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第二話 16歳の俺には物が多すぎる


---


「龍! 聞こえてんの?」


もう一度、母の声がした。


「……今起きた」


声が出た。


声が、若い。


(そりゃそうだ。体が16歳なんだから。)


俺はゆっくり立ち上がった。頭が痛い。昨夜の飲みすぎが残っている気がするが、38歳の飲みすぎが16歳の体に来ているのか、それとも16歳の頭痛なのか、もうよくわからない。


部屋を、ちゃんと見渡した。


(……すごい。)


物が、多い。


机の上に教科書と参考書が積み重なっている。その隣に漫画が20冊ほど横倒しになっている。足元にはなぜか脱ぎっぱなしのジャージ。クローゼットは扉が閉まりきっていない。床に鞄が二個ある。なぜ二個ある。どっちが今の鞄なのかすらわからない。


壁にはB'zのポスターと、学校のプリントが画鋲でとめてある。


(学校のプリントを壁に? 管理能力、終わってる。)


38歳の俺はミニマリストになっていた。持ち物を減らして、必要なものだけに囲まれる生活に落ち着いた。その反動か、高校時代の自分がこんなに物をため込んでいたという記憶が薄れていた。


実際に目にすると、しみじみする。


(俺、ずっとこうだったんだな。)


---


鏡に向かった。


タンスの上に置いてある、30センチくらいの小さい鏡。38歳には使いにくい高さだが、16歳の俺にはちょうどいい。


映っていたのは、知っている顔だった。


でもずっと見ていなかった顔だった。


メガネをかけている。黒縁の、特に選んだわけでもない安いやつ。髪は何もしていないまま寝起きで跳ねている。肌はきれいだ。38歳の自分の顔と比べると、別人みたいにきれいだ。


(これが16歳か。)


(物はもらったらろくに使わないのに、肌だけはちゃんと若い。)


体も細い。触ると骨がわかる。中年太りがゼロだ。


(これを維持しろよ。将来の俺に言いたい。毎日走れ。食いすぎるな。)


でも今の俺が言っても遅い。今の俺が、未来の自分だからだ。


ここからもう一度、やり直すんだ。


---


制服に着替えた。


クローゼットを開けたら、服が詰め込まれすぎていてハンガーが斜めになっていた。


(なんでこんなに服があるんだ。)


着ない服を取っておく習慣がここから始まっていたのか。着られなくなっても捨てられなくて、気づいたらクローゼットが機能しなくなっていた。38歳でミニマリストに転向したのは、ここまでの溜め込みへの反動だったのかもしれない。


(今すぐ全部捨てたい。)


(落ち着けアラフォー。今日はとりあえず学校に行け。)


制服のズボンをはいて、ブレザーを羽織った。鞄は結局、適当に見て中身が多そうな方を選んだ。


階段を下りながら、俺は少し慎重になった。


昨夜の38歳が酔ってここを踏み外したことを思い出す。


(今の俺は素面の16歳だ。落ちるな。)


---


台所に母がいた。


朝の光の中で、エプロンをつけて立っている。


(……若い。)


俺の記憶の中の母より、ずっと若い。当たり前だ。2005年なんだから。


頭でわかっていても、実際に見ると言葉が詰まった。


「なんか顔色悪くない?」


母が振り返って言った。


「大丈夫」


「昨日文化祭で疲れたんじゃないの。ちゃんと食べなさい」


お味噌汁とごはんと、卵焼きが並んでいた。


38歳の朝は、コンビニのおにぎりかカロリーメイトだった。


俺は椅子に座って、黙って食べ始めた。


味がする。ちゃんとする。


(落ち着けアラフォー。母の飯で泣くな。16歳がそんなことで泣くか。)


泣かなかった。ギリギリで踏みとどまった。


「文化祭、どうだったの」


「まあ、普通に」


「そう。楽しかった?」


(楽しかった、か。)


楽しかった記憶はある。文化祭の記憶は、16歳の俺の記憶として薄く残っている。模擬店。教室の飾りつけ。走り回った午後。


でも昨日の帰り道の記憶もある。


駅のホームで、俺は降りた。


「ちょっといいか」と言った。


キョンは振り返った。


それだけ言って、俺は続きを言えなかった。いや、言った。「好きだ」と言った。16歳の俺は言えた。


キョンは少し間を置いて、「ごめん」と言った。


それだけだった。


「ごめん、なんか、よくわからないから」


そのあと二人でまた電車に乗って、無言で帰った。


(……「よくわからないから」か。)


38歳になった今なら、その言葉の意味を少し知っている。


「好きになる感覚がわからない」というのは、単に俺への返事じゃない。キョン自身の話だ。


(お前が感じている「わからない」には、ちゃんと名前がある。ただ、この時代にはまだその言葉が存在しない。20年後、お前はちゃんと自分の言葉を見つける。今は待つだけだ。)


「龍、行くよ。遅刻するよ」


母の声で我に返った。


「わかってる」


---


玄関を出た瞬間に、空気が違った。


秋の、朝の空気だ。


(2005年9月の朝は、こんな匂いがするんだったか。)


ポケットにガラケーが入っていた。


取り出して、電源を入れた。


デコボコした液晶。小さい画面。メニューボタンが並んでいる。


(……Slackがない。)


(LINEがない。)


(プッシュ通知、ゼロ。)


38歳の俺のスマホには常に何かが来ていた。北川からのSlack。麻衣からの業務連絡のような短文。広告メール。誰かのSNS更新通知。


ここにはそれが一切ない。


着信履歴を見ると、ユースケから昨日の夜に「おつかれー!!!」という一件だけ。


(……ユースケ。)


元気にしてるか。


(そりゃしてるか、今は2005年だ。)


俺は歩き始めた。


---


学校に着くと、廊下がうるさかった。


文化祭の翌日だから、みんな興奮の余韻を引きずっている。どこかのクラスの誰かが「昨日のあれ最高だったよな」と言っている声が聞こえた。


(懐かしい。)


(16歳の「最高」はこんなに声がでかい。)


「リュウ!」


背後から声がした。


でかい声だった。朝7時台の廊下でその音量を出せる人間は、俺の知る限り一人しかいない。


振り返ると、田辺祐介がでかい荷物を背負って走ってきた。


「おまえ昨日帰り早かったじゃん! どこ行ったん?!」


(ユースケ……。)


俺は少し止まった。


20年ぶりに見る顔だ。38歳になったユースケは宇宙関連の仕事をしている。研究職ではないが、それに近い何かをしていると風の便りで聞いた。SNSはやっていない。消息は薄い。


目の前にいる16歳のユースケは、笑うと目が細くなる。


(変わってないな、この顔。)


「ちょっとあって」


「あって、って何? キョンと帰ったって聞いたけど?」


(もう知ってるのかこいつ。)


情報収集が速い。というかこいつはいつもそうだ。バカっぽく見えるが、人の動きを見ていないようで見ている。


「別に。電車で同じ方向だっただけ」


「それだけ?」


「それだけ」


ユースケは一秒だけ俺の顔を見た。


「……そっか」


(こいつは、「そっか」で終わらせる。それがユースケだ。問い詰めない。でも全部わかってる顔をする。)


「ユースケ、英語の宿題やった?」


「やってない!!!」


「毎回言うな」


「だってわからんもん。誰か見せてくれん?」


(この流れも覚えがある。ユースケの英語の救難信号は、高校2年の秋から始まった。)


「授業前に一緒に見るから来い」


「え、まじ? リュウ神か?! 神じゃん?!!」


(感嘆符が3個以上ついてる。テンションそのままだな。)


俺は歩き出した。


ユースケがとなりに並んだ。


---


1時間目が始まる前に、英語の課題をユースケと見た。


「あ、ここ不定詞か。そっか」


「そう。この形になったら不定詞を疑え」


「なんかすっきりした。なんでリュウそんなわかるの」


「覚えるしかない」


「うーん……」


(38歳の知識が16歳の英語補習に使われている。俺の22年間の経験値のうち、最初に役に立ったのがここか。)


ユースケがページをめくりながら、ふと言った。


「リュウ、なんか今日ちょっと違くない?」


「違う?」


「なんか。落ち着いてるっていうか。いつもと雰囲気が違う」


(さすがに鋭い。)


(アラフォーが16歳の体に入ってるんだから、そりゃ雰囲気は変わる。)


「昨日疲れたんだろ」


「そっか。まあ文化祭あったしな」


ユースケはそれ以上は聞かなかった。


(助かった。)


---


2時間目と3時間目のあいだの休み時間に、廊下に出た。


手洗い場に向かう途中で、止まった。


キョンがいた。


廊下の窓際に、ミナミと二人で立っていた。


ミナミが何か喋っていて、キョンはそれを聞いている。文化祭の話をしているのか、ミナミが手を動かしながら笑っている。


キョンは笑っていない。でも聞いている。


(……。)


天然パーマの髪が、光の加減で少し浮いて見える。丸いメガネ。制服のスカート。


俺が昨夜2024年のスマホで見た横顔は、22歳のキョンだった。


でも今目の前にいるのは、16歳だ。


顔の輪郭は同じだった。


骨格が同じだから当たり前なんだが、それでも俺は止まった。


(……お前が、あの横顔か。)


キョンがふと視線をあげた。


廊下の向こうに俺がいることに気づいた。


一瞬、目が合った。


昨日の夕方のことを、お互いに知っている。


キョンの目は特に変わらなかった。怒っているわけでも、気まずそうにしているわけでもない。


ただ、見た。


それだけだった。


俺も、視線を外さなかった。


(落ち着けアラフォー。目を逸らすな。16歳の失恋引きずり男みたいな顔をするな。お前はもう、あの告白の文脈じゃないところにいる。)


キョンが先に視線を前に戻した。


ミナミの話の続きを聞き始めた。


俺はそのまま手洗い場に向かった。


(……「よくわからないから」か。)


俺は蛇口をひねりながら、もう一度その言葉を繰り返した。


キョンが言った「よくわからない」は、俺への拒絶じゃなかったかもしれない。


自分自身への「わからない」が、たまたま俺への返事になっただけだったかもしれない。


(お前が感じている「わからない」には、ちゃんと名前がある。ただ、この時代にはまだその言葉が存在しない。20年後、お前はちゃんと自分の言葉を見つける。今は待つだけだ。)


水を止めた。


俺が今やることは、告白をやり直すことじゃない。


お前の「わからない」が言葉になるまでの20年間に、ちゃんとそばにいることだ。


(……38歳のくせに、えらく長期的な目標を立ててしまった。)


(落ち着けアラフォー。まず今日、もう一回目が合ったら会釈くらいしろ。それが第一歩だ。)


---


放課後、鞄を持って廊下に出ると、ユースケとフミとバータが出口のところで固まっていた。


「リュウ、今日ファミレス行く?」とユースケが言った。


古川文が、本を持ったまま無言で俺を見た。


馬場太が「まあ、行くなら行くけど」と言いながら教室の窓を見ていた。


この三人組、変わってない。


(20年後もたぶんこういう感じで固まってるんだろうな。)


「行く」と俺は言った。


ユースケが「よし!!!」と言った。感嘆符が2個ついている音がした。


フミがちらっと俺を見た。


(こいつだけは、なんか目が違う。)


「昨日、何かあった?」


フミが言った。


ユースケが「俺も聞いた!」と乗っかってきた。


バータが「聞いてなかったけど、聞いてもいいか?」と言った。


(四方から来た。)


「別に何もない」


「そっか」とフミが言った。


それ以上は聞かなかった。


でも、「全部わかってるぞ」という目は消えなかった。


(フミのあの目が、高校の頃からあったのか。知らなかった。)


---


ファミレスへの道を四人で歩きながら、俺はふと振り返った。


キョンが校門から出てきた。


ミナミとサナとリサの三人と一緒だ。


ミナミが笑いながら何か言っている。サナが腕を組んでツッコんでいる。リサがよくわからない顔でお茶を飲んでいる。


キョンは少しだけ笑っている。


(笑うんだな。)


天然パーマが秋風に揺れた。


俺は前に向き直った。


(急ぐな。急ぐことは何もない。)


(俺には22年間ある。)


バータが「リュウ、なに見てたん」と横から言ってきた。


「なんでもない」


「そっか」


バータは特に追及しなかった。


でも「飯の話に戻るけど」と言いながら、しっかり俺の横顔を一秒見た。


(こいつも、全部見てるな。)


(なんかこのグループ、全員それぞれの角度で観察眼があるぞ。)


(38歳のおっさんがバレる日は遠くないかもしれない。)


ファミレスの看板が見えた。


「ドリンクバー絶対頼む」とユースケが言った。


「毎回言うな」とフミが言った。


「毎回頼むから!!」


(変わってない。なにも変わってない。)


俺は、ひさしぶりに少しだけ、軽くなった気がした。


---


**つづく**


---

今回のフミの「昨日、何かあった?」、本当は3話分くらい引っ張ろうと思っていたんですが、早めに出してしまいました。でもフミはたぶん、もう最初から何かを感じている。次回、リュウが「やり直し計画」を本格的に動かし始めます。まず手をつけるのは、あの部屋です。

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