↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
2/8

第2話 見た目だけでは水は流れません

第2話 見た目だけでは水は流れません


フローラ・アイランド行きの作業船は、夜明けとともに王都南港を出た。荷台には石材を削る道具、杭を打ち込む槌、泥を運ぶ手押し車が積まれ、五十人を超える職人が無言で海を見ている。昨夜の雨は上がっていたが、低い雲が沖を覆い、甲板を渡る風には湿った土と海藻の匂いが混じっていた。


人工島へ着くと、職人たちは船着き場から資材置き場まで、泥を踏みながら歩いた。白砂で覆われていたのは、昨日の発表会に置かれた模型だけである。実際のフローラ・アイランドには黒ずんだ盛り土が積まれ、窪地には前夜の雨水が茶色い水たまりを作っていた。


現場監督のガストンは、一番大きな水たまりの縁でしゃがんだ。棒を差し込むと、先端は泥の中へ肘の辺りまで沈んだ。昨日までは水のなかった場所であり、本来なら地下排水路へ流れるはずの雨が、盛り土の中へ残っている。


「全員、道具を置け」


職人たちは一斉に槌や鋤を下ろした。重い鉄が木箱や地面へ触れ、島の各所で鈍い音を立てる。海鳥の鳴き声だけが、そのあとに残った。


ほどなくして、装飾を施した高速船が船着き場へ着いた。ヴィクターは濃紺の外套を羽織り、磨き上げた革靴で泥をよけながら桟橋を渡ってくる。後ろから秘書が図面筒を抱えて続いたが、その筒は昨夜の雨を一滴も浴びていないほど新しかった。


「なぜ作業を始めていない。今日は中央広場の石敷きと、第一街区の杭打ちをする予定だろう」


ガストンは帽子を取り、ヴィクターの前へ進んだ。作業着の裾からは泥水が落ち、革靴の近くへ小さな染みを作る。ヴィクターはそれを見て半歩下がった。


「施工図がありません」


「図面なら持ってきた。昨日、皆の前で公開したものだ」


秘書が図面筒から数枚の紙を取り出した。広げられたのは、金色の屋根と白い列柱を描いた完成予想図だった。夕日を受けて輝く窓には、正装した男女が葡萄酒の杯を掲げている。


ガストンは紙の端を指で押さえ、裏返した。そこにも海から眺めた人工島の絵が描かれていたが、寸法を示す数字はほとんどない。基礎も地中の杭も、絵の中では砂浜の下へきれいに隠されていた。


「これは客へ見せるための絵です。杭をどこへ、何尺の深さまで打つのかが書かれておりません。基礎の高さも、雨水を流す勾配もありません」


「同じ形に造ればいい。職人なら、絵を見れば分かるだろう」


職人たちは道具のそばに立ったまま、誰も動かなかった。ガストンは外観図を畳み、泥へ落ちないよう秘書へ返した。次に靴先で水たまりの縁を崩すと、茶色い水が低い側へ数センチ流れ、すぐ別の窪みへたまった。


「旦那様、屋根の金色は後からでも選べます。しかし、水がどちらへ流れるかを決めずに石を敷いたら、最初の大雨で地下室まで池になります」


「昨日は、ちゃんと設計責任者がいたではないか。セシリアが図面を持っているなら、取りに行かせればいい」


ヴィクターは秘書へ顔を向けた。秘書は外套の内側から一通の封書を取り出し、まだ閉じられたままの封蝋を見せる。今朝、伯爵家へ届けるため用意した呼び出し状だった。


「すぐに持ってこさせろ。あの女は私の命令を拒めない」


「昨夜、婚約破棄を宣言なさったと伺いました。施工図の使用契約も、まだ結ばれていないそうです」


ガストンの声に、ヴィクターは眉を寄せた。島の中央では、別の職人が測量棒を地面から抜いている。杭打ち職人たちも工具箱の蓋を閉じ、縄を巻き始めていた。


「勝手に帰るな。賃金を払わんぞ」


「建てられないものを建てたことにして賃金をいただくわけにはまいりません。それに、数字のない現場で事故を起こしたら、埋まるのは旦那様ではなく、私どもの仲間です」


ガストンは帽子をかぶり直した。職人たちは手押し車へ道具を積み、来た道を船着き場へ戻り始める。ヴィクターが声を張り上げても、槌を握る者は一人も残らなかった。


王都のアルノー伯爵邸では、セシリアが小さな食堂の窓を開けていた。雨上がりの庭から、濡れた土とローズマリーの匂いが入ってくる。屋根の端から落ちる水滴は、昨夜から置かれた木桶の中へ規則正しく落ちていた。


食卓には、昨夜持ち帰った丸い黒パンが置かれている。革鞄の中で契約書に押されて少し平たくなり、表面は指でたたくと乾いた音を立てた。セシリアはそれを小さくちぎり、玉葱と豆の野菜スープへ浸した。


温め直したスープから白い湯気が上がる。パンは汁を吸って柔らかくなったが、底の硬い部分には昨夜の形が残っている。セシリアは銀匙で押しながら、食卓いっぱいに広げた住宅案へ目を通した。


どれも人工島のために描いたものではなかった。子供が走っても暖炉へぶつからない居間、夜中に寝室から便所まで歩きやすい廊下、冬の陽光を長く取り込む窓。ヴィクターに見せても「夢が小さい」と退けられた設計ばかりだった。


玄関の呼び鈴が三度鳴った。しばらくして、老執事が銀の盆に封書を載せて食堂へ入ってくる。フローラ開発社の紋章を押した赤い封蝋が、朝の光を受けて光っていた。


「お嬢様、ヴィクター様の使者が、ただちに返事をいただきたいと申しております」


セシリアは封を開き、四行だけの文章を読んだ。施工図一式を持参し、正午までに人工島へ出頭せよ。命令に従わなければ、工事遅延の損害を請求する、と記されていた。


彼女は呼び出し状を二つに折った。返事を書く代わりに、食卓の脚がわずかに揺れる場所へ手を伸ばす。書状をさらに折り、黒パンを載せた皿の下へ差し込むと、器の揺れがぴたりと止まった。


「使者には、お返事は契約書に記載されていると伝えてください」


執事は皿の下に消えた侯爵家の紋章を一度見た。口元の白いひげを整え、銀盆を胸の前へ戻す。退室する前に、庭の木桶を指した。


「昨夜の雨で、あの桶はいっぱいになりました。畑へ運ばせましょうか」


「ええ。厨房の裏の薬草へ使ってください。雨水を捨てるのはもったいありません」


セシリアは残ったスープを飲み、最後のパンを匙で割った。雨は建物を壊すこともあれば、畑を育てる水にもなる。必要なのは、降らせないことではなく、どこへ流し、どこへためるかを決めることだった。


食事を終えると、彼女は書類棚から王都周辺の不動産目録を取り出した。人工島の計画が始まる前、古い建物の再生案を考えるために買ったものだった。頁の角には、気になる物件へ鉛筆で小さな印が付けられている。


王都中心部の邸宅は、どれも価格が高かった。舞踏室や客間は広いが、維持費だけで資金が尽きる。郊外の屋敷も調べたが、農地を潰してまで大きな家を造る気にはなれなかった。


目録の最後に折り込まれた地図を広げると、北西の端に青い湖が描かれていた。湖畔には一軒だけ、黒い四角と小さな番号がある。番号を目録で探すと、雨漏りと老朽化を理由に十二年間も買い手のつかない別荘の記録が見つかった。


《旧グレイウッド湖畔荘。築六十八年。屋根損傷、井戸あり。馬車で王都から半日。土地価格のみで譲渡可》


添えられた小さな挿絵には、蔓草に覆われた石造りの家が描かれている。屋根の中央は落ち、庭の噴水には雑草が生えていた。それでも南側には大きな窓が並び、湖へ向かう斜面には雨水を流す古い石溝が残っている。


セシリアは別の紙を取り出し、使える資金を書き出した。婚約時に用意した衣装費の残り、設計の報酬として受け取った銀貨、母から相続した小さな預金。購入だけなら足りるが、屋根、配管、壁、厨房をすべて新しくすれば、途中で資金が尽きる額だった。


彼女は鉛筆の先を削り、古い別荘の挿絵へ線を引いた。壊れているものをすべて捨てるのではなく、基礎と梁を調べ、使える部分を残す。豪華な家具を先に買わず、雨と寒さを防ぐ場所から直せば、一棟だけなら完成させられるかもしれない。


食堂の扉が開き、外出着を抱えた侍女が入ってきた。


「馬車を用意いたしましょうか。まさか、人工島へ行かれるのですか」


「いいえ。湖へ行きます。泥の多い場所ですから、昨日の靴を出してください」


セシリアは地図を畳み、革鞄へ入れた。未署名の許諾書の隣へ、鉛筆と巻き尺、湖畔荘の目録を収める。最後に食卓を見ると、ヴィクターの呼び出し状は黒パンの皿の下で、まだ役目を果たしていた。


窓の外では雲の隙間から日が差し、木桶からあふれた水が庭の石溝を流れていた。水は低い場所を選び、薬草畑の土へ細く吸い込まれていく。金色の屋根も白い砂浜もないが、その流れには一滴の無駄もなかった。


セシリアは湖畔荘の挿絵を、もう一度だけ確かめた。


「夢を語る前に、雨の夜にも眠れる家を造りましょう」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。