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第3話 一軒目の「本物の夢」

第3話 一軒目の「本物の夢」


湖畔荘へ向かう馬車は、王都を出て三時間ほどで舗装路を外れた。前夜の雨を吸った轍は深く、車輪が窪みへ落ちるたび、座席の下に置いた測量器具が木箱の中でぶつかった。セシリアは窓を少し開け、湿った森の匂いを確かめながら、膝の上の地図へ湖から吹く風の向きを書き込んだ。


昼を過ぎた頃、木立の間に灰色の屋根が見えた。目録の挿絵では屋根の中央が少し沈んでいるだけだったが、実際には瓦が大きく抜け、その下から折れた垂木がのぞいている。正面玄関まで続く石畳は苔に覆われ、庭の噴水には水の代わりに枯れ葉が積もっていた。


馬車を降りた御者は、扉の上から垂れ下がる蔓草を鞭の柄でよけた。


「お嬢様、本当に中へ入るのですか。屋根が落ちてきても、馬車では受け止められませんよ」


「屋根は馬車に受け止めてもらうものではありません。どこまで直せるか、先に確かめます」


セシリアは泥の付いた靴で玄関前の石段を踏んだ。一段目には大きなひびがあったが、体重をかけても沈まない。ひびの隙間から生えた草を抜くと、下には厚い一枚石が残っていた。


錆びた鍵は二度回しても動かなかった。管理人が肩で扉を押すと、湿った木が軋み、隙間から埃と黴の匂いが流れ出した。玄関広間の壁紙には天井から床まで茶色い水染みが走り、敷かれた絨毯は靴底へまとわりつくほど湿っていた。


右手の客間では、天井の一部が床へ落ちている。左手の食堂には、十二人掛けの長い食卓が白布をかぶせたまま残されていた。白布をめくると、樫材の天板には黴がなく、脚の接合部にも緩みがない。


「家具まで捨てられたのではなく、家ごと捨てられたのですね」


セシリアは食卓の裏側へ指を当てた。木は乾いており、腐った感触はない。屋根から入った雨は壁際を伝っているが、家の中央までは達していなかった。


厨房の戸棚には鼠がかじった穴があり、棚の上には黒くなった小麦粉の袋が残されていた。古い調理台は食堂から遠く、料理を運ぶには二つの廊下と三段の階段を通らなければならない。主人たちから匂いと物音を遠ざけるための造りだったが、鍋を持って何度も往復する使用人のことは考えられていなかった。


セシリアは歩数を数え、手帳へ記録した。食堂の裏壁を一部開けば、厨房までの距離を半分以下にできる。階段を取り除き、緩い傾斜に変えれば、配膳車も使える。


二階へ続く階段では、中央の板が虫に食われていた。セシリアは壁際へ足を置き、手すりを引いて強度を確かめながら上る。寝室の扉を開けると、抜けた屋根の向こうに薄い雲が流れ、雨水を吸った寝台の天蓋から水滴が落ちていた。


それでも、南側の部屋には午後の日が入っていた。湖面から反射した光が、汚れた壁の半分まで届いている。窓を開けると冷たい風が吹き込み、湿った空気を廊下の奥へ押し流した。


セシリアは窓辺へ細い布を結び、風の動きを見る。布は北東へ向かって揺れ続けた。夏は湖から風を取り込み、冬は北側の窓を小さくすれば、暖炉の熱を逃がさずに済む。


「屋根を全部造り直す必要はありません。南棟の梁は残せます」


同行した管理人が、穴の開いた天井を見上げた。


「ですが、これを直すくらいなら、取り壊して新しく建てたほうが早いのではありませんか」


「早くても、安いとは限りません。新しい家を建てれば、六十八年前に運ばれたこの石も、乾燥した梁も、すべて買い直すことになります」


セシリアは窓枠へ爪を立てた。表面の塗料は剥がれたが、中の木は硬い。傷んだ部分だけを切り替えれば、まだ何十年も使える。


翌朝、彼女は日の出前に別荘へ戻った。東側の窓から光が入る時刻を測り、正午には屋根の影がどこまで伸びるかを確認する。夕方まで湖岸に立ち、斜面を吹き上がる風と、森から下りてくる冷気の流れを手帳へ描いた。


井戸からくみ上げた水は、透明な瓶へ入れて一晩置いた。泥は沈まず、鉄臭さもない。少量を煮沸し、町の薬師に調べてもらうと、飲み水として使えるとの結果が出た。


基礎石の沈みは、自分で張った水平糸で測った。西側の角だけが二本の指ほど下がっていたが、石を一度持ち上げ、地面を締め直せば修復できる範囲だった。床下へ潜ったセシリアは、蜘蛛の巣を髪に付けたまま、梁を一本ずつ小槌でたたいた。


乾いた硬い音が、暗い床下に続いた。雨漏りの真下にある数本を除き、大半の梁は健在だった。彼女は腹ばいのまま手帳へ印を付け、改修に必要な金額を計算した。


購入費を支払えば、手元に残る資金は多くない。大理石を一枚入れれば浴室の配管が買えず、金箔を貼れば屋根の瓦が足りなくなる。セシリアは装飾に割り当てられていた欄へ、横線を引いた。


三日後、セシリアは湖畔荘の売買契約書へ署名した。立ち会った不動産商は、何度も金額を数え直し、この建物に買い手が付くとは思わなかったと口にした。セシリアは銀貨の袋を渡し、引き換えに錆びた古い鍵を受け取った。


「この家に、名前を付け直されますか」


「完成してから決めます。今はまだ、屋根の穴をふさぐほうが先です」


工事は、壊れたものを運び出すことから始まった。水を吸った壁紙、腐った絨毯、鼠の巣になった戸棚を外へ出し、使える石と木材は庭の一角へ分けて積む。セシリアも古い作業着に着替え、釘を抜き、板の状態を確かめた。


人工島の工事を離れたガストンが、三人の職人を連れて湖畔荘へ来たのは、その二日後だった。彼は抜けた屋根と積み上げられた古材を見比べ、帽子のつばを上げた。セシリアが用意した施工図には、杭の深さも排水勾配も、材料の再利用箇所も数字で記されていた。


「百棟の現場を離れて、一棟を直していると聞きました」


「まだ一棟も建たない現場より、こちらのほうが仕事になると思いませんか」


ガストンは施工図を最後までめくった。庭へ流れる雨水を地下槽に集め、畑と洗濯に使う仕組みの頁で手を止める。次に、古い石溝へしゃがみ込み、傾きを確かめた。


「工期は四か月。賃金は人工島の八割ですか」


「先に払える金額は、それが限度です。ただし、追加工事を頼む場合は、その都度契約書を作ります。完成したら、この家を見本として次の仕事を取ります」


「飯は出ますか」


「昼は豆のスープと黒パンです。肉は週に二度になります」


ガストンは後ろの職人たちを振り返った。彼らは屋根を見上げたり、残された梁をたたいたりしている。やがて一人が、庭に転がっていた石を持ち上げた。


「この石なら削り直せる。買えば高いぞ」


「では、肉が週に三度になるまで働きましょう」


工事は屋根から始まった。傷んだ垂木だけを交換し、地元で焼いた濃い灰色の瓦を載せる。窓の上には深い軒を設け、雨が壁を伝わないよう角度を調整した。


西側の沈んだ基礎石は、四人で家の角をわずかに持ち上げ、砂利と砕石を入れて据え直した。庭の古い石溝は掘り返して詰まりを除き、その先に雨水をためる地下槽を造る。最初の雨が降った夜、セシリアとガストンは提灯を持って庭に立ち、水が計算どおり槽へ流れるところを最後まで見届けた。


厨房と食堂を隔てていた壁には、新しい扉を設けた。三段の階段は取り除き、緩い傾斜へ造り替える。使用人用の冷たい洗い場には、小さな暖炉と湯を引く管を設け、その隣に乾いた服を置ける休憩室を作った。


「客室より先に、使用人の浴室を直すのですか」


石工が首へ巻いた布で汗を拭いた。セシリアは浴槽の高さを測り、出入りしやすい位置へ印を付ける。厨房では昼食用の豆が煮え、燻製肉の匂いが廊下まで届いていた。


「働く人が冷えた手で湯を運ぶ家を、暖かい家とは呼べません」


予定していた四か月目の終わり、湖畔荘は一軒のヴィラとして完成した。金色の屋根も、大理石の噴水もない。灰色の石壁と深い軒、雨に濡れても滑りにくい床、湖へ向いた大きな窓があるだけだった。


完成披露の日、セシリアは王都の不動産商と数人の顧客を招いた。広間の中央には、修復した古い樫の食卓が置かれている。新しい布を掛けた上には、地元のチーズ、焼いた茸、丸い黒パンが並び、厨房から温かな香草茶が運ばれてきた。


最初に到着したマダム・ローザは、銀髪を深緑の帽子に収め、黒檀の杖をついていた。海運と織物で財を築いた夫を十年前に亡くし、現在は王都に三軒の屋敷を所有している。彼女は玄関へ入ると、湖の眺望より先に床を杖の先で二度たたいた。


「磨いた大理石ではないのね」


「地元の石です。濡れても滑りにくいよう、表面を少し粗く残しました」


ローザは玄関から食堂まで歩いた。敷居には足を上げるほどの段差がなく、壁には手すりが続いている。食堂へ入っても椅子には座らず、寝室へ案内するよう求めた。


一階の寝室は、夜間に階段を使わなくてよい位置に設けていた。寝台から便所までの廊下は真っすぐで、途中に家具の角もない。壁際の足元灯は、小さな油皿一つで朝まで燃える。


ローザは杖を侍女へ渡した。壁の手すりへ片手を置き、寝室から廊下の端までゆっくり歩く。途中で一度も裾を踏まず、傾斜のある場所でも足を止めなかった。


「夜中に一人で歩けるわね」


「戸口の幅も広くしてあります。将来、椅子に車輪を付けて移動することになっても通れます」


「縁起でもない、と言わないのね」


「通れなくなってから壁を壊すほうが、よほど大変ですから」


ローザは声を上げて笑った。寝室の窓を開けさせ、湖から入る風を頬に受ける。窓辺へ置かれた椅子に座ると、侍女から完成見学用の銀色の鍵を受け取った。


鍵には、セシリアが新しく名付けた家の名が刻まれていた。


《レインレスト荘――雨の夜に休める家》


ローザは鍵を光へかざし、刻印を読んだ。客たちは露台で湖を眺め、食堂ではチーズの切り分けが始まっていたが、彼女は寝室から動かなかった。


「この家を売ってちょうだい」


セシリアは窓枠を確認していた手を止めた。ローザは銀色の鍵を掌へ置き、指を閉じる。節の目立つ指には大粒の宝石がはめられていたが、彼女が見ているのは指輪ではなく、廊下の手すりだった。


「王都の屋敷は階段ばかりで、夜は水を飲みに行くこともできないの。客に見せる広間は三つあるのに、私が一人で歩ける廊下は一本もないわ」


ローザは杖を受け取り、もう一度立ち上がった。


「私は財産を見せる家ではなく、夜中に一人で歩いても転ばない家が欲しいの」


セシリアは売買価格と引き渡し条件を説明した。ローザは値引きを求めず、その場で手付金の小切手を書く。金額は湖畔荘の購入費と改修費をすべて支払っても、次の一棟へ着手できるだけ残る額だった。


夕方、最後の客が帰ったあと、職人たちは食堂の長机へ集まった。昼に残った黒パンを厚く切り、鍋底の豆と燻製肉を皿へ分ける。ガストンはローザの署名が入った契約書を見て、自分の杯へ薄い葡萄酒を注いだ。


「百棟より先に売れましたな」


「こちらは、もう屋根がありますから」


セシリアはそう答え、温かなスープへ黒パンを浸した。四か月前、伯爵家の食卓で食べたパンとは違い、表面を割ると湯気が立った。窓の外では細い雨が降り始め、深い軒から流れた水が石溝を通り、地下槽へ吸い込まれていく。


翌朝、レインレスト荘の銀色の鍵は、マダム・ローザへ正式に引き渡された。


同じ時刻、王都のフローラ開発社では、ヴィクターが鍵の意匠まで描かれたセシリアの古い図面を机へ広げていた。彼の指は、頁の隅に記された原本番号を覆っていた。


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