第5話 雨の夜の見学会
第5話 雨の夜の見学会
朝刊は、工房の扉の下から半分だけ差し込まれていた。紙の端は夜露を吸って丸まり、一面に印刷されたフローラ・アイランドの完成予想図には、現実にはまだ存在しない金色の屋根が朝日を浴びている。見出しは、図面よりも大きな活字で組まれていた。
《捨てられた令嬢、王国の未来を妨害》
セシリアは新聞を拾い、作業机の上へ広げた。記事には、フローラ・アイランドが王国の観光と海運を支える国家的事業であり、彼女が婚約破棄を恨んで施工図を隠したため、数百人の職人が働けなくなったと書かれている。ヴィクターが盗用した予備設計にも、花模様の図面にも、一行も触れられていなかった。
窓の外では、通勤途中の人々が工房の看板を見上げている。昨日までは中に並ぶ住宅模型をのぞいていた者も、セシリアと目が合うと足を速めた。向かいの菓子屋へ入った二人の貴婦人は、扉を閉めてから扇を寄せ合っている。
ガストンは工房の奥で木枠を削りながら、新聞を横目で見た。床には細かな鉋屑がたまり、朝の光を受けて薄い金色に見える。彼は削りかけの木材を作業台へ置き、手についた粉を前掛けで払った。
「職人が働けないのは、数字のある図面を出さないからです。私が新聞社へ行って説明しましょう」
「記事を書かせるために金貨を渡した人へ、こちらは事実を渡すのですか」
「事実のほうが役に立つと思いますがね」
「雨の日の新聞は、翌朝には炉へ入れられます。家は翌朝も残ります」
セシリアは記事の端へ日付と新聞社名を書き、請求書の控えと一緒に書類箱へ収めた。捨てれば記事が消えたことにされ、破れば内容を認めたと書かれるかもしれない。ならば紙は紙として保管し、別のものを客に見せればよかった。
その日の午後、王都の茶会では、新聞記事が菓子より先に回された。焼きたての薄焼き菓子には誰も手を付けず、貴婦人たちはセシリアがいつヴィクターへ謝罪するかを語り合う。ある者は、施工図を持って泣きつけば復縁できると言い、別の者は、リリアーヌへ嫉妬して工事を止めたのだと断じた。
マダム・ローザは窓際の椅子に座り、林檎の焼き菓子を小さな銀匙で切っていた。新聞を渡されても、眼鏡を掛けずに表紙だけを眺め、四つ折りにして卓上の脚の下へ差し込む。わずかに揺れていた茶卓が、そこで止まった。
「ローザ様は、あの令嬢が設計した家をお買いになったのでしょう。大丈夫ですの?」
「昨夜も屋根は落ちませんでした。今朝は一人で厨房まで歩き、パンを二枚焼きました」
「ですが、新聞には危険な設計士だと――」
「新聞は、私が夜中に転んでも起こしてはくれません」
ローザは林檎の焼き菓子を口へ運んだ。菓子の皮はまだ温かく、皿の上には砂糖が細く残っている。彼女は空になった銀匙を置くと、次の茶会にセシリアを呼ぶ代わりに、自分の家へ客を招くことを決めた。
翌日、セシリアの工房へ一通の手紙が届いた。封筒にはローザの銀色の印章が押され、中には見学会の招待客として六人の名前が記されている。海運商、織物商、宝石商、銀行家と、その妻たちだった。
手紙の最後には、ローザの大きな字が一行だけ添えられていた。
《晴れた昼では、あの家の値打ちは半分しか見えません》
セシリアは工房の窓から空を見上げた。西の雲はまだ薄かったが、風は三日続けて湖の方角から吹いている。机の脇に置いた気圧計の針も、朝から少しずつ下がっていた。
彼女は雨の記録帳を開いた。王都の測候所が出した予報と、湖畔荘の建設中につけた風向きの記録を重ねる。四日後の夕刻から夜半にかけて、今年一番の大雨になる可能性が高かった。
「ガストンさん、四日後に見学会を開きます」
「雨が上がるのは五日後でしょう」
「ですから、四日後です。雨具を六人分と、玄関の乾燥室へ薪を多めに用意してください」
招待状には、荒天のため中止するという一文を入れなかった。代わりに、履き慣れた靴で来ること、着替えの靴下を一足持参すること、到着が難しい場合は無理をしないことを記した。最後に、《雨天決行》と太い線で囲んだ。
見学会当日の午後、湖は鉛色に変わった。森の木々は葉の裏を見せ、風が吹くたび枝が同じ方向へ傾く。レインレスト荘の厨房では、大鍋に豆、玉葱、蕪、塩漬け肉が入り、ローリエと胡椒の匂いが湯気に混じっていた。
ローザは窓際の椅子に座り、毛糸で編んだ室内履きを履いていた。膝には薄い毛布を掛け、外の雨脚を見ながら林檎の皮をむいている。皮は途中で切れず、細長い赤い帯になって籠へ落ちた。
「本当に客が来ると思う?」
「三人来れば十分です」
「六人とも来たら?」
「煮込みへ豆を足します」
最初の馬車が到着したとき、雨は石畳へ斜めに打ち付けていた。御者が扉を開けると、海運商ベルナー夫妻が外套の襟を押さえながら玄関へ駆け込む。続いて織物商と宝石商の馬車も到着し、最後には銀行家夫妻まで泥を跳ね上げながら現れた。
六人全員が来た。
玄関で外套を脱ぐと、使用人が乾燥室へ運んだ。室内には暖炉から細い温風を引く管が通され、濡れた布を掛ける木枠が並んでいる。床には排水用の溝があり、外套から落ちた水滴は壁際へ流れていった。
海運商の妻は帽子を外し、濡れた羽飾りを見た。
「これを暖炉の前へ置けば、焦げてしまいますわね」
「ここなら直接火へ近づけず、温めた空気だけを通します。お帰りまでには乾きます」
「玄関の隣に、外套のための部屋を作ったの?」
「濡れた外套を居間へ持ち込めば、椅子も絨毯も湿ります。家へ入って最初に必要なのは、客間よりこちらでした」
客たちは乾いた室内履きへ履き替え、食堂へ案内された。厨房から運ばれた煮込みは、厚い陶器の器で湯気を立てている。焼いた黒パンを割ると中から温かな香りが立ち、溶けた山羊のチーズが糸を引いた。
窓の外では、湖面が白く砕けていた。風に押された波が岸の石へぶつかり、雨粒が大きな窓をたたく。宝石商は匙を置き、窓枠へ顔を近づけた。
「これほど降っているのに、水が入らないのですな」
セシリアは窓の上に張り出した軒を示した。深い軒が風に乗った雨を受け止め、窓枠へ直接当たる量を減らしている。外壁を伝う水も、窓の上に設けた細い溝から左右へ逃がされていた。
「高価な硝子を使ったからではありません。水が入ろうとする場所へ、入る前の道を作りました」
食事を終える頃、雨音はさらに強くなった。屋根を打つ音は食堂では聞こえたが、一階の寝室へ入ると、厚い扉と二重壁に遮られて低い響きへ変わった。寝台の脇では、足元灯の小さな火が揺れずに燃えている。
ローザは毛糸の室内履きのまま廊下へ出た。杖を持たず、壁の手すりへ指先を添えて歩く。来客たちは彼女の後ろから、寝室、便所、食堂までの道をたどった。
「以前の屋敷では、夜中に水を飲みたくなっても侍女を起こしていました。今は自分で厨房へ行けます。途中で窓から雨を見る余裕まであります」
ローザは廊下の小窓で足を止めた。硝子の外を水が流れているが、木枠は乾いている。彼女は指で枠をなぞり、その乾いた指先を客たちへ見せた。
雷が一度、湖の向こうで鳴った。灯りが細く揺れたが、暖炉の火は消えず、煙も室内へ戻らない。煙突の上に付けた風よけが、湖から吹き付ける突風を左右へ逃がしていた。
銀行家は食堂へ戻ると、帳面を開いた。
「屋根から流れた水は、すべて庭へ捨てるのですか」
「地下槽へためています。ご覧になりますか」
セシリアは客たちを裏廊下へ案内した。外へ出なくても、地下槽の水位を示す浮きが壁の目盛りに連動する仕組みになっている。針は雨が強まるほど上がり、今は半分を超えたところを示していた。
「明日の洗濯と庭の水やりに使えます。槽が満水になれば、余った分だけ古い石溝から湖へ戻ります」
「こんな嵐でも、あふれないのですか」
「建設中に一番多く降った雨の、倍の量までためられます。それを超えたときの逃げ道も作ってあります」
客たちは交代で目盛りを確かめた。人工島の模型にはなかった水の道が、この家では壁の内側と庭の下を通っている。目には見えなくても、雨が降るほど働きが分かる仕組みだった。
夜半を過ぎると、湖へ続く道の一部がぬかるみ、客たちは泊まることになった。客室には乾いた寝具が用意され、廊下には足元灯がともされた。寝室の扉を閉めると、荒れた湖の音は遠くなり、時折、軒から落ちる水が地下槽へ流れる音だけが聞こえた。
翌朝、雨は細くなっていた。東の空から薄い光が差し、濡れた湖面に長い道を作っている。乾燥室に掛けた外套は、焦げ跡も湿り気もなく、温かな布の匂いを残していた。
食堂では焼きたてのパン、炒り卵、地下槽の水で洗った葉野菜が並んだ。客たちは朝食を終えても馬車を呼ばず、セシリアが持参した土地の目録と設計見本を見ている。やがて海運商ベルナーが、一枚の依頼書を手元へ引き寄せた。
「港の近くに土地がある。塩風に耐え、外套を乾かせる家を頼みたい」
織物商は、妻が冬でも機織りを続けられる、明るい作業室を求めた。銀行家夫妻は、階段を使わず暮らせる家と、孫が泊まれる小さな客室を希望した。セシリアはそれぞれの条件を書き込み、同じ外観にはならないと説明する。
三人は順に、依頼書へ署名した。
マダム・ローザは銀色の鍵を卓上へ置き、昨日の新聞をその隣へ広げた。湿った靴を乾かした火に入れるつもりだったが、セシリアは新聞を受け取って折り畳む。記事の日付と見出しを確認し、工房へ持ち帰る書類箱へ収めた。
宝石商の妻が、新聞と乾いた窓枠を見比べた。
「この記事へ、反論をお出しにならないの?」
セシリアは三件の契約書を重ね、革鞄へ入れた。外では軒から最後の雨水が落ち、地下槽の目盛りは満水の少し手前で止まっている。玄関には、乾いた六着の外套が並んでいた。
「噂は乾かせませんが、濡れない家ならお見せできます」
その日の午後、王都へ戻った三人の富豪は、それぞれの知人へ雨の夜の話をした。新聞記事にはセシリアの反論が一行も載らなかったが、翌朝には彼女の工房の前へ、設計相談を求める馬車が二台止まった。
同じ朝、フローラ開発社の窓口には、人工島の購入者たちが集まり始めていた。彼らが手にしていたのは設計依頼書ではない。すでに支払った代金と、完成予定日を記した契約書だった。




