第一話 深夜、アラフォーは踏み外した
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深夜2時。
俺のモニターだけが光っている。
六畳の部屋。折りたたみテーブル。すき家の牛丼の容器が三個。ペットボトルが四本。
38歳の生活感、ここに極まれり。
(これがリモートワークの末路か。誰も見ていないからって、もう少し片付けろよ俺。)
Slackの通知が鳴った。PM11:59。
「柳さん、明日の朝9時に全体MTGあります。アジェンダ作っておいてもらえますか。今日中に共有お願いします」
送ってきたのは北川だ。32歳。俺の上司のくせに6歳年下という、地味にメンタルをえぐる配置。
俺は5秒間、画面を見つめた。
(今、何時だと思ってんだ。)
でも返した。「了解です。作成します」。
これが俺の38年間のすべてだ。「了解です」と打ち続けた人生。
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アジェンダを作りながら、俺は今日で何度目かわからない自問をした。
どこで間違えたんだろう。
SEになったのは23歳。最初の会社はブラックだったが、まだ若さで乗り越えた。転職して、なんとかやってきた。気づいたら30代になっていて、気づいたら結婚していた。
結婚、というか。
(あれは結婚じゃなかったな。)
妻の麻衣は、大学の頃から知っている。気が合う友人だと思っていた。「お互いそろそろ世間体があるから」と言われて、流された。子供は二人いる。俺の子じゃないが、俺が父親として戸籍に入っている。本当の父親が誰なのか、俺は知らないし、知りたくもない。
毎晩、麻衣は別の部屋で寝る。
おはようとおやすみだけを交わす暮らしが、もう四年続いている。
(38歳にして、この状況を「普通」だと思い始めている自分が一番怖い。)
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アジェンダを送信したのが深夜1時12分だった。
北川からの既読は、すぐについた。
「ありがとうございます。一点修正お願いしてもいいですか」
(来ると思ってた。来ると思ってたぞ北川。)
修正指示を読む。言っていることは間違っていない。でも「ありがとう」と言いながら修正を求めてくる、このスタイルが俺のメンタルをじわじわ削る。
俺は冷蔵庫を開けた。缶ビールが三本あった。一本取り出して、プルタブを引く。
ぷしゅ、という音が今夜一番の癒しだった。
(悲しすぎる話だが、事実だからしょうがない。)
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修正版を送って、Slackを閉じた。
もう仕事はしない。今日はここまで。
スマホを手に取ると、なんとなくTwitterを開いた。2024年はもうXとか言われてるやつだ。
フォローしているアカウントを流し見する。IT系のニュース。プログラミングのtips。定食屋のランチ写真。
(俺のTLは殺風景すぎる。38年間の趣味の薄さを可視化するとこうなる。)
スクロールしていた指が、止まった。
「京」というアカウントだった。
相互フォローでもない。リツイートでも広告でもない。なぜ出てきたのか、アルゴリズムの気まぐれとしか言いようがない。
プロフィール欄には「服を作っています」とだけ書いてあった。
アイコンは、横顔の写真だった。
(……あ。)
心臓が、変な打ち方をした。
俺は自分の心臓に内心でツッコんだ。
(落ち着けアラフォー。横顔一枚で動揺するな。38歳のくせに。)
でも動揺した。
「京」……どこかで聞いたことがある名前のような気がしたが、酔った頭では追えなかった。
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投稿を遡った。
服の写真が多かった。布地の質感。縫い目の細部。完成品よりも「作っている途中」の写真が多い。軍手をはめた手が、生地をピンで留めている。
たまに外の写真が混じる。駅のホーム。川沿いの道。コンビニのコーヒーカップ。
文章は少ない。「できた」「もう少し」「また作り直す」くらい。
(寡黙な人間のSNSって、なぜかリアルが見える。)
最新の投稿は3時間前だった。
「夜中に縫い物をするのが一番集中できる。でも理由はよくわからない」
俺は三秒、その文章を見た。
なんか、わかる。
(って思ったが落ち着け。「夜中に作業する人はわかる」っていうだけの話だ。感情移入するな38歳。)
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DMを送った。
送ってしまった。
「夜中の集中、わかります。自分もです」
送信ボタンを押してから三秒後に気づいた。
(何をやってるんだ俺は。知らない人間にいきなりDMを送るな。38歳が何をやってるんだ。通報される案件では?)
既読がついた。
(……え。)
「そうですか。何をしているんですか、夜中に」
返ってきた。
俺はビールを置いた。
(落ち着け。落ち着けアラフォー。深呼吸しろ。)
「仕事の残作業、です。SEで」
「大変そう」
「まあ」
「服を縫っていると、時間を忘れます」
「わかる気がします。俺はコードを書いてるときだけ時間が消えます」
「似てますね」
似てますね、と言われた。
38歳の心の中の何かが、「え」と言った。
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DMが続いた。
深夜2時から3時にかけて、俺たちは話した。
服の話。音楽の話。「好きなものってなんで好きなのかわかんないですよね」という話。
相手はよく喋った。最初は短い返信だったが、服の話になった途端に長くなった。着丈の話。袖の構造の話。「市販の服って、なんか違うんです。どこが違うのかうまく言えないけど、自分で作ると正しい感じがする」という話。
俺は「その『正しい感じ』、すごくわかる」と打った。
本当にわかった。自分でコードを一から設計したときの、あの感覚に似ている。
「なんか、あなたって面白い人ですね」
キョンはそう言った。
(落ち着け落ち着け落ち着けアラフォー。「面白い」は社交辞令の可能性が70パーセントある。冷静になれ。)
でも嬉しかった。
「年いくつですか」と聞かれた。
俺は3秒止まった。
(ここだ。正直に言うか、ごまかすか。)
「24、です」
(嘘をついた。悪化した。でも38とは言えなかった。)
「私は22です。同世代ですね」
(22歳……。)
(俺、年齢詐称に加えてほぼ一回り上の相手にDMしてる38歳か。最低では?)
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気づいたら通話になっていた。
「DMより話した方が早いですよ」とキョンが言った。
かかってきた電話を、俺は受けた。
(受けてしまった。38歳のくせに深夜に知らない女性と通話を始めてしまった。)
声は想像より落ち着いていた。低くはないが、ふわっとしているわけでもない。話すテンポが一定で、間の取り方が独特だった。
「服を作るきっかけって、何でしたか」と俺は聞いた。
少し間があった。
「……なんか、言葉で表現するのが苦手で。形にしたら、自分がなんなのかわかるかなって思って」
「自分がなんなのか?」
「うまく言えないんですけど。自分のことが、なんかよくわからなくて」
俺は缶ビール二本目を開けながら、その言葉を聞いた。
(自分がなんなのかわからない、か。)
25歳の頃の俺も、それを言えたら少し楽だったかもしれない。言えなかったけど。
「わかる気がします」と俺は言った。
「うそ、わかります?」
「わかる人とわからない人が、たぶんいる。あなたはわかる側の人間だと思う」
また間があった。
「……なんか、あなたって変な人ですね」
「変ですか」
「変です。でも嫌じゃない」
(心の中の38歳がガッツポーズした。)
(落ち着けアラフォー。「嫌じゃない」はまだゼロ地点だ。浮かれるな。)
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気づいたら4時を過ぎていた。
「そろそろ寝ます」とキョンが言った。
「そうですね」
「また話しましょう」
「ぜひ」
通話が切れた。
俺は天井を見た。
静かだった。
(……38歳が深夜に知らない女性と2時間通話した。これが俺の現在地だ。)
でも、久しぶりに時間を忘れていた。
仕事のことも、北川のことも、麻衣のことも、何も考えていなかった。
缶ビールが何本空いたか数えた。三本。いつの間に飲んだんだ。
(飲みすぎだ。)
スマホをテーブルに置いて、立ち上がった。風呂に入ろう。
(38歳、深夜4時に飲みながら通話して、ようやく動くのか。)
一歩踏み出した。
なんか、足元がふわっとした。
(あ、これ酔ってる。)
廊下に出た。浴室に向かう途中に、階段がある。
(うちって階段あったっけ、というかここ一階じゃなかったっけ、いや二階建てか、そうだ二階に書斎が——)
足が、踏み外した。
あ、と思った瞬間に、世界が斜めになった。
廊下が近づいてくる。壁が見える。
(落ちる。)
(38歳が酔っ払って階段から落ちる。これが俺の死に方か。)
体が浮いた。
そのまま、暗くなった。
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目が覚めた。
床が、硬かった。
(……生きてる。)
ゆっくり起き上がった。頭が痛い。でも血は出ていないようだ。
周りを見た。
(……あ?)
木の床。木の壁。低いタンス。
(俺の部屋、こんな感じだったっけ。)
カーテンの向こうが明るかった。朝だ。
でも何かが、おかしい。
部屋にあるはずのものが、ない。
モニターがない。折りたたみテーブルがない。缶ビールもない。
代わりに。
教科書が積まれていた。
机の上に参考書。「現代文」「数学II」。壁にはなぜかB'zのポスター。
(……何?)
立ち上がって、窓を開けた。
見覚えがある景色だった。
(待て。待ってくれ。)
この二階の窓から見える、隣の家の屋根の形。電柱の位置。空の色。
(俺、これ知ってる。)
鏡がタンスの上にあった。
俺は鏡を見た。
(…………。)
そこに映っていたのは、38歳の俺じゃなかった。
髪が多い。肌がきれい。細い。
(16歳の俺だ。)
膝の力が抜けた。その場にへたり込んだ。
(どういうことだ。)
(どういうことなんだ。)
カレンダーが壁に貼ってあった。
「2005年9月」。
文化祭の翌日を示す日付に、赤い丸がついていた。
俺はそのカレンダーをしばらく見た。
(……落ち着け。)
(落ち着けアラフォー。)
(頭の中は38歳のまま、体は16歳に戻った。2005年9月に来てしまった。)
(これは夢じゃない。)
「龍! 起きてんの? 朝ごはんできたよ!」
階下から母の声がした。
俺は天井を見上げた。
声が出なかった。
(………やり直せる。)
(やり直せるのか、俺。)
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**つづく**
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今回、リュウがDMを送る場面、実は最初「送らない」バージョンで書いていました。勇気が出なくて閉じる、という展開。でも「それだとタイムリープしない」というシンプルな理由でボツにしました。38歳、酔った勢いに感謝。次回、16歳に戻ったリュウが最初にやることをお楽しみに。




