第1話 富豪の夢に、地味な婚約者はいらない
第1話 富豪の夢に、地味な婚約者はいらない
王都迎賓宮の大広間には、海から運ばせた白砂が薄く敷かれていた。磨かれた大理石の床を汚さないよう、白砂は金色の縁取りを施した浅い箱に収められ、その中央に幅三メートルを超える人工島の模型が置かれている。百棟の白い別荘、青いガラスで作られた入り江、海へ張り出した露台、各邸専用の船着き場まで作り込まれ、模型を囲む貴族たちは香草酒の杯を片手に身を乗り出していた。
模型の中央には、金文字を刻んだ小さな門が立っていた。
《フローラ・アイランド――富豪の夢のヴィラ》
セシリア・アルノーは、使い込んだ革鞄を両手で持ち直した。薄茶色のドレスの裾には、午前中に建築現場で付いた土がわずかに残っている。侍女は着替えるよう勧めたが、ヴィクターから届いた招待状には「設計責任者として出席せよ」とあり、現場から急いで来なければ開会に間に合わなかった。
壇上では、侯爵令息ヴィクターが金糸を織り込んだ礼装を輝かせていた。彼の後ろには人工島の完成予想図が掲げられ、まだ一本も立っていない椰子の木まで描かれている。セシリアが半年前に提出した図面とは、屋根の形も庭園の配置も大きく違っていた。
「皆様、本日は我がフローラ開発社の歴史的な計画をお披露目できることを、心より光栄に存じます」
ヴィクターが片手を広げると、給仕たちが一斉に葡萄酒を注いだ。甘い酒の香りが広間を満たし、弦楽器の演奏が止まる。セシリアは壇上へ続く階段の前で待ちながら、模型の北側に置かれた建物を見た。
本来そこには、高潮の際に水門を閉じる管理棟があるはずだった。しかし模型にあるのは、薔薇色の屋根を持つ舞踏会場だった。防潮堤の高さも、セシリアが指定した位置より低く作られている。
「この島は、単なる保養地ではありません。選ばれた者だけが手にできる、地上の楽園です。百棟のヴィラには大理石の浴室と専用船着き場を設け、中央広場では毎晩、噴水と音楽による祝宴を開催いたします」
拍手が起こった。セシリアは革鞄の留め金へ親指を当てたまま、壇上の脇に立つ事務官を探した。設計責任者の紹介があるなら、契約書へ署名する事務官もいるはずだったが、見慣れた顔は一人もいない。
代わりに、淡い桃色のドレスを着た若い令嬢が、舞台袖からヴィクターの隣へ進み出た。胸元には真珠が何重にも縫い付けられ、歩くたびに小さな音を立てている。リリアーヌ子爵令嬢は模型の上へ身をかがめ、金色の屋根を指先で撫でた。
「まあ、本当に美しい島。土の色も、排水管も、目に入らないのですね」
数人の貴婦人が扇の陰で笑った。セシリアは自分の靴先を見た。今朝までいた現場では、職人たちが排水管の接合部を泥まみれの手で確かめていた。その管がなければ、金色の屋根の下で眠る者は、最初の大雨で床へ浮かんだ絨毯を見ることになる。
ヴィクターはリリアーヌの腰へ手を回した。
「ここで皆様へ、もう一つ報告がある。フローラ・アイランドの女主人には、夢を理解し、華やかに表現できる女性がふさわしい。私はリリアーヌ嬢と、新たに婚約を結ぶことにした」
誰かが落とした銀匙が、床の上で二度跳ねた。セシリアの隣にいた老伯爵が咳払いをし、目をそらす。壇上へ呼ばれるものと思っていた彼女のために空けられていた通路から、人々が半歩ずつ離れていった。
ヴィクターはセシリアを見下ろした。婚約中、彼がその目で彼女の図面を見たことはほとんどなかった。数字の説明を始めれば窓の外を眺め、資材の価格を報告すれば葉巻へ火をつけ、最後には決まって「君に任せる」と言った。
「セシリア、前へ出たまえ」
セシリアは階段を上がった。革鞄の中では、今朝焼いた黒パンを包んだ紙が、契約書の角に押されて音を立てている。昼食を取る時間がなかったため持ってきたが、葡萄酒と香水の匂いが混じる壇上で、その乾いたパンの匂いだけが現場の休憩小屋を思い出させた。
「君には感謝している。だが、土や排水管の話しかしない女に、富豪の夢は理解できない。地味な君では、この島の象徴にはなれないのだ」
リリアーヌが真珠の手袋で口元を押さえた。
「どうかセシリア様を責めないでくださいませ。きっと、地下に埋まるものを考えるほうがお好きなのですわ」
広間に低い笑い声が広がった。セシリアは模型へ目を移した。リリアーヌの指先が触れた金色の屋根の下には、厨房から出る汚水を流す管がない。噴水の周囲には排水溝がなく、北側の水門は舞踏会場に置き換えられている。
セシリアは革鞄を壇上の机へ置いた。留め金を外し、黒パンの包み、測量用の細紐、泥の付いた手袋を順に脇へよける。その下から、青い表紙の設計使用許諾書を取り出した。
「婚約破棄のお申し出は、これが正式な通知ということでよろしいでしょうか」
「もちろんだ。皆が証人だ」
ヴィクターは胸を張った。招待客たちは互いの顔を見合わせたが、彼の笑みは崩れない。セシリアは書類の最後の頁を開き、第三条を指でなぞった。
「では、本日の日付を確認させてください。婚約関係の終了と同時に、ヴィクター・ハルベルト侯爵令息へ認めた設計図の使用許諾は失効します」
笑い声が止まった。ヴィクターは眉間へ細い線を作り、机の上の書類を見た。セシリアは頁を裏返し、まだ何も記されていない署名欄を見せた。
「何を言っている。あの図面は、私の会社のために描いたものだ」
「原本の所有者は私です。貴社に認めていたのは、婚約者が経営する事業への限定使用です。正式な譲渡契約は、本日の発表会で締結する予定でした」
セシリアは未署名の許諾書を閉じた。ヴィクターは初めてリリアーヌの腰から手を離し、書類を奪おうとしたが、セシリアは革鞄の中へ戻した。事業の法律顧問が壁際から歩み寄り、顔色を変えながらヴィクターへ何か耳打ちする。
「そんな条項など、後からどうにでもなる。外観図も模型も、すでにこちらにある。腕のいい職人を集めれば、島は完成する」
「外観図には、地盤調査後の杭の深さも、地下排水路の勾配もありません。高潮時に閉鎖する水門の構造図も、正式契約まではお渡ししておりません」
セシリアは模型の北側を指した。薔薇色の舞踏会場の下には、本来なら島全体を守る管理設備が入るはずだった。見物客の一人が身をかがめ、模型の海岸線を確かめる。
「それと、購入者から集めた資金は保全口座に入っています。第十二条により、設計責任者の完成証明がなければ、最終工事費として引き出すことはできません」
ヴィクターの法律顧問が目を閉じた。リリアーヌは模型から手を離し、手袋に付いた金粉を払っている。ヴィクターだけが、口元をゆがめたまま笑った。
「設計責任者なら、別の者を雇えばいい。君一人がいなくとも、百棟程度の別荘は建つ。婚約を失った腹いせに騒いでも、恥をかくのは君だぞ」
セシリアは泥の付いた手袋を革鞄へ戻した。黒パンの包みが少し潰れていたが、帰宅したら野菜スープへ浸せば食べられる。金色の模型を見ても、もう直すべき場所を数える必要はなかった。
「承知いたしました。婚約者にのみ認めていた設計図の使用許諾も、本日をもって終了いたします」
セシリアは革鞄の留め金を閉じた。乾いた音が大広間へ響き、誰も杯を持ち上げなかった。
「その島には、私の線を一本も残さないでください」
彼女はヴィクターの返事を待たず、壇上の階段を下りた。白砂を収めた箱の脇を通ると、模型の海に使われた青いガラスが照明を反射している。どれほど光を当てても、その海には潮の満ち引きも、嵐も、大雨もなかった。
大広間の扉が閉まる直前、背後からヴィクターの声が聞こえた。
「明日の朝には工事を再開させる! 君の助けなど必要ない!」
セシリアは立ち止まらなかった。廊下の窓には細かな雨粒が付き始め、庭師たちが急いで排水溝の落ち葉を取り除いている。彼女は革鞄の中の黒パンを指先で確かめ、雨の王都へ続く階段を下りた。
最初の大雨は、ヴィクターが思っているより早く来る。




