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腐った果実の斜め下備忘録  作者: 腐った果実
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パワハラは、灰皿だけではない ――役者をやめろ、という言葉の重さについて

佐藤二朗さんと橋本愛さんの件について、少しだけ書いておきたいと思う。


最初に断っておくと、果実は現場にいたわけではない。

当事者でもない。

当然、何が起きたのかを断定する立場にもない。


なので、ここで誰かを裁くつもりはありません。


報道されている範囲で、

もし、そういうことがあったのなら、

それは何が問題だったのだろうか。


その程度の話です。


この件については、どうしても身体接触があったのか、なかったのか。

それは演技上必要だったのか。

橋本愛さん側の制限は現場に共有されていたのか。

フジテレビの管理はどうだったのか。


そういう話に目が向きます。


もちろん、それは大事です。

撮影現場で身体接触が発生するなら、事前の確認や共有は必要でしょう。

演技だから、作品のためだから、で何でも済ませていい時代ではない。


ただ、果実が引っかかったのは、そこだけではありません。


むしろ、より重いのは、

佐藤さんが橋本さん本人の楽屋に行き、

役者を続けるべきではない、という趣旨に受け取られかねない言葉を伝えたとされる点です。


これが、本当に言ってはいけない言葉だったのではないか。


そう思うのです。


ここで、たぶん世代差の問題が出てくる。


佐藤さん側には、

「人格否定をしたつもりはない」

「昭和のパワハラみたいに怒鳴ったわけではない」

「仕事論として伝えたつもりだった」

という感覚があったのかもしれません。


分からなくはない。


昭和パワハラというと、どうしても分かりやすい暴力を思い浮かべます。


バカ野郎。

死んじまえ。

下手くそ。

灰皿を投げる。

机を叩く。

怒鳴る。

胸ぐらをつかむ。


いかにもなやつです。


ああ、ありましたね。

そういう時代。

ありました、じゃねえよ、なんだけど。


でも、現代のハラスメントはそれだけではない。


穏やかな口調でも、

善意でも、

仕事論でも、

相手の人生の中心にあるものを否定すれば、それは深く刺さる。


役者にとっての役者性。

作家にとっての作家性。

漫画家にとっての漫画家性。

歌手にとっての歌。


それは単なる職業の肩書きではない。

その人の生き方そのものに近い。


だから、


「あなたは役者を続けるべきではない」


という言葉は、形式上は職業適性への意見だったとしても、

受け取る側にとっては、かなり人格否定に近い言葉になる。


いや、ほぼ急所です。


胸を刺さずに、

魂の方を刺している感じです。


もちろん、佐藤さんが役者という仕事に真剣だったことは疑っていません。

いい加減な気持ちで言ったわけではないのでしょう。

作品をよくしたい。

現場をよくしたい。

役者として、踏み込んで話すべきだ。


そう思ったのかもしれない。


でも、踏み込んではいけない場所もある。


たとえば、撮影上の身体接触について困惑があった。

演技設計に支障があった。

現場の共有が足りなかった。


そういう問題提起なら、必要だったのかもしれません。


でも、それは本人の楽屋に行って直接ぶつける話ではない。


制作側に言う。

自分の事務所を通す。

今後、同じ条件がある共演者との仕事は事前に検討したいと伝える。

現場での共有や段取りを改善してほしいと要望する。


そういう形で処理すべきだった。


本人に向かって、

しかも年長者で、先輩で、共演者である人が、

相手の職業継続に踏み込む言葉を言ってしまえば、

それは業務上の調整ではなく、圧力として受け取られても仕方がない。


ここを間違えると、たぶん話がこじれる。


「俺は怒鳴っていない」

「人格否定はしていない」

「仕事の話をしただけだ」


そういう問題ではないのです。


灰皿を投げなくても、パワハラは成立する。


パワハラは、灰皿だけではない。


たぶん、ここがこの件の一番厄介なところなのだと思います。


ただし。


この件を、単純に誰か一人が全面的に悪い話として処理するのも違う気がします。


佐藤さんは、悪意ある加害者としてこの場にいたわけではないのだと思う。

役者という仕事が好きで、よりよい作品を作りたいという熱量があったのでしょう。


橋本愛さんも、役者を軽く見ていたわけではないはずです。

苦しさや制限がありながら、それでも役者を続けたい。

そういう強い願いがあったのではないか。


制作側にも、現場管理や共有の問題はあったのでしょう。

とはいえ、後から説明しなければ憶測と誹謗中傷が広がる。

そういう難しい状況に置かれていたのかもしれません。


つまり、三者とも、それぞれの立場からは引けない。


佐藤さんは、

「悪意ある加害者ではない」

と言わざるを得ない。


橋本さん側は、

「あの発言は問題だった」

と言わざるを得ない。


制作側は、

「調査と対応は必要だった」

と言わざるを得ない。


そして、そこにマスコミが入り、

ネットが入り、

善悪の分かりやすい構図を作り、

みんなで消費する。


はい、いつもの地獄鍋です。


具材は人間。

出汁は憶測。

火力はSNS。


おいしくない。 すくなくとも果実は胸やけを起こします。


果実がこの件を見ていて一番切ないと思うのは、

たぶん、二人とも役者という仕事を軽く見ていないことです。


佐藤さんは、役者として、

もっと良いものを作るために踏み込むべきだと思ったのかもしれない。


橋本さんは、苦しい条件や制限を抱えながらも、

それでも役者をやりたいと願っていたのかもしれない。


これは、

仕事をなめている人と、

真剣な人の衝突ではない。


むしろ、どちらも仕事に真剣だったからこそ起きた、

不幸なすれ違いだったのではないか。


だからこそ、つらい。


橋本愛さんの表現には、以前から独特の硬さがあるように思う。


画面の中で、

ときどき、人を拒絶するような冷たさがある。

簡単には他人を入れないような空気がある。

無愛想というより、危うさや孤独感や緊張感として映る。


もちろん、それを本人の内面と直結させることはできません。

役者の表現と本人の人格を、雑に結びつけるのは危険です。


ただ、仮にそういう苦しさや制限や距離感のようなものがあったとしても、

それは役者に向いていない理由ではないと思うのです。


むしろ、その人にしか出せない表現の血肉になることがある。


傷があるから表現できるものがある。

違和感があるから立てる場所がある。

他人との距離があるから、画面の中に生まれる緊張がある。


それを、

「そういう人は役者に向いていない」

と切り捨てるのは、あまりに乱暴ではないでしょうか。


弱さや制限を抱えた役者がいるなら、

その人を排除するのではなく、

どうすれば安全に表現できるかを考える。


本来、現場とはそういう場所であってほしい。


もちろん、それは簡単ではない。

制作費も時間も限られている。

現場はきれいごとだけでは回らない。

演技には相手がいる。

役者一人の事情だけですべてを決められるわけでもない。


でも、だからといって、

その人の人生の中心にあるものを否定していい理由にはならない。


今回の件で考えるべきなのは、

誰かを燃やすことではない。


ハラスメントは怒鳴ることだけではない。

善意や熱意でも、人の人生の中心にあるものを否定すれば、深く傷つける。

現場の問題は、本人同士でぶつけ合うのではなく、制作や事務所を通して調整すべきである。

そして、制限や苦しさを抱えた役者がいるなら、それを排除するのではなく、どうすれば安全に表現できるかを考えるべきである。


たぶん、そういう話なのだと思います。


佐藤二朗さんも、

橋本愛さんも、

役者という仕事を大切にしている人なのだと思う。


だからこそ、この件が、

単なる炎上や対立として消費されて終わるのは、あまりに惜しい。


役者をやめろ。


その言葉は、たとえ仕事論のつもりでも、

相手の人生そのものを否定する刃になり得る。


その重さを、少なくとも私たちは忘れてはいけない。


外野が言えるのは、そのくらいです。


と、果実は思うのでした。


お し ま い

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