零の意味
足元の氷が崩れきる前、カズトは咄嗟に抱えていたネリィを放り投げた。
そこは赤い円の外。ネリィは意識を失ったまま氷面を僅かに滑り落ちる。
彼女は落下を免れたが、カズトの姿は俺の視界から消え去った。
氷面に付着した水飛沫は瞬く間に氷となり同化する。
割れた床の中からは水面を弾く音が聞こえない。
まるで沼に嵌ったかのように静かだった。
「嘘だろ……カズト……」
更なる絶望が俺を襲う。
クレスは身体を大きく揺らされても反応せず、体温も失いつつあった。
次から次へと降りかかる仲間の危機に頭が理解を拒み、考えることを放棄する。
培った直感に任せ、体は勝手に動く。
俺はクレスの身体からゆっくりと手を離し、二次被害を受けないよう氷面に空いた穴まで立ち上がらず匍匐で近寄った。
「カズト……カズト!!」
掛け声は虚しく霧散し、青色の水面は揺らぐことなく静まっている。
水底は見えず、巨大な貯水槽を覗いているかのように何も無い。
落ちれば沈んだまま戻って来ないと言われていた湖だ。
今まで先人の言葉を信じてきた俺は、受け入れ難くても受け入れてしまう。
もう親友は戻らない。
俺が全てを諦め、水面から顔を背け俯きかけた時――水面から手が伸びた。
「すまん、大丈夫や……」
飄々《ひょう》とした男はドジ踏んじまったと言わんばかりに、軽いノリで顔を出す。
普段と変わらぬ姿を見て、深く息を吐き安堵する。
「心配させるなよ……」
激しく動き続ける心臓を落ち着かせるように、俺はその場で座り込んだ。
両手を床につき、天を見上げてまた息を大きく吐いた。
「悪い悪い、ちょっと待ってな」
カズトは僅か二十ミリ厚の割れた氷面をよじ登っていく。
今度は赤円が発生せず、何事もなく氷上へと上がった。
流石に疲労が溜まったのか、片足に肘を乗せながらその場に座り込み、顔を伏せた。
「大丈夫か?」
「一応な……」
「すまない……俺がもっと冷静だったなら……」
「気にせんでええで。そもそも俺が迂闊やったわ。まさか二人分の重みで割れるなんてな……」
「なら……なるべく身を軽くして、重心が偏らないよう引き摺りながら運ぼう。動けるか……?」
カズトは動かなかった。目線を下に向けたまま呼吸を整えている。ただ、身体に不調があるようには見えない。自分の意思で留まっているようだった。
「カズト……?」
「なあ、シュウゴ……。実はな……お前に隠してたことがあったんや……」
「ネリィのお腹の子のことか?」
「なんや、気づいとったんかい……」
気が抜けたのか、男は溜息交じりに笑う。
彼とネリィが恋人関係にあったことは本人の口から知らされていたが、子を宿していることは聞いていない。
最後とはいえ危険な冒険だ。ネリィの胴当てで僅かに疑念を抱いたが、そんな状態で挑むなんて考えられなかった。
恐らく、俺だけには内緒にしていたのだろう。
伝えれば確実に連れて行ってもらえないと踏んだのだ。
その予想は間違っていない。
如何なる理由であろうとも、俺は絶対に拒否しただろう。妊婦をこんな危険な場所に連れてくるなんて馬鹿げているのだから。
「気づいたのはついさっきだ。説教は後でしてやるから、早く二人を助けないと……」
普段なら胸ぐら掴んでブン殴ってやりたいところだが、今はそれどころではない。
冷静さを取り戻した俺は、優先順位を誤らないのだ。
ところが一秒ですら惜しいこの状況なのに、目の前の男は動く気配がなかった。
「カズト……本当に大丈夫なのか?」
すると、男はまだ下を向いたまま話し始めた。
「最後の冒険やからって……ネリィが聞かんくてな。俺もクレスも反対したんやで……」
「おい、もういいって……」
言い訳を聞く余裕は無いのだが、そんなこと本人だって解っているはず。
再び俺の中で暗雲が立ち込める。
長らく苦楽を共にした友の様子は、これまでに見たことがないくらいに弱弱しかった。
「せやから……お前は悪くない。全ては俺達の我儘のせいなんや……だから……自分を責めるなよ」
「カズト……お前……まさか……」
「ああ……俺らはもう助からん」
「は?」
何もかもが崩れた瞬間だった。
再び鼓動が激しくなり、額から汗が流れる。
俺が何故かと問う前に、カズトは自ら理由を説明した。
未だ顔を上げないまま――。
「落ちた時にな、底の方から光ってる青白い光を見たんや。それが何なのかは判らんけど、光ときてピンときた。俺らの身体を蝕んでいるのは……光やないかと」
「光……?」
「電気だって身体を通るやろ? 不思議なことやない。目に見えない光がこの空間に広がってるんやないかと考えれば、全ての説明がつく。お前も向こうから来たんなら解るやろ。放射能……恐らくあれに近い何かや」
「放射能……!?」
転生者、それも日本人ならば誰でも知っている言葉だろう。
しかし、この異世界では無縁の言葉だ。
一度たりとも耳にしたことは無いし、そんな物があったら魔族との戦争でとっくに使われている。
とはいえ、俺はこの世界の歴史の全てを知っているわけではなかった。
魔法みたいな力がある世界だ。全てを決めつけるのは早計だ。
「馬鹿な!? ここで核実験でもしたって言うのか!?」
「そこまでは知らん。けどな……ミラゼア族が平気な理由と、クレスが早く蝕まれたのも解かったで。……魔力や」
「魔力……」
「コイツは間違いなく魔力に反応する光やと考えていい。魔力を使わなくても、元々俺らより魔力の高いネリィも無理に生命力を落として症状を悪化させてしまったんやろ。つまり……魔力の低い人間が魔術を使わなければ、この場所は通れる。それが俺の出した答えや」
俺の中にあった全ての疑問点が繋がった。
憶測ではあるが、この状況に説得力を持たせるには充分だった。
「シュウゴ……お前はこの情報を持って帰れ」
「な、なに言って……」
「あの光を見てから目が見えないんや……。あの光が原因か、汚染水か……。どっちにせよ、もう動けるのはお前だけや」
カズトは顔を上げ俺の方を向いたが、目の焦点が合っていない。
しかし、その奥底には強い意志が宿っていた。
「行ってくれ。このままだと俺らは……無駄死になる」
「そんなこと言うなよ……俺は……」
「頼む……。今度は俺らが繋げるんや……」
カズトは笑っていた。
それは諦めの渇いた笑いではなく、愕然とする俺を勇気づけようとする希望の笑み。
「シュウゴ……最初にお前を誘って良かったわ……。二度目の人生の方が楽しかったで……ありがとな……」




