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腐った果実の斜め下備忘録  作者: 腐った果実
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あるWeb投稿に思うこと

ネットで、発達障害と現代社会について論じた記事を読んだ。


その中に、どうにも看過できない一節があった。


『ドラえもん』ののび太とジャイアンについて、

「医療的な目線では発達障害だと言われるでしょう」という趣旨の発言が紹介されていたのである。


果実はこれを読んで、かなり強い違和感を覚えた。


いや、それは違うだろう、と。


もちろん、その記事が言おうとしていることの一部は分かる。


現代社会では、昔よりも人間に求められる能力が増えた。


仕事ができるだけでは駄目。

コミュニケーション能力が必要で、報告・連絡・相談ができて、

臨機応変に対応できて、

パソコンも使えて、

周囲に気を配り、

チームで協調し、

顧客にも配慮しなければならない。


昔なら、一つの仕事だけが突出して得意な人でも、その仕事を任せることで居場所を作れた。

今では一人の人間に、平均的に何でもできることを要求する場面が増えた。


そういう社会が、能力に大きな凸凹のある人にとって生きづらいのではないか。


そこまでは分かる。


しかし、その話をするために、なぜのび太とジャイアンを「発達障害」と呼ばなければならないのだろう。


そもそも、物語の登場人物は現実の人間のカルテではない。


キャラクターというものは、多かれ少なかれ人間の性格を誇張して作られている。


のび太は怠ける。

失敗する。

すぐ泣く。

困ればドラえもんに頼る。


しかし、それは「発達障害の症状」を描くために作られたのではない。


努力したくない。

怖いことから逃げたい。

失敗したくない。

誰かに助けてもらいたい。


誰の中にもある、あまり立派ではない弱さを極端な形で背負っているから、のび太という人物は成立している。


ジャイアンも同じだ。


短気で乱暴で、理不尽で、身勝手である。


一方で、友達のためなら危険な場所にも飛び込むし、劇場版では妙に頼もしくなる。


そういう矛盾も含めて、ジャイアンというキャラクターなのだ。


もし

「社会から少しはみ出している」

「衝動的である」

「人間関係でトラブルを起こす」といった特徴だけを拾って発達障害と言っていいのなら、いくらでも同じことができる。


『男はつらいよ』の寅さんはどうだ。


定職につかず、家族と喧嘩し、恋愛では同じような失敗を何度も繰り返す。


『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の両津勘吉はどうだ。


衝動的で、金に弱く、規則を破り、思いついたことに猛烈にのめり込む。


では、寅さんも発達障害なのか。


両津勘吉もそうなのか。


さらに広げれば、ルパン三世も、シャーロック・ホームズも、ドン・キホーテも、ハムレットも、何らかの診断名をつけることができるだろう。


そんなことを始めたら、物語の登場人物など、ほとんど全員が何らかの「障害」を持つことになる。


当たり前である。


普通の人間が普通に起きて、普通に仕事をして、普通に空気を読み、普通に帰宅するだけでは物語にならないからだ。

物語の登場人物は、現実の私たちが社会的なしがらみのためにできないことを代わりにやってくれる。


上司に言い返す。

仕事を投げ出して旅に出る。

大声で怒る。

好きなことだけに熱中する。

泣く。

逃げる。

失敗する。

それでもまた立ち上がる。


だから私たちは共感するし、笑うし、応援する。

それを後から医学用語で分類して、理解したつもりになるのは、あまりにも貧しい。

そして、果実がより問題だと思うのは、これはフィクションのキャラクターだけの話ではないということである。


現実にも、変わった人はいる。


人付き合いが苦手な人。

同じことを繰り返すのが好きな人。

一つのことに異常に詳しい人。

忘れ物の多い人。

口下手な人。

落ち着きのない人。

妙に頑固な人。


そういう人間の凸凹は、昔から存在した。

もちろん、その凸凹によって本人が深刻に苦しんでいるのであれば、診断や医療や福祉の支援が役立つことはある。

それは大切なことである。


しかし、


「あの人、変わっているよね」

「空気が読めないよね」

「仕事が遅いよね」

というところから、


「発達障害なんじゃない?」


へ飛ぶのはまったく別の話だ。


現実にはすでに「発達障害」という言葉が、他人を侮辱するための言葉として投げつけられる場面がある。

そんな状況で、専門家の肩書きを伴った記事が、

「のび太もジャイアンも、医療的に見れば発達障害でしょう」と書く。

それは、いったい読者に何を学習させるのだろう。

社会から少しはみ出した人間を見たら、発達障害というカテゴリーに入れて考えてよい。

そんな雑な思考を、むしろ補強してしまわないだろうか。


これはかなり危険なことだと思う。


そもそも記事では、現代社会が人間を横並びにし、規格から外れた者を許さなくなった、という趣旨の批判がなされている。

だとすれば、なおさらである。

人間を規格化する社会を批判するために、

「この人は発達障害」

「あのキャラクターも発達障害」

と分類して回る。


それでは自分自身が、批判しているはずの行為を実演しているではないか。

果実は、現代社会が人間の凸凹に対して本当に寛容なのか、という問いそのものには意味があると思う。


ただし、それは発達障害という診断名を乱用しなくても論じられる。


たとえば、

「現代社会では一人の人間に求められる能力が増え、特定分野に強く、別の分野には弱い人が生きづらくなっているのではないか」

という問題提起なら分かる。

また、機械化や自動化によって、反復作業を得意とする人の仕事が減っている、という問題もあるだろう。

ただ、それはまた別の話である。

機械が人間より速く、正確にできる仕事が機械に置き換わるのは、ある程度どうしようもない。


電話交換手が減った。

タイピストが減った。

手書きの清書を専門にする仕事が減った。


だからといって、

「現代社会は電話交換手に不寛容になった」

とは言わない。

そこで考えるべきなのは、技術の進歩を止めることではなく、技術の進歩によって居場所を失う人をどう支えるかである。

社会の問題を論じるなら、そのくらい丁寧に問題を分けなければならない。


発達障害の診断が増えたこと。

人間に要求される能力が増えたこと。

社会が潔癖になったこと。

自動化によって仕事が減ったこと。

昔より支援制度が整備されたこと。


これらは互いに関係しているかもしれない。

しかし、関係しているからといって、全部を一つの物語にしてよいわけではない。

まして、その説明のためにフィクションのキャラクターを勝手に診断し、それを「医療的な目線」と呼ぶ必要などない。


のび太はのび太でいい。


ジャイアンはジャイアンでいい。


寅さんも寅さんでいいし、両津勘吉も両津勘吉でいい。


そして現実の人間だって、本来はそうなのではないだろうか。

少し変わっている人を見つけるたびに、何かの診断名で説明しなければ安心できない社会。

もし本当に批判すべき「現代社会の不自由さ」があるとするなら、果実はむしろ、そちらのほうではないかと思う。

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