた。

私は完成した一本のナイフを静かに金床へ置く。

決して満足のいく出来ではない。それでも、今の自分にできる精一杯だった。


「……できました」

ボルドは無言でナイフを手に取る。

刃先を眺め。柄を握り。

重心を確かめるように何度か持ち替える。


長い沈黙が流れた。私はただ、その評価を待った。

やがてボルドはナイフを金床へ戻し、小さく口を開く。


「最悪じゃな」

私は思わず眉をひそめる。

「そこまでですか」

「うむ」

あっさりと頷く。

「刃は曲がっとる。重心も悪い。握りも甘い」

一本一本、淡々と欠点を並べていく。

私は言い返さなかった。自分でも分かっていたからだ。

ボルドは工房の棚へ歩み寄ると、一振りのナイフを持って戻ってくる。


使い込まれた一本だった。刃には何度も研ぎ直された跡があり、柄は黒く艶を帯びている。

「並べてみい」

私は自分のナイフを隣へ置いた。同じ鉄。同じ形。

それでも、二本はまるで別物だった。


ボルドは二本のナイフをしばらく見比べると、不意に私の方を見た。

「何が違う」

私は二本を見比べた。

「技術……でしょうか」

ボルドは首を横に振る。

「経験?」

「違う」

老人は自分のナイフを持ち上げた。

「こいつは何十年も使っとる」

そう言って刃先を軽く撫でる。

「獣を捌き、薪を削り、何度も研ぎ直した」


続いて私のナイフを持ち上げる。

「こっちは違う。ナイフの形をしとるだけじゃ」

私は何も言えなかった。

「薪割りをさせた時、何と言った」

突然の問いだった。

「……力で割るものじゃない、と」

「その後じゃ」

私は少し考える。

あの日。最後に残した一言。


「木を見る……でした」

ボルドは静かに頷いた。

「最初のお前さんは木を見とらんかった。ただ斧を振っとっただけじゃ」

私は自然と薪割りの日を思い出す。力任せに斧を振るい、何度叩いても割れなかった丸太。

節を見て、木目を見て、初めて割れた一本。


「あの時、お前が見たのは木じゃ。形じゃない」

ボルドは私の作ったナイフを軽く叩く。

「じゃが、これは違う。鉄を見とらん。形だけを見て打っとる」


私は視線を落とした。その通りだった。

私はナイフを作ろうとしていた。

鉄を理解しようとは、一度も考えていなかった。

ボルドは黙って工房の奥へ歩いていく。


そして一本のレイピアを抱えて戻ってきた。

私のレイピアだった。私は思わず一歩踏み出す。


「……やっぱり」

ボルドは何も答えない。

静かに鞘から刀身を引き抜くと、今までの気の抜けた老人とは別人のような眼差しで、その一本を見つめ始めた。

ボルドは刀身へ刻まれた傷を、一本ずつ確かめるように指でなぞっていく。

その眼差しは、先ほどまでの老人とはまるで別人だった。


工房から物音が消える。聞こえるのは炉の火が爆ぜる音だけだった。

長い沈黙の末、ボルドは静かに口を開く。


「いい剣じゃ」

その一言には、今までの軽さはなかった。

「長く使われとる。それに何度も死地を潜り抜けてきた剣じゃな」

私は黙って頷く。

「……仲間から受け継いだものです」


ボルドは刀身の中央に残る深い傷へ指を止めた。

「この傷が見えるか」

私はレイピアを覗き込む。刃には大小さまざまな傷が刻まれている。

普段は気にも留めなかった傷だった。


「これは達人の傷じゃ。相手の刃を受け流し、命を繋いできた傷じゃな」

指先はゆっくりと刀身を滑っていく。やがて比較的新しい傷の前で止まった。

「じゃが、この辺りは違う」

そこには浅い擦り傷や、小さな刃こぼれが残っていた。向きも深さも揃っていない。


「これは……お前じゃ」

私は息を呑む。

「受け方が甘い。無理に力で弾いとる。剣が耐えとるだけじゃ」

ボルドはレイピアを静かに机へ置いた。そして、並んだ二本のナイフへ視線を移す。


「薪を割る時、お前はようやく木を見るようになった。木目を見て、節を見て、初めて木と向き合った」


私のナイフを手に取る。

「じゃが、この鉄は見とらん。ナイフという形しか見とらん」


そのままレイピアへ視線を落とす。

「この剣も同じじゃ。お前は剣を見とらん。前の持ち主ばかり見とる」

その言葉に、胸が強く締め付けられた。

「仲間から受け継いだ剣なんじゃろ」


私は静かに頷いた。

「はい」

ボルドは刀身へ視線を落としたまま続ける。

「その仲間は、お前に何を託した」

私は答えられなかった。

フィアの姿が脳裏を過る。最後まで諦めず戦った少女。

そのレイピアだけが、今も私の手元に残っている。


「受け継ぐというのはな」

ボルドはゆっくりとレイピアを鞘へ納めた。

「前の持ち主になることじゃない」

静かな声だった。

それなのに、一言一言が胸へ深く沈んでいく。


「その者が残した想いも、技も、すべて抱えた上で。最後は、自分の剣にせにゃならん」

私はレイピアへ目を落とす。

刀身には古い傷と新しい傷が混ざり合っていた。

それはまるで、フィアと私が一本の剣を握っているようだった。


「お前さんは、前の持ち主を失うのが怖い。だから変えられん。だから傷まで真似ようとする」


図星だった。

無意識だった。

フィアの剣を変えてしまえば。

フィアまで消えてしまう。

——私は、それが怖かった。


ボルドはレイピアを私へ差し出す。

「この剣は、お前さんに託されたんじゃ。もう、前の持ち主の物じゃない」


「受け継ぐというのはな。守ることでも。真似ることでもない」

ボルドは静かに私を見る。

「自分の傷を刻んでやることじゃ。その時、初めてその剣は、お前の剣になる」


私は静かに柄を握り締めた。


初めて。


フィアの剣ではなく、私の剣として。


つづく


最後までお読み頂き有難うございます。

なるべく短い間隔で、連載していきたいと思いますので

ブックマーク、レビュー、感想、評価をお待ちしております。


Xにてキャラクターの詳細など公開中

詳しくはプロフィールにリンクはってます

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ