ep.28 受け継ぐ者(ゲシュクール暦794年)
ep.28 受け継ぐ者(ゲシュクール暦794年)
老人は私の腕を掴んだまま、当然のように工房の奥へ歩き出した。
「まったく、仕事を放り出して何日も帰ってこんとは。弟子失格じゃ」
「待ってください」
私は腕を軽く引いた。
「人違いです」
老人は振り返らない。
「何を言っとる。寝ぼけとるのか」
「違います。本当に——」
その時だった。
「おじいちゃん!」
工房の奥から少女が駆け寄ってきた。
栗色の髪を肩で切り揃えた、小柄な少女だった。老人の腕へ飛びつくと、困ったように私を見上げる。
「その人、おじいちゃんのお弟子さんじゃないよ」
老人はようやく足を止めた。
私と少女を交互に見つめ、小さく首を傾げる。
「……そうじゃったか?」
「そうだよ」
少女はため息をつく。
「母さんじゃないんだから」
老人は「ふむ」とだけ呟くと、私の腕を離した。
「あんた、誰じゃ?」
私は思わず苦笑する。
「さっきまで弟子だったんですが」
「そうじゃったか?」
本人は本気で覚えていないらしい。
少女が頭を下げた。
「ごめんなさい。おじいちゃん、思い込みが激しくて」
「私はボルドお爺ちゃんの孫でミーナです」
「エリシャです」
そう名乗ると、ミーナは少し安心したように微笑んだ。
「旅の人?」
「そうです……雨宿りをお願いしようと思って」
言葉と同時に、屋根を叩く雨音が一段と強くなる。窓の外はすでに暗く、森は黒い雨に包まれていた。
私は静かに外を見つめる。この天候では、シルフィを追うことはできない。
足跡は残らず、無理に森へ入れば自分が遭難するだけだ。
ミーナも外を見て、小さく頷いた。
「今日は危ないよ。夜の森は魔物も出るし、この雨じゃ道も見えないから」
私はもう一度ボルドへ向き直る。
「一晩だけ、お世話になってもよろしいでしょうか」
老人は炉へ薪を放り込みながら、小さく鼻を鳴らした。
「別に好きにしたらいいんじゃないかのぉ」
老人は鼻を鳴らし、炉へ向き直る。
その途中、私のレイピアを一瞥した。
ほんの一瞬。まるで品定めでもするような目だった。
私は静かに頭を下げる。
「ありがとうございます」
ミーナはほっとしたように笑うと、奥の部屋を指差した。
「こっちだよ。使ってない部屋があるから」
私は荷物を持ち上げ、少女の後を歩き始めた。工房には炉の熱と鉄の匂いが満ちている。
奥へ進む途中、私は何気なく振り返った。
ボルドはもう私には興味を失ったように、炉の前へしゃがみ込み、黙々と火を見つめていた。
案内された客間は、六畳ほどの小さな部屋だった。古びた家具が並ぶだけの質素な部屋だったが、床も窓も丁寧に磨かれている。
「何もない部屋だけど、ゆっくり休んでね」
「ありがとうございます」
私は荷物を下ろし、壁へレイピアを立て掛ける。旅へ出てから片時も手放さなかった剣だ。
それを確認すると、ようやく肩の力が抜けた。階下からは、時折金槌を打つ乾いた音が聞こえてくる。
あの老人は、こんな時間でも仕事をしているらしい。私は窓へ近付き、外を眺めた。
雨は相変わらず激しく降り続いている。森は闇に沈み、木々の輪郭さえ見えない。
シルフィを見失った場所も、もう分からなかった。
『黒騎士を追う者』
あの言葉だけが、頭の中で何度も繰り返される。
ロイドが残した手掛かり。そして、シルフィが追い続ける存在。
偶然とは思えなかった。考え込んでも答えは出ない。
私は窓を閉め、寝台へ身体を横たえた。
雨音を聞いているうちに、いつの間にか意識は眠りへ沈んでいった。
————翌朝————
目を覚ますと、窓から柔らかな朝日が差し込んでいた。
昨夜の雨が嘘のように空は晴れ渡り、濡れた森が朝日に照らされている。
私は身支度を整え、壁へ視線を向けた。動きが止まる。
昨夜そこへ立て掛けたレイピアが消えていた。
部屋を見回す。寝台の下。机の脇。荷物の中。
どこにもない。
私は静かに息を吐き、そのまま客間を出た。
工房へ入ると、炉にはすでに火が入り、ボルドが黙々と鉄を打っている。
一定のリズムで響く金槌の音だけが、工房に流れていた。
私は老人の前で足を止める。
「ボルドさん」
「ん?」
「レイピアを見ませんでしたか」
老人は槌を止めることなく首を傾げた。
「レイピア?」
「昨夜、部屋へ置いたまま寝たんです」
「知らんわいのぉ」
それだけ言うと、再び鉄を打ち始める。
私はしばらく老人を見つめた。
「本当に知りませんか」
「知らんよぉ」
短い返事だった。その時、朝食を運んできたミーナが私たちの顔を見比べ、小さく目を逸らす。
ほんの一瞬の反応だった。だが、何かを知っているようにも見えた。
私はもう一度ボルドへ向き直る。
「困っています」
老人はようやく槌を置き、腕を組んで考え込む。
「あぁ……」
思い出したのかと思った。しかし次の言葉は予想外だった。
「仕事をしとるうちに、思い出すかもしれんな」
私は老人の顔を見つめたまま、しばらく何も言えなかった。
「……分かりました」
問い詰めても答える気はないらしい。それなら付き合うしかない。
ボルドは工房の裏を親指で示す。
「薪じゃ」
裏庭には切り倒された丸太が山のように積まれていた。その脇には、使い込まれた斧が一本立て掛けられている。
私は無言で斧を手に取った。乾いた木の感触が掌へ伝わる。
丸太を切り株へ載せ、斧を振り下ろした。鈍い音とともに刃が食い込む。
だが、木は割れない。
もう一度。
今度は力任せに振り下ろす。
それでも刃は途中で止まり、丸太が大きく揺れるだけだった。
「違う」
後ろから声が飛ぶ。振り返ると、ボルドが腕を組んで立っていた。
「力で割るもんじゃない」
「木を見るんじゃ」
それだけ言うと、また工房へ戻っていく。私は丸太へ視線を落とした。
何が違うのか分からない。それでも斧を握り直し、何度も振り下ろした。
昼を過ぎる頃には腕が重くなり、肩も熱を帯び始めていた。
それでも薪の山は、ほとんど減っていない。
「休憩にしよう」
ミーナが水差しを持ってやって来る。私は礼を言って水を受け取った。
冷たい水が乾いた喉へ染み渡る。
「おじいちゃん、何か言ってた?」
「力で割るものじゃない、と」
ミーナは苦笑した。
「それしか言わなかったでしょ?」
私は頷く。
「あの人、説明するの苦手だから」
「昔からそうなの?」
「うん」
ミーナは遠くで鉄を打つボルドを見つめる。
「母さんも、よく怒ってた」
その言葉だけを残し、ミーナは工房へ戻っていった。
私はもう一度丸太の前へ立つ。
今度は斧を振り上げる前に、木を見つめた。
年輪。節。表面へ走る細かな亀裂。
しばらく眺めたあと、私は斧を振り下ろす。
乾いた音が響き、丸太は真っ二つに割れた。
その音に気付いたのか、工房からボルドが顔を出す。
割れた薪を一瞥すると、小さく頷いた。
「……ようやく木を見るようになったか」
それだけ言い残し、また何事もなかったように工房の中へ戻っていく。
私は割れた薪と老人の背中を交互に見つめた。意味は分からない。
だが、その言葉だけは不思議と胸に残った。
翌日も、ボルドから言い渡される仕事は変わらなかった。
薪を割り、水を汲み、炭を運ぶ。
レイピアのことを尋ねても返ってくるのは、
「思い出せんのぉ」
その一言だけだった。
三日もすると、私は木目や節を見て自然と斧を振るえるようになっていた。
無駄な力を使わず、木に合わせて刃を落とす。身体が、少しずつ覚え始めていた。
昼過ぎ。最後の薪を割り終えると、後ろから乾いた声が飛ぶ。
「終わったかのぉ」
振り返ると、ボルドが立っていた。
「はい」
老人は積み上げられた薪へ目をやる。
一本だけ手に取り、切り口を眺めると、小さく頷いた。
「だいぶよくなってきたのぉ」
ボルドは踵を返し、工房へ入っていく。
「こっちじゃ」
短く言われ、私は後を追った。
工房の中央では、炉の火が赤々と燃えている。その隣には、一塊の鉄が静かに置かれていた。
ボルドは火箸で鉄を掴み、炉へ放り込む。やがて赤く熱せられた鉄を金床へ載せると、槌を私へ差し出した。
「今日はこいつを打ってみるんだわい」
私は槌を受け取る。
ずっしりとした重みが腕へ伝わった。
「何を作るんですか」
「ナイフじゃ」
それだけ言って、ボルドは腕を組む。
見本もない。説明もない。
ただ私を見ているだけだった。
私は赤く染まった鉄を見つめ、小さく息を吸う。
そして槌を握り直した。
私は熱せられた鉄へ槌を振り下ろした。
乾いた音が工房へ響く。
もう一度。そして、もう一度。
鉄は少しずつ形を変えていく。だが、思うようにはいかなかった。
叩くたびに厚みはばらつき、刃先は僅かに曲がる。
修正しようとすれば、今度は別の場所が歪む。
思っていた以上に難しい。
額を伝う汗を拭うこともなく、私は黙々と槌を振り続けた。
ボルドは何も言わない。腕を組み、ただ私の手元だけを見ている。
やがて鉄は冷え、再び炉へ戻される。赤く熱しては打ち。
冷えればまた熱する。同じ作業を何度も繰り返した。
気が付けば、日は大きく傾いていた。
私は完成した一本のナイフを静かに金床へ置く。
決して満足のいく出来ではない。それでも、今の自分にできる精一杯だった。
「……できました」
ボルドは無言でナイフを手に取る。
刃先を眺め。柄を握り。
重心を確かめるように何度か持ち替える。
長い沈黙が流れた。私はただ、その評価を待った。
やがてボルドはナイフを金床へ戻し、小さく口を開く。
「最悪じゃな」
私は思わず眉をひそめる。
「そこまでですか」
「うむ」
あっさりと頷く。
「刃は曲がっとる。重心も悪い。握りも甘い」
一本一本、淡々と欠点を並べていく。
私は言い返さなかった。自分でも分かっていたからだ。
ボルドは工房の棚へ歩み寄ると、一振りのナイフを持って戻ってくる。
使い込まれた一本だった。刃には何度も研ぎ直された跡があり、柄は黒く艶を帯びている。
「並べてみい」
私は自分のナイフを隣へ置いた。同じ鉄。同じ形。
それでも、二本はまるで別物だった。
ボルドは二本のナイフをしばらく見比べると、不意に私の方を見た。
「何が違う」
私は二本を見比べた。
「技術……でしょうか」
ボルドは首を横に振る。
「経験?」
「違う」
老人は自分のナイフを持ち上げた。
「こいつは何十年も使っとる」
そう言って刃先を軽く撫でる。
「獣を捌き、薪を削り、何度も研ぎ直した」
続いて私のナイフを持ち上げる。
「こっちは違う。ナイフの形をしとるだけじゃ」
私は何も言えなかった。
「薪割りをさせた時、何と言った」
突然の問いだった。
「……力で割るものじゃない、と」
「その後じゃ」
私は少し考える。
あの日。最後に残した一言。
「木を見る……でした」
ボルドは静かに頷いた。
「最初のお前さんは木を見とらんかった。ただ斧を振っとっただけじゃ」
私は自然と薪割りの日を思い出す。力任せに斧を振るい、何度叩いても割れなかった丸太。
節を見て、木目を見て、初めて割れた一本。
「あの時、お前が見たのは木じゃ。形じゃない」
ボルドは私の作ったナイフを軽く叩く。
「じゃが、これは違う。鉄を見とらん。形だけを見て打っとる」
私は視線を落とした。その通りだった。
私はナイフを作ろうとしていた。
鉄を理解しようとは、一度も考えていなかった。
ボルドは黙って工房の奥へ歩いていく。
そして一本のレイピアを抱えて戻ってきた。
私のレイピアだった。私は思わず一歩踏み出す。
「……やっぱり」
ボルドは何も答えない。
静かに鞘から刀身を引き抜くと、今までの気の抜けた老人とは別人のような眼差しで、その一本を見つめ始めた。
ボルドは刀身へ刻まれた傷を、一本ずつ確かめるように指でなぞっていく。
その眼差しは、先ほどまでの老人とはまるで別人だった。
工房から物音が消える。聞こえるのは炉の火が爆ぜる音だけだった。
長い沈黙の末、ボルドは静かに口を開く。
「いい剣じゃ」
その一言には、今までの軽さはなかった。
「長く使われとる。それに何度も死地を潜り抜けてきた剣じゃな」
私は黙って頷く。
「……仲間から受け継いだものです」
ボルドは刀身の中央に残る深い傷へ指を止めた。
「この傷が見えるか」
私はレイピアを覗き込む。刃には大小さまざまな傷が刻まれている。
普段は気にも留めなかった傷だった。
「これは達人の傷じゃ。相手の刃を受け流し、命を繋いできた傷じゃな」
指先はゆっくりと刀身を滑っていく。やがて比較的新しい傷の前で止まった。
「じゃが、この辺りは違う」
そこには浅い擦り傷や、小さな刃こぼれが残っていた。向きも深さも揃っていない。
「これは……お前じゃ」
私は息を呑む。
「受け方が甘い。無理に力で弾いとる。剣が耐えとるだけじゃ」
ボルドはレイピアを静かに机へ置いた。そして、並んだ二本のナイフへ視線を移す。
「薪を割る時、お前はようやく木を見るようになった。木目を見て、節を見て、初めて木と向き合った」
私のナイフを手に取る。
「じゃが、この鉄は見とらん。ナイフという形しか見とらん」
そのままレイピアへ視線を落とす。
「この剣も同じじゃ。お前は剣を見とらん。前の持ち主ばかり見とる」
その言葉に、胸が強く締め付けられた。
「仲間から受け継いだ剣なんじゃろ」
私は静かに頷いた。
「はい」
ボルドは刀身へ視線を落としたまま続ける。
「その仲間は、お前に何を託した」
私は答えられなかった。
フィアの姿が脳裏を過る。最後まで諦めず戦った少女。
そのレイピアだけが、今も私の手元に残っている。
「受け継ぐというのはな」
ボルドはゆっくりとレイピアを鞘へ納めた。
「前の持ち主になることじゃない」
静かな声だった。
それなのに、一言一言が胸へ深く沈んでいく。
「その者が残した想いも、技も、すべて抱えた上で。最後は、自分の剣にせにゃならん」
私はレイピアへ目を落とす。
刀身には古い傷と新しい傷が混ざり合っていた。
それはまるで、フィアと私が一本の剣を握っているようだった。
「お前さんは、前の持ち主を失うのが怖い。だから変えられん。だから傷まで真似ようとする」
図星だった。
無意識だった。
フィアの剣を変えてしまえば。
フィアまで消えてしまう。
——私は、それが怖かった。
ボルドはレイピアを私へ差し出す。
「この剣は、お前さんに託されたんじゃ。もう、前の持ち主の物じゃない」
「受け継ぐというのはな。守ることでも。真似ることでもない」
ボルドは静かに私を見る。
「自分の傷を刻んでやることじゃ。その時、初めてその剣は、お前の剣になる」
私は静かに柄を握り締めた。
初めて。
フィアの剣ではなく、私の剣として。
つづく
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