第4話 花を描いても、杭の深さは決まりません
第4話 花を描いても、杭の深さは決まりません
フローラ開発社の役員室には、湖畔のヴィラが売れたという記事が置かれていた。朝刊の三面には、銀色の鍵を持つマダム・ローザと、その隣に立つセシリアの姿が小さく掲載されている。記事の見出しには、《古い湖畔荘が、老後を支える新しいヴィラに》と記されていた。
ヴィクターは記事を二つに折り、灰皿へ押し込んだ。火の付いていない紙は燃えず、セシリアの顔だけが折り目の下から残る。彼は机の引き出しを開け、赤い紐で束ねられた図面を取り出した。
婚約期間中、セシリアがフローラ開発社の会議へ持参していた下書きだった。ヴィクターは彼女が席を外した際、秘書に命じて複写させていた。正式な施工図を受け取るまでの控えにすぎなかったが、線の数が多く、専門知識のない者が見れば完成した設計図に見える。
「これだけあれば十分だ。数字の空いているところは、職人に計算させろ」
秘書は図面を一枚ずつ机へ広げた。基礎の配置も地下排水路の位置も描かれていたが、線の脇には空白の枠が並んでいる。地盤調査後に、杭の深さや基礎の厚さを書き入れるための欄だった。
「こちらは下書きと記されています。頁の隅には、調査前と赤字で――」
「複写するときに、その文字を消せばいい」
ヴィクターは赤い注意書きへ指を置いた。秘書は返事をせず、複写用の紙を重ねる。窓の外では荷馬車が行き交い、道路に残った雨水を車輪が細く跳ね上げていた。
昼前になると、リリアーヌが白い日傘を侍女へ預け、役員室へ入ってきた。淡い黄色のドレスには、胸元から裾まで色糸の花が刺繍されている。彼女は机いっぱいに広げられた図面を見ると、椅子へ腰を下ろす前に口元を尖らせた。
「まあ、ずいぶん殺風景ですこと。灰色の線と数字ばかりでは、富豪の夢には見えませんわ」
「これは職人に渡す図面だ。客に見せるものではない」
「職人だって、美しい図面を見たほうが気持ちよく働けます。ヴィクター様の会社が作るものなら、紙の一枚まで華やかでなくては」
リリアーヌは秘書の机から色インクを持ってこさせた。緑、桃色、紫、金の小瓶が図面の脇へ並べられる。彼女は細いペンへ緑のインクを含ませ、空白の枠から伸びる蔓草を描き始めた。
秘書が椅子から立ち上がった。けれどヴィクターが片手を上げると、口を閉じて座り直す。リリアーヌの蔓は排水路を横切り、桃色の花が杭番号を記す欄の中央で開いた。
「見てくださいませ。空白がなくなっただけで、ずっと完成品らしくなりましたわ」
「君には、セシリアにはない美的な才能がある」
ヴィクターはリリアーヌの肩へ手を置いた。彼女は次の空欄に紫色の花を描き、頁の隅へ自分の頭文字を署名する。秘書はインクの乾いた図面を集め、何も言わず図面筒へ収めた。
翌朝、図面は高速船で人工島へ運ばれた。ヴィクターは工事再開を見届けるため、リリアーヌとともに船を降りる。前夜にも短い雨が降り、島の中央には前回より大きな水たまりができていた。
集められた職人たちは、資材置き場の前で図面筒が開かれるのを待っていた。ガストンは湖畔荘の改修を終えたあとも人工島には戻らず、代わりに王都で四十年働いてきた棟梁のバルテスが呼ばれている。太い腕と曲がった指を持つ男で、若い頃には王宮西棟の基礎工事にも参加していた。
「正式な施工図を用意した。今日から第一街区の杭打ちを始めろ」
ヴィクターが差し出した図面を、バルテスは両手で受け取った。最初の頁を開き、次に二枚目、三枚目を見る。桃色の花が描かれた頁で指が止まった。
「旦那様、地盤調査書はどこです」
「必要なことは、その図面に書いてある」
「杭の深さが書かれておりません」
「これまでの経験で決めろ。そのために高い賃金を払っている」
バルテスは地面へしゃがみ、図面を木箱の上へ広げた。職人たちが後ろからのぞき込む。桃色の花は杭の位置を示す円へ重なり、緑の蔓が基礎の外周線を覆っていた。
リリアーヌは日傘の陰から顔を出した。
「その装飾は私が描きましたの。殺風景な紙より、ずっと働きやすいでしょう?」
バルテスは人差し指を図面へ下ろした。節くれ立った指先が、桃色の花の中央を隠す。職人たちは互いの顔を見たが、口元を動かす者はいなかった。
「お嬢さん、ここは花を咲かせる場所じゃない。杭を何尺打つかを書く場所です」
「それくらい、あなたたちで決められませんの?」
「一尺違えば、家が傾くことがあります。ここは自然の島ではなく、海へ土を積み上げた場所です。固い地盤へ届くまで打つのか、途中の層で支えるのか、調べずに決めることはできません」
バルテスは隣の空欄へ指を移した。そこには紫色の小花が三つ描かれている。花の下には本来、基礎の厚さを記入するはずだった。
「こちらも空欄です。排水路の勾配も、高波を受ける壁の高さもありません。絵に合わせて石を積めと言われても、私は人の墓を建てるために四十年働いてきたわけではない」
ヴィクターは図面を取り上げた。花模様の下に数字が隠れていないか、光へ透かして見る。しかし紙にあるのは、調査前の細い線とリリアーヌの装飾だけだった。
「セシリアの図面を複写したものだ。あの女が間違った図面を残したのだろう」
「隅に原本番号があります」
バルテスは一枚目の右下を指した。《FI・予備設計・一七》。その下には、《地盤調査前・施工禁止》という文字を消した跡が薄く残っている。
「字を削っても、紙のへこみまでは消えません。これは施工図ではなく、調査前の下書きです」
島を渡る風が図面の端を持ち上げた。リリアーヌの描いた花が何度も折れ曲がり、ヴィクターは靴で紙を押さえる。職人たちは木箱を閉め、槌と縄を手押し車へ載せ始めた。
「待て。誰が帰ってよいと言った」
「正式な施工図が届くまで、杭は打ちません」
「命令に逆らえば、二度とフローラ開発社の仕事は回さんぞ」
バルテスは図面を筒へ戻した。近くでは若い職人が水たまりのそばへ立ち、泥に沈んだ測量棒を引き抜いている。棒の先には、前日より濃い黒土が付いていた。
「屋根を金色にする仕事なら、ほかを探します。自分が打った杭の上で人が寝る仕事なら、数字のある図面を持ってきてください」
職人たちは道具を積み終えると、作業船へ向かった。今回はヴィクターが呼び止めても、振り返る者はいない。人工島には、泥を踏む靴音と、図面筒を握りしめるヴィクターだけが残された。
その日の午後、セシリアは王都西区に借りた小さな工房で、二件目の依頼書を読んでいた。元は仕立屋だった建物で、正面の大窓にはまだ古い糸巻きの絵が残っている。室内には湖畔荘で使わなかった木材を再利用した机が置かれ、壁には雨水槽と段差のない廊下の図面が貼られていた。
暖炉の上では湯が沸き、セシリアは乾燥させた林檎の皮を茶器へ入れた。甘い香りが狭い部屋に広がる。午前中にガストンが届けてくれた黒パンには、薄く山羊のチーズを塗ってあった。
玄関の扉が、呼び鈴を鳴らす前に開いた。泥の付いた長靴でヴィクターが入り、後ろから秘書が花模様の図面筒を抱えて続く。セシリアは壁の時計を見てから、読みかけの依頼書へ布をかぶせた。
「予約表にお名前がありませんが、ご相談でしょうか」
「くだらない芝居はやめろ。図面を完成させろ」
ヴィクターは図面筒を机へ投げた。中から紙が滑り出し、リリアーヌの描いた花がセシリアの前へ広がる。緑の蔓は外周基礎を横切り、金色の蝶が排水升の位置に描き加えられていた。
セシリアは図面へ触れず、棚からもう一つ茶碗を出した。林檎の皮を煮出した紅茶を注ぎ、ヴィクターの前へ一杯だけ置く。秘書には水を勧めたが、ヴィクターへ二杯目を出す支度はしなかった。
「これは私が作成した予備設計の複写ですね。原本番号は一七。地盤調査前のため、施工への使用を禁止した図面です」
「空欄を埋めれば済む。君なら一時間もかからないだろう」
「杭の深さは、島の地盤を調べなければ決まりません。基礎の厚さには建物の重量計算が必要です。排水勾配も、島全体の高低差を測り直さなければ出せません」
「婚約していた間、私が君にどれだけ便宜を図ったと思っている。昔のよしみで、それくらい引き受けてもよいだろう」
ヴィクターは紅茶へ口を付けた。林檎の皮が一片、茶碗の縁に浮いている。以前ならセシリアが取り除いたが、今は机の引き出しから一枚の書類を取り出した。
書類の上部には、《請求書》と大きく記されている。項目は四つあり、予備設計図の無断複製料、使用許諾違反による追加料金、人工島の再調査費、建築相談料が並んでいた。合計額は、湖畔荘の屋根をもう一度張り替えられるほどだった。
「何だ、この金額は」
「図面を複写なさった時点で発生した費用です。なお、空欄を埋めるだけのご依頼はお受けできません。再調査と再設計が必要になります」
「私が君を紹介しなければ、建築士として仕事をすることもできなかったはずだ」
セシリアは請求書の下へ、湖畔荘の売買契約書の写しを置いた。設計者の欄には彼女の名前があり、所有者となったマダム・ローザの署名も並んでいる。ヴィクターの名は、どこにもなかった。
「最初の一棟は、すでに私の名前で完成し、売却されました」
ヴィクターは契約書を見下ろしたまま、紅茶の茶碗を机へ戻した。受け皿へ褐色の雫がこぼれる。セシリアは布巾で拭かず、請求書を彼の側へ押し出した。
「昔の婚約者としてではなく、建築士としてお話しいたします。最初の一時間分を、先にお支払いください」
「君は、私が頭を下げれば戻れると思っているのか」
「いいえ。お支払いいただければ、相談時間が始まると申し上げています」
壁の時計が四時を打った。ヴィクターは請求書を握り、椅子から立ち上がる。花模様の図面を秘書に拾わせ、飲みかけの紅茶を残したまま扉へ向かった。
「こんな請求書を払う者はいない。君が婚約破棄を恨んで工事を妨害していることを、王都中へ知らせてやる」
「請求書の支払期限は、下から二行目に記載しております」
ヴィクターは扉を強く閉めた。窓ガラスが小さく鳴り、机の茶碗に浮いた林檎の皮が揺れる。セシリアは飲み残された紅茶を流しへ捨て、茶碗を一つだけ洗った。
机の上には、請求書の控えが残っていた。セシリアは《未払い》と赤い印を押し、花模様の図面の原本番号を書き添える。次に黒パンを二つに割り、冷めないうちに自分の紅茶を飲んだ。
翌朝、王都で最も発行部数の多い新聞社へ、ヴィクターの使者が金貨の入った封筒を届けた。封筒には短い見出し案が添えられていた。
《捨てられた令嬢、富豪の夢を妨害する》




