第三話 38歳、部屋を制圧する
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ファミレスでドリンクバーを三杯飲んだ。
ユースケはコーラ。フミはホットコーヒー。バータはメロンソーダを頼んで「なんかガキくさかった」と言いながら飲み干した。俺はなんとなくウーロン茶を選んで、テーブルについてから気づいた。
(38歳の選択肢がウーロン茶。体は16歳なのに。)
「で、リュウ昨日なんかあったの」
ユースケが聞いてきた。3回目だ。こいつはあきらめが悪い。
「ない」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「でしょ? なんかあったよね」
(「でしょ?」で肯定を求めるな。「でしょ?」は同意を求める言葉であって、俺が「ない」と言っている以上、会話として成立していない。)
フミがコーヒーを一口飲んで言った。
「ユースケ、しつこい」
「え、だって気になるじゃん」
「気になるのとしつこいのは別」
バータが「まあ、リュウが言いたくないならそれでいいじゃん」と言った。
(バータが一番まともなことを言う。)
テーブルが少し静かになった。
ユースケが「……でしょ?」とフミに言った。
フミが「何が」と返した。
(この二人のやり取りは20年後も変わってないだろうな。)
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「リュウって、なんか急に大人っぽくならん?」
帰り際に、ユースケが言った。
「昨日からじゃなくて、なんかここ最近ずっとそんな感じ」
(昨日からだ。完全に昨日からだ。)
「気のせいじゃないの」
「俺の勘はわりと当たるんだよね」
(お前の勘は当たる。それは俺が知っている。)
バータが「まあ、リュウは昔からちょっと落ち着いてるよな」と言った。「俺よりは」と小さく付け足した。
フミが俺を見た。
一秒だけ。
(わかってる。お前がいちばん気づいている。でも今日は言わないでくれ。)
フミは何も言わなかった。
「また明日」とだけ言って、先に歩いていった。
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家に帰って、二階の部屋のドアを開けた瞬間に決意した。
今日中に、この部屋をなんとかする。
(なんとか、というのが38歳のやさしい表現だ。正確には「全部捨てる」だ。)
まず全体を見渡した。
机の上:教科書・参考書・漫画・消しゴムのカス・シャーペン数本・謎のメモ紙の山。
クローゼット:服が詰まって扉が半開き。奥の方はもはや何が入っているか不明。
床:脱いだまま放置のジャージ・使ってないスポーツバッグ・古い雑誌数冊。
壁:B'zのポスター・学校のプリント・なんかのチラシ。
ベッドの下:段ボール箱一個。中身不明。
(これが16歳・柳龍の現在地か。)
(ゴミ屋敷への入り口、ここにあり。)
まずゴミ袋を取りに台所に下りた。
「どうしたの」と母が言った。
「部屋片付ける」
「え?」
「ゴミ袋どこ」
「……シンクの下。でも何かあった? 急に」
「別に。前から気になってた」
母はしばらく俺を見た。
「わかった。ゴミ袋、多めに持っていきなさい」
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作業を始めた。
まず「絶対に要らない」カテゴリから手をつけた。
古い雑誌。ゲームの攻略本(本体ごとどこかにいったやつ)。中学の教科書(高2になったら不要だ)。謎のカタログ。もらった覚えのないノベルティのボールペン7本。
袋に入れた。入れた。入れた。
(気持ちいい。なぜこんなに気持ちいいんだ。)
次に服だ。
クローゼットを全部出した。床に広げると、服の量がよくわかった。
(多い。なんでこんなに多い。)
数えたら34着あった。16歳が34着。毎日着るとして一ヶ月分以上ある。しかもそのうちの半分くらいは、明らかにサイズが合っていない。小学生のとき着ていたやつがまだある。
(捨てろよ過去の俺。なぜ取っておいた。)
「使っていない」「サイズが合っていない」「着た記憶がない」の三条件を全部満たすものを分けていくと、22着になった。
22着を袋に入れた。
残ったのは12着だ。
(まだ多い。でも今日はここまでにしておく。38歳の美的センスで本当に必要な服だけ残すのは、次のフェーズだ。)
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「龍!! ちょっと来て!!!」
一時間後、母が二階に来た。
ドアを開けて、固まった。
「……何これ」
「片付けた」
「これ、全部捨てるの?」
ゴミ袋がすでに五個あった。
「うん」
「漫画も?」
「読み終わったやつは」
「服も?」
「着ないやつは」
母は部屋の中を見渡した。
床が見えるようになっていた。机の上が半分空いていた。クローゼットが普通に閉まるようになっていた。
「……なんか、すごく広くなったわね」
「まだ途中」
「まだ途中なの?!」
(母さんのこのリアクションが見たかった。)
(ごめん、心の中でちょっと笑ってしまった。)
「龍、本当に何かあった?」
「ない。ただ、こういう部屋の方が頭が整理されると思って」
母はしばらく考えた。
「……そういうこと考えるようになったの」
「うん」
「大人になったねえ」
(38歳なので。)
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夕飯のあと、机に向かった。
ノートを一冊開いた。
新品のノート。クローゼットの奥から出てきた、まだ使っていないやつだ。
(ガラケーにメモ機能はあるが、打ちにくい。ノートに書く。)
ペンを持って、一行目に書いた。
「やり直し計画 2005年9月」
(書いてみると、犯罪の計画書みたいだな。)
(犯罪ではない。ただの38歳の人生設計だ。)
項目を書き出した。
一、生徒会に入る。来年、生徒会長になる。
二、文系を選ぶ。3年でキョンと同じクラスになる。
三、国立大の経済学部に推薦で行く。
四、大学時代から少額投資を始める。
五、関東を離れない。
書いて、ペンを置いた。
(冷静に見るとすごい計画だ。16歳の高校生がやることじゃない。でも頭の中が38歳だから、普通に実現可能だと思っている。)
(これが「知識」と「経験」の強みだ。)
生徒会については、今から動いても遅くない。来年の選挙に向けて、今年度中に動き始めればいい。それまでに実績を作る。勉強の成績を上げる。信頼を積む。
国立大の経済学部は、現状では無理だ。元の俺は理系だった。文転する必要がある。でも経済学部なら数学の素養は役に立つ。
投資は大学入学後から。高校生には現実的じゃない。でも本は読める。今から読んでおく。
(問題は三番だ。)
キョンと同じクラスになるために、文系を選ぶ。
これは計画というより、動機だ。
(38歳がそれを認めるのは恥ずかしいが、事実だからしょうがない。)
ノートの端に小さく書いた。
「コンタクトに変える 髪型を変える 毎朝走る」
(まず自分を整える。38歳の美的センスを16歳の体に適用する。)
(これが一番コスパが高い改革だ。)
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翌朝、5時半に目が覚めた。
アラームは6時にセットしてあった。でも目が覚めた。
38歳のリモートワーク生活では、昼まで寝ることも普通だった。でも体が16歳だからか、目覚めが違う。
(悔しいくらい体が軽い。)
窓を開けると、空がまだ薄暗かった。
ジャージを引っ張り出して着た。残しておいた12着のうちの一枚だ。
(走る。)
今日から走る。
中年太りを防ぐための先手は、今この瞬間から打つ。38歳のあの体には戻らない。
玄関を静かに出た。
朝の住宅街は静かだった。
自分の足音だけが聞こえる。
最初の10メートルはさすがに重かった。体は16歳でも、習慣がないから筋肉が準備できていない。でも30メートルを過ぎたあたりから、足が動き始めた。
(軽い。)
(38歳のあの体と全然違う。)
(膝が痛くない。息が上がらない。これが若さか。これが若さなのか。)
川沿いの道に出た。
朝の空気が冷たかった。秋の始まりの匂いだ。
俺は走りながら、2005年の朝を吸い込んだ。
やり直しが始まった。
本当に始まったんだと、足の裏から感じた。
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30分走って家に戻った。
シャワーを浴びて、制服を着て、鞄を持って階段を下りたら、母が台所で固まっていた。
「どこ行ってたの」
「走ってた」
「走ってた?」
「朝ランニング、しようかと」
「……龍が?」
(そんな驚くことか。)
「うん」
「いつから?」
「今日から」
母は俺を5秒くらい見た。
「……なんか、昨日から急にいろんなことが始まってるね、あなた」
「うん」
「部屋の片付けもランニングも」
「うん」
「文化祭で何かあった?」
(ある意味あった。人生が一回ぶっとんだ。)
「別に。なんとなく」
母はしばらく俺を見ていたが、「ご飯食べなさい」と言った。
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学校への道を歩きながら、スカウトバッグから今日のことを整理した。
まずコンタクトのことを調べる。眼鏡屋に行けばいい。お小遣いが足りなければ、母に話す。理由は「視野が広い方が授業に集中できる」でいい。嘘じゃない。
髪型は美容院だ。今のぼさぼさを整えるだけでいい。流行に乗る必要はない。38歳のシンプルな基準で「清潔感があって、主張しすぎない」スタイルにするだけだ。2005年に珍しくても、おしゃれに見えれば問題ない。
(問題は予算だ。)
(高校生の財布事情をなめてた。)
ガラケーを開いた。
メールが一件来ていた。
ユースケからだ。
「きょうも英語教えて!!!お願い!!!感謝!!!!」
感嘆符が4個あった。
(こいつのテンションは朝から全開だ。)
返した。「いいよ。朝来い」
十秒で返信が来た。
「やったあああ!!!!!神!!!!リュウ神!!!!」
(感嘆符が増えた。)
(ユースケを英語で伸ばすのは、今の俺にとって普通にできることだ。社会人22年間の英語運用能力を高校生の宿題に注ぎ込む。コスパは最高だ。)
(ユースケの英語が伸びれば、宇宙の夢に一歩近づく。それでいい。)
門をくぐると、ちょうど正門の前でキョンが立ち止まっていた。
鞄の中を探している。何かを忘れたのか、それとも見つからないのか。
天然パーマが、今日は少し広がっていた。湿気のせいかもしれない。
俺は通り過ぎようとした。
キョンが顔を上げた。
目が合った。
昨日の廊下と同じだった。怒っていない。気まずそうでもない。ただ、見る。
俺も、止まらなかった。
でも一瞬だけ、うなずいた。
(会釈。昨日、心の中で決めた第一歩だ。)
キョンは少し間があって、同じようにうなずいた。
それだけだった。
俺は教室に向かった。
(うなずきを返してくれた。)
(落ち着けアラフォー。うなずきは挨拶だ。意味はない。)
(でも昨日は何もなかったから、一歩は一歩だ。)
心の中の38歳が、静かにガッツポーズをした。
今度は、ちゃんと落ち着けた。
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**つづく**
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ゴミ袋五個を見て固まる母のリアクション、書いていて一番楽しかったです。「大人になったねえ」が一番刺さった言葉でした。リュウはこれ、泣きかけてます(本文では書いてない)。次回、ある授業中にキョンとはじめてちゃんと言葉を交わします。きっかけは、まさかの「あれ」です。




