第7話 百棟の模型より、四棟の家
第7話 百棟の模型より、四棟の家
百通の契約解除通知が届いた翌朝、フローラ開発社の応接室から椅子が消えた。購入者を座らせて説明する必要はない、とヴィクターが倉庫へ運ばせたのである。代わりに長机の上には、封を切られた通知書と、赤い字で返還請求額を書き込んだ一覧表が広げられていた。
窓の外では細い雨が降り、向かいの屋根から落ちた水が石畳を流れている。暖炉には薪が入っていたが、火を付ける使用人は来なかった。先月分の給金を受け取っていない者から、少しずつ会社を去り始めていた。
ヴィクターは一覧表の最下段に記された合計額を、指で何度もなぞった。購入者百人が支払った代金は、フローラ開発社が所有する建物をすべて売っても返しきれない額だった。ただし、大半は購入者保護のため、王都中央銀行の保全口座に残っている。
「今日中に保全口座の金を移せ」
ヴィクターは秘書へ一枚の指示書を渡した。送金先は、三日前に設立されたばかりの《フローラ資材管理社》だった。名目は、人工島建設に必要な石材と木材の一括購入となっている。
秘書は書類へ目を落とした。新会社の代表者欄には、ヴィクターの遠縁に当たる男の名が記されている。所在地は、フローラ開発社と同じ建物の三階だった。
「購入者から、契約解除の通知が届いております。この時点で資金を移せば、返還を避けるための送金と判断される可能性があります」
「工事を続けるための正当な支出だ。完成させれば、連中も文句は言わん」
「職人は戻っておりません。資材を購入しても、使用する者がいません」
ヴィクターは机の上の完成模型をつかみ、秘書の前へ向けた。応接室へ運び込まれた模型は、土台の片側が欠けて少し傾いている。それでも金色の門も白いヴィラも失われず、百棟の窓が同じ方向へ並んでいた。
「これが完成図だ。ここまで造れば、すべて解決する。まずは金を確保しろ」
秘書は指示書を封筒へ入れた。返事の代わりに外套を着ると、雨の中を中央銀行へ向かう。彼の靴の裏には、人工島で付いた黒い泥が乾いたまま残っていた。
王都中央銀行の資金管理室では、厚い鉄格子の向こうに帳簿が並んでいた。窓口係は送金指示書を受け取り、口座番号と会社印を確認する。次に保全契約書を取り出し、最終頁まで指を滑らせた。
「こちらだけでは、お手続きできません」
「会社代表者の署名と印章はそろっています」
「保全口座から建設費を引き出す場合は、工事の進捗を証明する書類が必要です。全額を移すのであれば、設計責任者による完成証明書をご提出ください」
窓口係は契約書の第十二条を開いた。そこには、引き出しの条件と、登録された設計責任者の氏名が記されている。秘書は硝子越しにその名を読み、口を閉じた。
《設計責任者――セシリア・アルノー》
婚約が破棄されても、登録変更の申請は出されていなかった。変更には旧責任者の署名と、後任建築士による設計引き継ぎ書が必要となる。ヴィクターはセシリアなら最後には折れると考え、その手続きを一度も進めていなかった。
「建物は、ほぼ完成しております。設計責任者は会社と対立し、証明書への署名を拒んでいるだけです」
「でしたら、監督官による現地検査を申請してください。百棟すべてが契約どおり完成していれば、代替証明が発行されます」
窓口係は申請用紙を一枚差し出した。検査項目には、屋根、窓、給排水設備、基礎、安全な進入路、居住可能性が並んでいる。秘書は用紙を受け取らず、送金指示書だけを鞄へ戻した。
「本日のご送金は、承認できません」
鉄格子の小窓が閉まった。秘書は銀行の玄関で雨を避け、しばらく軒下に立っていた。やがてフローラ開発社へ戻ると、銀行の回答を一字も変えずヴィクターへ報告した。
ヴィクターは模型の中央に立つ舞踏会場を、拳でたたいた。小さな金色の尖塔が折れ、赤い絨毯の上へ転がる。彼はそれを拾わず、完成証明書の用紙を用意させた。
「セシリアに署名させればよいのだろう」
「百冊の調査報告書を作成した本人です。屋根のない建物を完成と認めるでしょうか」
「金額を示せば認める。あの女が湖畔のぼろ家を買ったのも、金が欲しかったからだ」
ヴィクターは完成証明書へ人工島の名称と百棟の番号を書き込んだ。完成年月日の欄には、本来の引き渡し期限を記す。設計責任者の署名欄だけを空白にし、会社の印章を強く押した。
午後になると雨は上がった。ヴィクターは証明書と小切手帳を外套の内側へ入れ、馬車でセシリアの工房へ向かった。会社へ戻ってきたリリアーヌには何も告げず、一人で工房の扉を開けた。
室内では、机の上に百冊の調査報告書が積まれていた。購入者へ渡す分とは別に、セシリアが証拠として保管している控えである。灰色の表紙には第一号邸から第百号邸までの番号が記され、十冊ごとに麻紐でまとめられていた。
セシリアは窓際で、別の住宅の図面を確認していた。机の隅には焼いた林檎が置かれ、割れた皮の間から甘い湯気が上がっている。ヴィクターが入っても立ち上がらず、壁の時計だけを見た。
「本日の相談予約は入っておりません」
「金を払いに来た」
ヴィクターは小切手帳を机へ置いた。金額の欄には何も書かれていない。署名だけが先に記され、彼の家名を示す印章が押されていた。
「好きな額を書け。湖畔にもう一棟建てても、釣りが来る額でいい」
「未払いの請求書でしたら、金額はすでに決まっています」
「それとは別だ。これに署名しろ」
完成証明書が、報告書の上へ置かれた。ヴィクターは指先で署名欄をたたく。紙には《全百棟の工事が設計どおり完了し、安全に居住できることを証明する》と印刷されていた。
セシリアは証明書を手に取り、記載された日付を確かめた。次に第一号邸の報告書を開き、屋根と窓がないことを示す図を証明書の横へ置く。第三十三号邸、第七十八号邸、第百号邸の報告書も同じように開いた。
「署名すれば、保全口座の金を引き出せるのですね」
「その金で工事を続ける。完成してしまえば、この紙に書かれたことも事実になる」
「先に完成と証明してから、完成させるのですか」
「手順の問題だ。結果が同じなら、誰も損をしない」
セシリアは第百号邸の頁をヴィクターへ向けた。基礎杭は高潮に洗われ、南側へ傾いている。測定値の下には、《上部構造の建築不可。基礎から再施工を要する》と記されていた。
「この状態から百棟を完成させるには、保全口座の残額だけでは足りません」
「不足すれば、また出資者を募る」
「引き渡し期限を過ぎた未完成物件のために、ですか」
「フローラ・アイランドは王国最大の計画だ。私が失敗すれば、君が正しかったことにはならない。島も、購入者の夢も、すべて失われるのだぞ」
ヴィクターは小切手帳を開き、数字を書き始めた。セシリアが湖畔荘を購入した金額の十倍だった。彼は小切手を切り離し、完成証明書の署名欄へ重ねた。
「これだけあれば、君の小さな工房を十軒建てられる。署名一つで手に入る金だ」
セシリアは小切手を持ち上げた。紙の下から空白の署名欄が現れる。彼女はインク壺の蓋を開けたが、ペンを取らず、赤い印章を取り出した。
完成証明書の中央へ、《証明不能》という印を押す。赤い文字はヴィクターの会社印と重なり、その下に記された完成年月日までかかった。続けて、証明を拒否する理由として、百冊の調査報告書の番号を書き加えた。
「屋根のない家を、完成とは書けません」
セシリアは証明書と小切手を重ね、ヴィクターへ返した。机の端には、証拠として複写しておいた花模様の図面が置かれている。彼女は桃色の花が描かれた杭の記入欄を指した。
「どうしても署名が必要でしたら、花模様の横に、リリアーヌ様からいただいてはいかがですか」
ヴィクターは赤い印の付いた証明書を握った。紙の端が指の中で曲がる。書類を破れば銀行へ提出できず、持ち帰ればセシリアに拒否された証拠が残るため、彼は折ることもできなかった。
「私を破産させたいのか」
「購入者のお金を、購入者へ返したいだけです」
「工事が止まれば、何百人もの仕事がなくなる」
「職人の皆さんは、数字のない図面で人を埋める仕事を断ったのです。仕事を奪ったのは、私ではありません」
ヴィクターは小切手を外套へ押し込み、証明書を秘書用の鞄へ入れた。扉へ向かう途中、百冊の報告書の山へ肩が当たり、一番上の一冊が床へ落ちる。表紙には《第一号邸――現状、居住不能》と記されていた。
セシリアは拾わなかった。ヴィクターも拾わず、靴先でよけて工房を出ていく。馬車が走り去ってから、彼女は報告書を元の位置へ戻し、焼いた林檎を半分に切った。
同じ日の夕刻、セシリアは湖畔へ向かった。森を抜ける頃には雲が切れ、西日が濡れた枝の間から差していた。馬車の荷台には、四つの家へ贈る小さな包みが積まれている。
レインレスト荘の周囲には、新たに三棟のヴィラが完成していた。海運商ベルナーの家には、港で濡れた外套を乾かす大きな部屋がある。織物商夫妻の家には北向きの柔らかな光が入る作業室があり、銀行家夫妻の家には段差のない客室と、孫が使う低い洗面台が造られていた。
三棟は同じ湖を望んでいるが、屋根の高さも窓の位置も違っていた。人工島の模型のように、同じ家を百棟並べたものではない。住む者の朝から夜までを聞き、一軒ずつ線を引いた家だった。
四棟目となる銀行家夫妻の家では、引っ越しの荷箱が廊下に積まれていた。厨房では夫人が豆の煮込みをかき混ぜ、銀行家が黒パンを厚く切っている。孫たちは低い洗面台で手を洗い、水を床へ飛ばしていた。
「食卓が傷つく前に、これをどうぞ」
セシリアは包みを開き、湖畔の古い樫を削って作った鍋敷きを渡した。円形の表面には、家の完成日と家族の名が小さく刻まれている。銀行家の妻は熱い鍋をその上へ載せ、豆の煮込みを四つの皿へ分けた。
外が暗くなると、一棟ずつ窓に明かりがともった。最初はレインレスト荘、次に海運商の家、織物商の家、最後に銀行家夫妻の家だった。湖面には四本の細長い光が揺れている。
派手な音楽も、金箔の門も、祝賀用の葡萄酒もなかった。各家の煙突から夕食の煙が上がり、濡れた薪と煮込み料理の匂いが湖畔の道へ流れる。開いた窓からは、皿を並べる音や、子供が椅子を引く音が聞こえた。
マダム・ローザは銀色の鍵で自宅の扉を閉め、毛糸の室内履きへ履き替えた。彼女はセシリアと並んで湖畔の道に立ち、四棟の窓を順に数える。人工島の百棟を描いた模型よりも、目の前の灯りのほうが小さく、ずっと不ぞろいだった。
「百には、まだ遠いわね」
「数を競っているのではありませんから」
セシリアは四つの煙突から上がる煙を見た。今夜は四つの厨房で鍋が火にかけられ、四つの寝室に乾いた寝具が用意されている。完成証明書へ署名しなくても、完成した家には人の暮らしが始まっていた。
「模型に住むことはできません。でも、こちらの四棟には今夜から人が暮らします」
湖を渡る風が、夕食を知らせる鐘の音を運んできた。セシリアはローザに誘われ、レインレスト荘の食堂へ入る。そこには焼きたての丸パンが二つと、温かな茸のスープが用意されていた。
その夜、王都中央銀行では、保全口座に支払停止の印が押された。設計責任者の完成証明が提出されない限り、資金は一枚の銀貨も動かせない。購入者百人の代金は、ヴィクターの新会社ではなく、返還手続きの日を待って口座に残された。




