逃走
幹部の集まる会議室の扉から1匹の猫が飛び出す。
行き交う研究員の視線も気にせず、通路を抜け、階段を降り、真っ直ぐ出口へと走り抜ける。
その猫が魔族だなんて誰も頭に思い描くことなく、どこから紛れ込んだのかと、みな和やかな目で見送っていた。
月明かりの下、白い体毛が目立ちつつも走り疲れた猫はゆったりと芝生を歩く。
背後に追っ手が来ていないか振り返りながら、厳つい警備兵が守る門へと進む。
研究所の周りは高い鉄柵で囲われ、出入り口は一箇所のみ。
如何に猫といえども、外へ出るためにはこの門を通るしか無いのだ。
そこは鼠1匹侵入できないとの噂の魔導兵器開発研究所である。
何者かに門を開けてもらえなければ脱出は不可能。
しかし、今は門が開いていた。
時間も時間、肩に疲れを乗せながら退勤する職員達の為に解放しているのだ。
そんな隙を逃すまいと、白猫は最高時速で駆け出す。
警備兵が一人増えていようと関係無い。
動物の脱走対策などしているはずもない強固な研究所の門は、あっさりと破られた。
気づいたら何かが門を通り抜けている。
警備兵が「あっ」と声を発した頃にはもう闇の中。
今のって猫かと相談し合うも、どうにもならない。
入れた奴が悪い、逃した奴が悪いと彼らは責任を放棄した。
まさか入れた奴も逃した奴も、軍の最高責任者だとは彼らは思いもしないだろう。
白猫は研究所の敷地を抜け、雑木林に入る。
スピードを落とすも歩みを止めず、目的の場所へと直進していく。
いつかは正体がバレる日が来るかもしれないと、イルシャは自身の中に逃走マニュアルを組んでいた。何時、何処で、どんな状況でも対応できるように。
ところが、ここから先はマニュアルを捨てていた。想定外の出逢いによって彼女の目的が変わってしまっていたのだ。
孤独に生きる為の逃走を捨て、ある者の為に闘うことに――。
◇
「遅いなぁ……」
ベッドの上で寝そべりながらサクハが呟く。
夕食の時間も過ぎ、他にすることもなく、話し相手の同居人をひたすら待っていた。
帰って来るよね……?
不意に寂しさに襲われ、もう独りになりたくないと枕を抱きしめる。
思い出したくもない記憶が再び浮き出ようとした時、キリキリと何かが引っ掻く音が外から漏れ出した。
「えっ……何?」
待ち人ではないことは確か。
しかし、不審者にしては引っかかる。
サクハは恐る恐る玄関の前に近づくと、「誰?」と声をかけるも返事は無い。
開けるのを躊躇っていたが、このまま宿主の扉が傷つけられては申し訳ないと勇気を振り絞って解錠し、取っ手をゆっくりと押した――。
「あっ!?」
ぬるっと、扉を開けた僅かな隙間から白い影が音も無く忍び込んだ。
小さな悲鳴を出しながら、慌てて手を放すサクハ。
足元を抜けていったそれに目を向けると、恐怖とは程遠い愛らしい存在であった。
混乱の最中、一時気が緩むも別の問題が差し掛かる。
……ヤバい、部屋が荒らされちゃう……!
イルシャの部屋は新居と見間違えるほど綺麗に整えられており、目立った埃も見当たらないほど清潔感のある場所だった。
猫としての習性がそうさせるのか、宿主は毎日欠かさず掃除していたのだ。
サクハも礼として彼女が居ないうちに掃除しようと試みていたが、やる場所が無くて断念していたほどである。
「猫ちゃん、おいで」
サクハはその場でしゃがみこみ、目を輝かせながらこっちこっちと手をこまねく。
振り返った猫は甘えた声で「にゃぁ」と鳴いた。
「かっ、可愛い……」
彼女のここ一連のストレスが瞬時に吹き飛んだ。
脳裏に浮かぶは『飼いたい』の四文字。
されども綺麗好きの宿主がそれを許可するとは思えず、どうにかできないかと思案する。
そもそもこの猫がその宿主などとは知る由も無いだろう。
「あっ!?」
緩みきったサクハの横で、二足立ちした猫が壁に飛び掛かった。
壁に飾られていた筒を口に咥えると、窓際へと走って行く。
「ダメダメダメ、それ持ってっちゃダメだから……!」
慌てふためく少女を尻目に、軽やかなジャンプで机の上に乗っかる。
そのまま隣の窓を前足で横にずらし、勢いよく外の景色を露出させた。
冷たい空気が室内に入り込んでいく。
「えっ、ちょっ……」
戸惑う少女の前で、寂し気な瞳を残しながら猫は謝るようにコクリと首を縦に動かす。
サクハは巻き込めない。
最後に一目見れてよかったと名残惜しみながら――窓の外の闇へと消え去って行った。
「嘘でしょ……ここ2階……」
窓から下を確認するも、そこにはもう何も居ない。
草と土だけの味気ない風景で、虫の鳴き声だけが静寂を崩していた。
「異世界の猫って賢いなぁ……。って、それよりあの筒どうしよう……。大事な物なのかな……?」
嵐の如く過ぎ去った猫に翻弄され、少女は頭を抱える。
ヒトが化けていても所詮は物言わぬ動物。
イルシャの想いは友に通じることなく、別れを告げた――。




