空っぽだった自分
――十五年前。その日は陰鬱とした雨の日だった。
『ヴェルハ』という種族の中で『猫の民』と呼ばれた一族は、木の枝のように連なる巨大な山脈を住処にしている。
凡そ人間が住めないような高山の山頂付近の崖の上に四角い石積みの家が点在し、イルシャはそんな場所で静かに家族と共に幼少期を過ごしていた。
家の中には光を灯す道具が一つも無く、外から差し込む光だけを浴びながら生活している。そもそも灯りなどは夜目が利く猫には不要だからだ。
更には人間が使うような家具も無い。彼らは人間ほど手先が器用ではない代わりに、大体の家事は魔術で補うことができていた。
リビングやキッチン、寝室も存在せず、だだっ広い空間に寝床の毛皮が隅にあるだけの質素な部屋。
ほぼ外で生活する彼らには寝床としてしか機能しない住処だが、この日のように雨風を凌ぐには不可欠な場所だった。
――そんな雷の音が鳴り響く日の夜に、とある男は現れた。
土砂降りのなか飛んできたのか、全身に雨を浴び、背中の翼や尾から水が滴り落ちる。人間に似た外見ながら竜の眼を持つ男は、翼をバサリと一振りすると貼り付いていた水を振り払った。
「ここに優秀なガキが居るって聞いたが?」
「帰ってくれ。あの子はウチの子――」
「そうか、じゃあ……今から孤児だな」
父親が言葉を言いきる前に、首が吹き飛んだ。
刃の様に尖った尾が一瞬にして斬り裂いたのだ。
隣にいた母親が恐怖に取り憑かれ尻もちをつくと、どこへでも持ってけと我が子を差し出す。
「無能の元じゃ有能の才は枯れるばかりだ。来い、俺様がお前を強くしてやる」
イルシャは言われるがままに付き従った。
両親への思い入れは無い、恐怖すらも。
指導者が変わる、それだけの話だからだ。
ヴェルハは三大魔族の一角であるものの、数が多いだけで他の三大魔族に対抗できる実力者が少ない。
族長を擁しているのは『竜の民』で、圧倒的な実力も相まって全体を統括する権力を持つ。
そのため他の民達は逆らうことができず、彼らが人間との戦争に出ろと言えば従わなければならないのだ。
だが、他の民たちも黙って付き従っているわけではない。
実力主義の社会において強さこそ正義。
ならば才ある者を輩出しようと躍起になり、虎視眈々と族長の座を狙っている。
イルシャはそんな将来を有望視されていた一人だった。
物心つく前から訓練の日々。
両親に愛情を向けられたことなど一度も無い。
ただ強さだけを求められ、単調な日々を過ごしていた。
そんな子供の立場だったから、どんな命令でも黙って言うことを聞くしかない。
生き方を選ぶことすら頭に浮かんだことも無かった。
こうして竜の民の男に連れて行かれたのは世界一高い山の山頂だった。
雨が降らない雪の被った白銀の世界へと、幼い子供は放り出される。
「慣れろ。この環境に」
竜の男が建てたであろう石積みの小屋へと放り込まれる。
中は前の家と同じだが、寝床は造られてない。
「人間の姿で生活しろ。魔術は使っていい。流石に死ぬからな。ただし、徐々に魔術は減らしていけ。最終目的は魔術を使わず人間の姿でこの環境に適応することだ」
幼いイルシャはそれだけかと聞いたら、それだけだと返ってきた。
前の指導者は魔力の高さを活かしてあらゆる魔術を覚えさせられていたのだが、単純な命令だけで拍子抜けしていた。
「俺は殆ど帰らん。気が向いたら帰るし、一年で帰って来なければ死んだと思え」
そう言い残して、竜の男は幼い子供を置いて去って行った。
イルシャに逃げると言う考えは無かった。意味が無いからだ。
こうして幼子は言わるがままに人間の姿へと変身すると、唐突な呼吸困難に陥る。
慌てて魔術で周囲の空気を操り呼吸を整えさせると、前の指導者の言葉を思い出す。高過ぎる山の上は人間が住める領域では無いと。
更に体毛を失ったことにより凄まじい冷気に襲われて身体が震え、眩暈と吐き気にも襲われる。イルシャは咄嗟に元の姿へと戻った。
人間は弱い。雪山に住むことも出来ないような生物が、なぜ魔族と互角に渡り合えているのか、幼いイルシャには理解ができなかった。
そして、そんな状況で十年の時を過ごし――イルシャは魔術を使わず人間の姿のまま、過酷な環境に適応していた。
世界一高い雪山で生活するだけで身体は鍛えられ、寒さは魔物の毛皮を羽織ることで凌ぎ、呼吸問題は自作した魔導具で解決。
魔物の骨を媒介とし、首から掛ける飾りに魔力を宿すことで、周囲の空気質を人間が呼吸しやすいように変化させる。
ずる賢い抜け道のような手だが、竜の男はそれこそが人間だと言い放つ。
後は水や食料を調達する以外は寝るだけの淡白な生活を続け、たまに帰って来る竜の男以外のヒトと会話することは一度も無かった。
竜の男の傷は会う度に増えていた。
傷は癒えても跡は消えないらしく、男はそれを誇らしげに自慢していたが、イルシャはよく解らず適当に返事をしていた。
人間に必要不可欠な物。
それは――火。
正解に辿り着いていたイルシャは勝手に小屋を改造し、知識が乏しいながら歪な暖炉を造っていた。
下から調達した薪をくべながら、この時は竜の男を招き入れていた。
「見事なもんだな。俺の目をもってしても人間にしか見えねえ」
竜の男は魔力の流れが視認でき、魔術による変身をも見抜けてしまう。
しかし、余程近づいて目を凝らさなければ流れが確認できないほど、イルシャの変身は完璧だった。
「合格だ。次は人里に降りて人間の強さを探って来い」
それが幼子から成長した少女へ向けられた次の指示だ。
「人間は弱え……が、時折信じられねえくらい強ぇ奴らがいる」
イルシャは探ってどうするのかと聞くと、自分が更に強くなる為のヒントを得たいと言う。
「私がもし人間世界に染まったら……どうするの?」
少女の問いに、竜の男は顔を近づけ言い放った。
「大歓迎だ。いいか、俺達が求めるのは闘争のみ。そこには敵味方の区別もありやしない。お前が魔族に付こうが人間に付こうが、俺にとって利にしかならないんだよ」
それこそが男達が人間へ戦いを仕掛けている理由だった。
裏切りを恐れるは弱者、強者とは常に孤独、逆境は高みへの近道。
それが彼ら竜の民の理念。
同じ種族でも、頭の構造が全く違うと当時のイルシャでも理解できた。
「これからお前は自由だ。けど、何の命令も無く放り出されても生きられねえだろ? だから俺の命令を律儀にこなす必要も無い。ま、最低限五年は人間と暮らしとけ。あと――」
竜の男は珍しく険しい表情で、最後の言葉を残す。
「……ミラゼア族には関わるな」




