表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/10

第一話 深夜、アラフォーは踏み外した


---


深夜2時。


俺のモニターだけが光っている。


六畳の部屋。折りたたみテーブル。すき家の牛丼の容器が三個。ペットボトルが四本。


38歳の生活感、ここに極まれり。


(これがリモートワークの末路か。誰も見ていないからって、もう少し片付けろよ俺。)


Slackの通知が鳴った。PM11:59。


「柳さん、明日の朝9時に全体MTGあります。アジェンダ作っておいてもらえますか。今日中に共有お願いします」


送ってきたのは北川だ。32歳。俺の上司のくせに6歳年下という、地味にメンタルをえぐる配置。


俺は5秒間、画面を見つめた。


(今、何時だと思ってんだ。)


でも返した。「了解です。作成します」。


これが俺の38年間のすべてだ。「了解です」と打ち続けた人生。


---


アジェンダを作りながら、俺は今日で何度目かわからない自問をした。


どこで間違えたんだろう。


SEになったのは23歳。最初の会社はブラックだったが、まだ若さで乗り越えた。転職して、なんとかやってきた。気づいたら30代になっていて、気づいたら結婚していた。


結婚、というか。


(あれは結婚じゃなかったな。)


妻の麻衣は、大学の頃から知っている。気が合う友人だと思っていた。「お互いそろそろ世間体があるから」と言われて、流された。子供は二人いる。俺の子じゃないが、俺が父親として戸籍に入っている。本当の父親が誰なのか、俺は知らないし、知りたくもない。


毎晩、麻衣は別の部屋で寝る。


おはようとおやすみだけを交わす暮らしが、もう四年続いている。


(38歳にして、この状況を「普通」だと思い始めている自分が一番怖い。)


---


アジェンダを送信したのが深夜1時12分だった。


北川からの既読は、すぐについた。


「ありがとうございます。一点修正お願いしてもいいですか」


(来ると思ってた。来ると思ってたぞ北川。)


修正指示を読む。言っていることは間違っていない。でも「ありがとう」と言いながら修正を求めてくる、このスタイルが俺のメンタルをじわじわ削る。


俺は冷蔵庫を開けた。缶ビールが三本あった。一本取り出して、プルタブを引く。


ぷしゅ、という音が今夜一番の癒しだった。


(悲しすぎる話だが、事実だからしょうがない。)


---


修正版を送って、Slackを閉じた。


もう仕事はしない。今日はここまで。


スマホを手に取ると、なんとなくTwitterを開いた。2024年はもうXとか言われてるやつだ。


フォローしているアカウントを流し見する。IT系のニュース。プログラミングのtips。定食屋のランチ写真。


(俺のTLは殺風景すぎる。38年間の趣味の薄さを可視化するとこうなる。)


スクロールしていた指が、止まった。


キョン」というアカウントだった。


相互フォローでもない。リツイートでも広告でもない。なぜ出てきたのか、アルゴリズムの気まぐれとしか言いようがない。


プロフィール欄には「服を作っています」とだけ書いてあった。


アイコンは、横顔の写真だった。


(……あ。)


心臓が、変な打ち方をした。


俺は自分の心臓に内心でツッコんだ。


(落ち着けアラフォー。横顔一枚で動揺するな。38歳のくせに。)


でも動揺した。


キョン」……どこかで聞いたことがある名前のような気がしたが、酔った頭では追えなかった。


---


投稿を遡った。


服の写真が多かった。布地の質感。縫い目の細部。完成品よりも「作っている途中」の写真が多い。軍手をはめた手が、生地をピンで留めている。


たまに外の写真が混じる。駅のホーム。川沿いの道。コンビニのコーヒーカップ。


文章は少ない。「できた」「もう少し」「また作り直す」くらい。


(寡黙な人間のSNSって、なぜかリアルが見える。)


最新の投稿は3時間前だった。


「夜中に縫い物をするのが一番集中できる。でも理由はよくわからない」


俺は三秒、その文章を見た。


なんか、わかる。


(って思ったが落ち着け。「夜中に作業する人はわかる」っていうだけの話だ。感情移入するな38歳。)


---


DMを送った。


送ってしまった。


「夜中の集中、わかります。自分もです」


送信ボタンを押してから三秒後に気づいた。


(何をやってるんだ俺は。知らない人間にいきなりDMを送るな。38歳が何をやってるんだ。通報される案件では?)


既読がついた。


(……え。)


「そうですか。何をしているんですか、夜中に」


返ってきた。


俺はビールを置いた。


(落ち着け。落ち着けアラフォー。深呼吸しろ。)


「仕事の残作業、です。SEで」


「大変そう」


「まあ」


「服を縫っていると、時間を忘れます」


「わかる気がします。俺はコードを書いてるときだけ時間が消えます」


「似てますね」


似てますね、と言われた。


38歳の心の中の何かが、「え」と言った。


---


DMが続いた。


深夜2時から3時にかけて、俺たちは話した。


服の話。音楽の話。「好きなものってなんで好きなのかわかんないですよね」という話。


相手はよく喋った。最初は短い返信だったが、服の話になった途端に長くなった。着丈の話。袖の構造の話。「市販の服って、なんか違うんです。どこが違うのかうまく言えないけど、自分で作ると正しい感じがする」という話。


俺は「その『正しい感じ』、すごくわかる」と打った。


本当にわかった。自分でコードを一から設計したときの、あの感覚に似ている。


「なんか、あなたって面白い人ですね」


キョンはそう言った。


(落ち着け落ち着け落ち着けアラフォー。「面白い」は社交辞令の可能性が70パーセントある。冷静になれ。)


でも嬉しかった。


「年いくつですか」と聞かれた。


俺は3秒止まった。


(ここだ。正直に言うか、ごまかすか。)


「24、です」


(嘘をついた。悪化した。でも38とは言えなかった。)


「私は22です。同世代ですね」


(22歳……。)


(俺、年齢詐称に加えてほぼ一回り上の相手にDMしてる38歳か。最低では?)


---


気づいたら通話になっていた。


「DMより話した方が早いですよ」とキョンが言った。


かかってきた電話を、俺は受けた。


(受けてしまった。38歳のくせに深夜に知らない女性と通話を始めてしまった。)


声は想像より落ち着いていた。低くはないが、ふわっとしているわけでもない。話すテンポが一定で、間の取り方が独特だった。


「服を作るきっかけって、何でしたか」と俺は聞いた。


少し間があった。


「……なんか、言葉で表現するのが苦手で。形にしたら、自分がなんなのかわかるかなって思って」


「自分がなんなのか?」


「うまく言えないんですけど。自分のことが、なんかよくわからなくて」


俺は缶ビール二本目を開けながら、その言葉を聞いた。


(自分がなんなのかわからない、か。)


25歳の頃の俺も、それを言えたら少し楽だったかもしれない。言えなかったけど。


「わかる気がします」と俺は言った。


「うそ、わかります?」


「わかる人とわからない人が、たぶんいる。あなたはわかる側の人間だと思う」


また間があった。


「……なんか、あなたって変な人ですね」


「変ですか」


「変です。でも嫌じゃない」


(心の中の38歳がガッツポーズした。)


(落ち着けアラフォー。「嫌じゃない」はまだゼロ地点だ。浮かれるな。)


---


気づいたら4時を過ぎていた。


「そろそろ寝ます」とキョンが言った。


「そうですね」


「また話しましょう」


「ぜひ」


通話が切れた。


俺は天井を見た。


静かだった。


(……38歳が深夜に知らない女性と2時間通話した。これが俺の現在地だ。)


でも、久しぶりに時間を忘れていた。


仕事のことも、北川のことも、麻衣のことも、何も考えていなかった。


缶ビールが何本空いたか数えた。三本。いつの間に飲んだんだ。


(飲みすぎだ。)


スマホをテーブルに置いて、立ち上がった。風呂に入ろう。


(38歳、深夜4時に飲みながら通話して、ようやく動くのか。)


一歩踏み出した。


なんか、足元がふわっとした。


(あ、これ酔ってる。)


廊下に出た。浴室に向かう途中に、階段がある。


(うちって階段あったっけ、というかここ一階じゃなかったっけ、いや二階建てか、そうだ二階に書斎が——)


足が、踏み外した。


あ、と思った瞬間に、世界が斜めになった。


廊下が近づいてくる。壁が見える。


(落ちる。)


(38歳が酔っ払って階段から落ちる。これが俺の死に方か。)


体が浮いた。


そのまま、暗くなった。


---


目が覚めた。


床が、硬かった。


(……生きてる。)


ゆっくり起き上がった。頭が痛い。でも血は出ていないようだ。


周りを見た。


(……あ?)


木の床。木の壁。低いタンス。


(俺の部屋、こんな感じだったっけ。)


カーテンの向こうが明るかった。朝だ。


でも何かが、おかしい。


部屋にあるはずのものが、ない。


モニターがない。折りたたみテーブルがない。缶ビールもない。


代わりに。


教科書が積まれていた。


机の上に参考書。「現代文」「数学II」。壁にはなぜかB'zのポスター。


(……何?)


立ち上がって、窓を開けた。


見覚えがある景色だった。


(待て。待ってくれ。)


この二階の窓から見える、隣の家の屋根の形。電柱の位置。空の色。


(俺、これ知ってる。)


鏡がタンスの上にあった。


俺は鏡を見た。


(…………。)


そこに映っていたのは、38歳の俺じゃなかった。


髪が多い。肌がきれい。細い。


(16歳の俺だ。)


膝の力が抜けた。その場にへたり込んだ。


(どういうことだ。)


(どういうことなんだ。)


カレンダーが壁に貼ってあった。


「2005年9月」。


文化祭の翌日を示す日付に、赤い丸がついていた。


俺はそのカレンダーをしばらく見た。


(……落ち着け。)


(落ち着けアラフォー。)


(頭の中は38歳のまま、体は16歳に戻った。2005年9月に来てしまった。)


(これは夢じゃない。)


「龍! 起きてんの? 朝ごはんできたよ!」


階下から母の声がした。


俺は天井を見上げた。


声が出なかった。


(………やり直せる。)


(やり直せるのか、俺。)


---


**つづく**


---

今回、リュウがDMを送る場面、実は最初「送らない」バージョンで書いていました。勇気が出なくて閉じる、という展開。でも「それだとタイムリープしない」というシンプルな理由でボツにしました。38歳、酔った勢いに感謝。次回、16歳に戻ったリュウが最初にやることをお楽しみに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ