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第五話 右のイヤホン

---


月曜日の朝、コンタクトにした。


週末に眼鏡屋に行って、ソフトコンタクトを作った。母に「急にどうしたの」と言われた。「視野が広い方が授業に集中できる」と答えた。嘘じゃない。


鏡で確認すると、印象がかなり変わった。


顔が出る。輪郭がはっきりする。


(16歳の顔は、メガネを外すとこんなに変わるのか。)


(38歳の俺には縁のない話だったが。)


髪もついでに直した。近所の美容院に土曜日に行って、「シンプルに整えてほしい。流行とかは気にしない」と言った。美容師のお姉さんが一瞬きょとんとしてから「わかりました」と言って、すっきりした形に切ってくれた。


2005年には珍しいかもしれないスタイルだが、おしゃれに見える。


38歳の美的センスは、16歳の外見に乗せると強い。


(これは知識チートではなく、経験チートだ。)


---


教室に入ると、ユースケが振り返って固まった。


「……リュウ?」


「おう」


「メガネ、ない」


「コンタクトにした」


「髪も、なんか違う」


「切った」


「……なんか急にリュウ、変わったよな?」


(「なんか急に変わったよな?」という台詞、今週だけで3回目だ。)


(俺が変わりすぎてるのか、周りの観察眼が鋭すぎるのか。)


「気のせいじゃないの」


「気のせいじゃないでしょ!! みんな見てるよ!!!」


声がでかい。朝から全開だ。


バータが横から「まあ、すっきりしたな」と言った。


「そうか」


「なんか、急に大人びたっていうか」


(38歳なので。)


「変かな」


「いや、全然。似合ってる」


(バータが一番まともなことを言う。この法則は今後も変わらないだろう。)


フミが俺を一瞥した。


一秒。


何も言わなかった。


でも「全部わかってるぞ」の目が今日はさらに濃かった。


(フミ、そのうち直接聞いてくるな。覚悟しておく。)


---


2時間目が始まる前、廊下でキョンとすれ違った。


前から歩いてくる。


俺がいることに気づいた。


いつもなら視線が合って、うなずいて、それで終わる。


でも今日は、キョンが少し足を止めた。


俺の顔を、ちょっとだけ長く見た。


(コンタクトに気づいたのか。)


(どうした。何か言うのか。)


キョンは何も言わなかった。


またうなずいて、歩いていった。


(……うなずきが、昨日より0.5秒長かった。)


(落ち着けアラフォー。計測するな。)


---


昼休みに、購買でパンを買って教室に戻った。


窓際の自分の席で食べていると、キョンのグループが教室に入ってきた。


ミナミが何かしゃべりながら来て、サナがツッコんで、リサがよくわからない顔で後からついてくる。


キョンが一番最後に入ってきた。


鞄からMDウォークマンを取り出した。


白いイヤホンを、右だけつけた。


(右だけ。)


(左は外したまま。)


俺はパンを食べながら、横目でそれを見ていた。


何を聴いているんだろう。


MDには曲名が見えない。ケースもない。ただ銀色の円盤がそこにある。


(ガラケーにShazamはない。2005年に音楽認識アプリは存在しない。)


(聴かないとわからない。)


キョンは窓の外を見ながら、何かを聴いている。


表情は変わっていないが、肩の力が少し抜けている。


授業中や友達と話しているときと、微妙に違う。


「違う」というより、「余計なものがない」という感じだ。


(服を縫っているときの手と、同じだ。)


(迷いがない。)


---


放課後、学校を出た。


徒歩10分で駅に着く。


改札を通って、ホームに上がった。


電車が来るまで5分あった。


ホームのベンチの端に座って、ガラケーをいじっていた。


「……あ」


声がして、横を見た。


キョンが立っていた。


「同じ電車?」とキョンが言った。


「そう」


「毎日?」


「たぶん」


「気づかなかった」


(俺は知っていた。でも言えない。38歳の記憶の中に「キョンは途中で降りる」という情報がある。)


「俺も最近気づいた」


「どこまで乗るの」


「○○」


「私は一個前」


「知らなかった」


(嘘だ。知っていた。でも嘘じゃないとも言える。16歳の俺として、この会話の中では今知ったことになっている。)


電車が来た。


---


車内は、夕方の割に空いていた。


つり革が余っている。ドア付近の席も空いている。


キョンが端の席に座った。


俺は一席あけて座った。


(となりじゃない。でもそこまで離れてもいない。)


(これが正解かどうかわからないが、38歳の間合いで判断した。)


電車が動き始めた。


景色が流れた。


5分ほど、二人とも黙っていた。


沈黙は苦じゃなかった。


家庭科のときもそうだったが、キョンとの沈黙には変な圧がない。ただ静かなだけだ。


キョンが鞄を開けて、MDウォークマンを取り出した。


(あ、聴くのか。)


イヤホンを耳に——右だけを——差した。


再生ボタンを押した。


窓の外を見始めた。


俺は前を向いたまま、ガラケーをポケットに入れた。


何もすることがなくなった。


(聴いているものが気になる。)


(聴いているものが。)


(でも聞けない。「何聴いてるの」って聞いたら、なんか違う気がする。)


(違う、というのは言葉にしにくい。なんか、急に踏み込みすぎる気がする。)


3分くらい経った。


「……」


キョンが、右のイヤホンを外した。


耳から抜いた右のイヤホンを、俺の方に差し出してきた。


無言で。


(……え。)


俺は一秒だけ、そのイヤホンを見た。


(落ち着けアラフォー。イヤホンを差し出された。ただそれだけだ。深呼吸しろ。)


受け取った。


右耳に差した。


音が流れてきた。


(……。)


知らない曲だった。


男性なのか女性なのかよくわからない声。楽器の数が少ない。シンプルなのに、なぜか音が多く聞こえる。


何語かもよくわからなかった。英語じゃない。でも日本語でもない。


(……なんだこれ。)


(いい。)


思ったより、ずっとよかった。


---


二人で、右耳と左耳を一個ずつつけたまま、しばらく電車に揺られた。


「誰のやつ?」と俺は聞いた。


「……」


キョンは答えなかった。


「聞いてもいい?」


「まだ教えたくない」


「まだ?」


「……なんか、人に教えるタイミングってあると思って」


「タイミング」


「教えるとうるさくなるから」


「うるさくなるって」


「「良さそう」「聴いてみる」「なんか違った」って。そういう話になるから」


俺は少し考えた。


「……そういうの、多かった?」


「まあ」


「わかった。聞かない」


キョンが、ほんの少し俺の方を向いた。


「本当に聞かないの?」


「聞かない。聴けてるから」


また少し間があった。


「……変な人だね、やっぱり」


「今日で何回目」


「数えてないけど」


(俺は数えている。四回目だ。)


音楽はまだ流れていた。


知らないアーティストの、知らない曲。


でも嫌じゃなかった。むしろ、ずっと聴いていたかった。


(これがキョンの聴いてるものか。)


(2024年のSNSで「服を作るときに聴いている」と書いていたのは、こういう音楽なのかもしれない。)


(言葉より先に形がある。言葉より先に音がある。そういう人間なんだ、こいつは。)


---


電車がホームに滑り込んだ。


「次、降りる」とキョンが言った。


俺のイヤホンに伸ばしてきて、無言で回収した。


再生を止めた。


立ち上がって、鞄を持った。


「じゃあ」


「うん」


「また明日」


「また明日」


ドアが開いた。


キョンが降りた。


ホームを歩いていく後ろ姿が、電車の窓から見えた。


天然パーマが揺れている。


改札の方に向かって、振り返らなかった。


ドアが閉まった。


---


電車が動き出した。


俺は一人になった。


右耳がまだ、さっきの音楽を覚えていた。


実際には聞こえていない。でも脳がまだ処理している感じがした。


(アーティスト名、教えてもらえなかった。)


(「教えるタイミングがある」と言っていた。)


(ということは、いつか教えてもらえる可能性がある、ということだ。)


(落ち着けアラフォー。「いつか教えてもらえる」を「いつか距離が縮まる」に直結させるな。論理の飛躍だ。)


でも。


窓の外を見た。


街が流れていく。


(お前が感じている「わからない」には、ちゃんと名前がある。ただ、この時代にはまだその言葉が存在しない。20年後、お前はちゃんと自分の言葉を見つける。今は待つだけだ。)


「また明日」と言ってくれた。


たったそれだけだ。


16歳の「また明日」は軽い言葉かもしれない。毎日使う言葉かもしれない。


でも俺には、重かった。


38歳になるまで、誰かに「また明日」を言ってもらった日の夜のことを、翌朝まで引きずったことがあっただろうか。


(……なかったな。)


電車は走り続けた。


俺の駅まで、あと15分あった。


---


翌朝。


教室に入ったら、ユースケがいきなり言った。


「リュウ、昨日なんか鼻歌してた?」


「してない」


「廊下で。すれ違ったとき」


「気のせいだ」


「でも——」


「気のせい」


(…していたかもしれない。)


(あの曲を、無意識に。)


(アーティスト名もわからない曲を。)


ユースケが「なんかリュウ最近毎日なんかあるよな」とつぶやいた。


「ない」


「でしょ? あるでしょ?」


(その「でしょ?」は同意を求める用法がすでに崩壊している。)


バータが「まあ、いいじゃないの」と言った。


フミが俺を見た。


一秒。


「昨日、電車で誰かと乗ってた?」


俺は止まった。


「見てたのか」


「ホームで見かけた。反対側から乗ったから」


(フミがホームにいたのか。)


「一人だった」


「そう」


フミは短く言って、本を開いた。


「そっか」とだけ言った。


(「全部わかってるぞ」の目が今週最高濃度だった。)


(フミ。お前は怖い。)


そのとき、教室の後ろのドアが開いた。


キョンが入ってきた。


ミナミとサナとリサの三人と一緒に。


俺と目が合った。


キョンが、うなずいた。


俺もうなずいた。


いつもと同じだった。


でも、なんか少し違った。


どこが違うのかは、うまく言えない。


(……これがキョンが言った「タイミング」というやつか。)


(まだ教えてもらえてないが、一個前に進んだ気がする。)


(落ち着けアラフォー。)


(落ち着けた。今日はわりと落ち着けた。)


心の中の38歳が、静かに、確実にガッツポーズをしていた。


---


**つづく**


---

右のイヤホンを渡す場面、本当に何度も書き直しました。台詞を入れようとするたびに「違う」ってなって、最終的に無言になりました。キョンは説明しない。渡すだけ。それだけで十分でした。アーティスト名はまだ教えません。リュウも、しばらく聞きません。その間に、別のことが起きます。

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