第六話 フミの目
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家庭科の二回目は、前回より静かだった。
することがわかっているからだ。キョンが縫う。俺が押さえる。
「マチ、ここで折る」
「わかった」
「ずれないように持っといて」
「これくらい?」
「もう少し手前」
「ここ?」
「そう」
会話が短い。でも手が止まらない。
先週より連携が速くなっていた。
(家庭科で連携が速くなっている38歳。これが俺の現在地だ。)
30分でポーチが完成した。
手のひらに乗るくらいの大きさで、ちゃんとマチがある。縫い目が一定で、歪んでいない。
「できた」とキョンが言った。
「お前が作ったな、ほぼ」
「リュウが押さえてくれたから」
「どっちが持つ?」
キョンが少し考えた。
「……私が持つ。使うから」
「わかった」
キョンがポーチを手に取って、確認するように縫い目を指でなぞった。
(使う、と言った。)
(何に使うんだろう。)
聞かなかった。
聞かなくていい気がした。
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昼休みに、購買のサンドイッチを持って教室に戻った。
ユースケとバータが先に来ていて、机を寄せて食べていた。
「リュウ、こっちこっち」とユースケが手を振った。
フミはまだ来ていない。
バイトの移動が長いから、昼休みはたいてい一番最後に戻ってくる。
俺が席に着くと、ユースケが話し始めた。
「昨日さあ、宇宙の話した? 俺。誰かに」
「してない」
「バータにしたかも」
「したよ」とバータが言った。「1時間くらい」
「え、そんなにしてた? バータ、ちゃんと聞いてた?」
「まあ、途中から何言ってるか全然わかんなかったけど」
「それ聞いてないじゃん!!!」
(このやり取りも変わっていない。20年後もこの二人は同じことをしてそうだ。)
窓の方で、声が上がった。
キョンのグループだ。
ミナミが何かを言いながら身を乗り出している。サナが腕を組んでツッコんでいる。リサが何かを食べながらぼんやり聞いている。
「ねえ聞いて!! 昨日ね、」
ミナミの声が聞こえた。
「改札のところで○○くんとすれ違って、向こうから挨拶してきたの!!」
「いや待って」とサナが言った。「それだけ?」
「それだけなんだけど!! 挨拶してきたの!!」
「それは普通に挨拶じゃないから」とサナが言った。
「違う! なんかそういう感じじゃなかった!!!」
「どういう感じなの」
「こういう感じ!」とミナミが言った。感じを再現しようとして、うまくいっていない。
リサが「そうなの?」と静かに言った。
サナが「リサ全然わかってないやつ」と言った。
(ミナミ・サナ・リサのやり取り、テンポがいい。)
(でも、キョンはどこにいる。)
視線を少し動かした。
キョンは四人の中で唯一、机に肘をついて窓の外を見ていた。
ミナミの話を聞いていない、というわけではないと思う。
でも、いない顔をしていた。
「キョン、どう思う?」とミナミが聞いた。
キョンが顔を戻した。
「どう、って」
「挨拶って脈ありだと思う?」
少し間があった。
「……わかんない」とキョンが言った。
「え、わかんないって!?」
「そういうの、よくわからないから」
「よくわからないってどういうこと!」
キョンが少し笑った。
笑い方が、どこか薄かった。
「なんか、みんなが言う「好き」って感覚が自分にもあるのか、よくわからなくて」
「えー、でも好きな人いたじゃん前!」
「いたかな」
「いたじゃん!! 去年の!!」
「……それも、なんか、よくわからなかった」
ミナミが「それは脈なしってこと!?」と言ったが、キョンはもう窓の方を向いていた。
(……。)
俺はサンドイッチを食べながら、その会話の端を拾っていた。
(「みんなが言う「好き」って感覚が自分にもあるのか、よくわからない」。)
(それを16歳のキョンが、もう言語化しようとしている。)
(お前が感じている「わからない」には、ちゃんと名前がある。ただ、この時代にはまだその言葉が存在しない。20年後、お前はちゃんと自分の言葉を見つける。今は待つだけだ。)
「リュウ、聞いてる?」
ユースケの声で戻った。
「聞いてた」
「宇宙の話」
「全部は」
「え、どこから聞いてなかったの!!!」
「ちょっとぼーっとしてた」
「もう!! 一番大事なところだったのに!!!」
(すまない。でもそれより大事なことが聞こえてしまった。)
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放課後。
ユースケとバータが部活に行って、俺は教室に一人残った。
忘れ物を探すふりをして、鞄の中身を確認していたら、フミが入ってきた。
(あ。)
フミは俺を見た。
「一人?」
「ユースケたちは部活」
「そう」
フミが自分の席に来て、鞄を取った。
それだけで帰るかと思ったが、立ったまま動かなかった。
(来る。)
(来る気がする。)
「リュウ」
「なに」
「聞いていいか」
「どうぞ」
フミが俺を見た。
一秒じゃなかった。三秒、ちゃんと見た。
「お前、何かを知ってる。最初からずっと、そういう顔をしてる」
(……。)
「何かって」
「わからない。でも、知ってる顔だ。経験がある顔、というか」
「16歳が経験もなにも」
「そういうことじゃない」
フミは少し間を置いた。
「俺が法律を目指してるのは、不公平なのが嫌いだからだ。不公平なことを正確に見たくて、そのために物を観察する癖がある」
「うん」
「お前を観察して、わかることがある。お前は嘘をついていない。でも全部は話していない。その二つが両立してる」
(……このやつ、天才では?)
(16歳で何やってるんだ。将来弁護士になるわけだ。)
俺は少し考えた。
否定すると嘘になる。肯定すると説明が必要になる。
「……そういう人間もいる」とだけ言った。
「そうだな」とフミが言った。
「追及しないの?」
「しない。お前が話したいときに話すだろ」
「話さないかもしれない」
「それならそれでいい」
フミが鞄を持ち直した。
「ただ」と言った。
「なに」
「お前がここにいる理由が、全部悪いものじゃないと思ってる。だから今は聞かない」
(……。)
(こいつは、追い詰めるために観察しているんじゃない。)
(ちゃんと見て、ちゃんと待つために、観察している。)
「……そうか」と俺は言った。
フミが「また明日」と言って、教室を出ていった。
俺はしばらく、誰もいない教室に座っていた。
(フミ。)
(お前は16歳のくせに、38歳の俺よりよっぽど人を見ている。)
(将来が楽しみだ。……いや、知ってるか。将来も、お前は本物だ。)
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昇降口を出たとき、掲示板が目に入った。
生徒会の選挙告示だった。
「生徒会役員立候補者募集 締め切り 10月XX日」
(あった。)
俺は立ち止まって、それを読んだ。
締め切りまで、まだ二週間ある。
やり直し計画の一番最初の項目。
「生徒会に入る。来年、生徒会長になる。」
今年度の選挙で役員になっておけば、来年の会長選挙への足がかりになる。
(これが最初の一手だ。)
(ここから始める。)
ガラケーをポケットに入れたまま、俺はその紙をもう一度見た。
誰かがすれ違いざまに「あの告示、毎年立候補少ないよな」と言っていた。
(それなら好都合だ。)
俺はスニーカーの先で地面を一回踏んだ。
(やるか。)
小さく、そう決めた。
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翌朝。
教室に入ったら、キョンがすでに席にいた。
ホームルームまでまだ10分ある。
机の上に何かを広げていた。
近づいてわかった。
ポーチだった。
昨日の家庭科で作ったやつだ。
開いて、中から小さなハサミと待ち針とリッパーを取り出して、筆箱の横に並べていた。
(使ってる。)
(もう使ってる。)
(裁縫道具入れにした。)
俺が席に着く気配でキョンが顔を上げた。
目が合った。
うなずいた。
キョンもうなずいた。
それだけだった。
でも俺は、自分の席に座りながら、なんか少しおかしくなった。
笑うとか、嬉しいとか、そういう明確な感情じゃない。
ただ、なんか、よかった。
それだけだ。
(落ち着けアラフォー。)
(落ち着けた。今日も落ち着けた。)
ユースケが走り込んできて「リュウ!! 英語!!! 今日もよろしく!!!!」と言った。
「昨日やっただろ」
「昨日の続きがわからん!!!」
(この流れも変わらない。何年も変わらない。)
(変わらないものが、ある。)
(それが、悪くない。)
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**つづく**
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フミの「お前、何かを知ってる」は、ずっと書きたかった台詞です。フミは問い詰めない。でも全部見えてる。「話したいときに話すだろ」が、フミらしさの全部だと思います。次回、リュウが生徒会に立候補します。16歳の立候補演説を38歳が書く。どうなるか、自分でも怖い。




