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腐った果実の斜め下備忘録  作者: 腐った果実
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天は乳の上に乳を作らず、乳の下に乳を作らず、と言うお話

 宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』について、「ナウシカの胸が大きい理由」についての記事がWebに掲載されていたのを読みました。


 宮崎監督は、ナウシカの胸について、子どもに乳を飲ませるためでも、好きな男を抱くためでもなく、死にゆく人を抱きとめたときに「安心して死ねる胸」でなければならない、だから大きくなくてはいけない、という趣旨のことを語っていたらしい。


 なるほど。

 宮崎監督は、大きな胸に包容力や母性、安心感を感じていたわけだ。

 要するに、個人的な思いであり、趣味嗜好である。


 ところが、冒頭の記事では、「宮崎監督の趣味」という視点は「的外れ」だという。


 いや、なぜだ。


 もちろん宮崎監督は、何も考えずにナウシカの胸を大きく描いたわけではないだろう。


 死にゆく人を抱きとめる。

 安心させる。

 包み込む。


 そういうイメージを視覚的に表現するために、大きな胸という造形を選んだ。


 そこには明確な意図がある。


 だが、その意図こそ、個人の「趣味」と言うべきものではないのか?


 そもそも、人を抱きしめるのに胸の大きさは関係ない。


 胸の小さな女性だって人を抱きしめることはできるし、安心させることもできる。


 それでも宮崎監督は、「大きいほうが、より包容力を感じる」と考えた。


 それはもう、宮崎駿という一人の人間の美的感覚であり、女性像であり、嗜好そのものだろう。


 「日本一高い山は、日本にある山の中で一番高くなくてはならない」

 というのは、言葉の定義上そうなる。

 だが、

 「人を安心させる胸は、大きくなくてはならない」

 はそうではない。

 どれほど多数の人がその意見を支持しようとも、個人の「嗜好」の域を出ることはない。


 さて、果実はここで思う。


 人々を抱きしめ、安心させる。

 そのために必要なのが、柔らかさなのか、ボリュームなのか、は分からない。

 だが、「大きいほうが説得力がある」、あるいは、「でなくてはならない」、と思っただけだろう。 

 それだけの話なのになんで、それを「的外れ」と断じるようなことが起こるのか?


 実に奇妙な話だ。


 それは、

「宮崎監督ほどの巨匠が、そんな俗っぽい理由で描くはずがない」


あるいは、

「もっと深い意味があるはずだ」


それとも、

「母性や包容力を表現しているのだから、単なる趣味ではない」


 そんなバイアスがかかって、周囲が勝手に意味を盛った結果じゃないのか?

 と、勘ぐりたくなる。

 と言うか勘ぐっている。


 その結果、ただの趣味嗜好の話が、まるで巨匠を貶めるけしからん考え方であるかのように「的外れだ」と断じているのではないのか?


 最近はこういう話になると、すぐジェンダー論にもつながる。


「大きな胸=母性、というのは女性に対するステレオタイプではないか」

「現代の価値観に合わない」

 などの主張だ。

 そういう考えはもちろんあってもいいと思うし、理にかなってもいる。

 ただし、それと、

「そういう嗜好を持っていてはいけない」

 は全く別の話だ。


 大きな胸に包容力を感じる人もいる。

 小柄な人に可愛らしさを感じる人もいる。

 筋肉質な女性を美しいと思う人もいる。

 細身の男性を格好いいと思う人もいる。


 そんなものは個人の感覚である。


 それを作品の中でどう使うかは、創作者の自由だ。


 そこから「女性は全員こうあるべきだ」と押しつけ始めれば話は別だが、キャラクター一人の造形に自分の美意識を反映させることまで問題視していたら、創作なんてできなくなる。


 作家とは、そもそも偏った人間なのだと思う。


 変なところにこだわる。


 妙なものを美しいと思う。


 同じモチーフを何度も描く。


 そこに、その人の個性が出る。


 全員が完全に中立で、完全に公平で、現代の価値観に照らして一点の曇りもない作品を作ったら、たぶん相当つまらない。


 ところが、相手が「巨匠」になると、なぜか周囲がその偏りを消そうとする。


 この人がそんな下世話なことを考えるはずがない。

 この人の発言には必ず深い意味がある。

 この人の価値観はすべて正しい。


 気がつけば、作家本人ではなく、信者が作った「聖人」がそこに立っている。


 これは宮崎監督に限った話ではない。


 偉大な作家でも、学者でも、経営者でも、歴史上の人物でも同じだ。


 何か大きなことを成し遂げた人間だからといって、その人の言うことが全部正しいわけではない。


 一つの分野で天才だからといって、あらゆる分野で正しい判断をするわけでもない。


 変なことも言う。


 間違ったことも言う。


 偏見だってある。


 好き嫌いもある。


 それでいいのだと思う。


 というより、それが人間だ。


 偉人を評価するというのは、その人を無謬の存在にすることではない。


「この作品はすごい。でも、この発言はちょっと変だね」


「この考え方は今見ると古いね。でも、こういう美意識が作品につながったのかもしれないね」


 そのくらいでちょうどいい。


 宮崎監督がナウシカの胸を大きく描いた理由?

 本人が言うには、人を安心して抱きとめられる胸にしたかったから。

 なるほど。

 宮崎駿は、大きな胸にそういうものを感じていたんだな。


 それで終わりでいいではないか。


 そして、それを趣味嗜好と言われたからといって、別に宮崎監督やその作品の価値が下がるわけでもない。


 むしろ「巨匠だから趣味嗜好なんてない」と考えるほうが、その人の個性を馬鹿にしているようにさえ思う。


 福沢翁も言っている。


 天は乳の上に乳をつくらず、乳の下に乳をつくらず。


 ……果実の記憶違いならごめんなさい。


 ただまあ、大きいから偉いわけでも、小さいから正しいわけでもない。


 宮崎監督がどちらに包容力を感じようが、それは宮崎監督の勝手である。


 偉人を勝手に神棚へ載せて、何を言っても「深い」「正しい」「さすが」と解釈する。そういう聖人化は、ほどほどにしたほうがいいのではないだろうか。


 たぶん本人だって、少しくらい迷惑がっているのでは? と果実は思うのである

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