第六話 帰ろう!
アルトを一撃で吹き飛ばした巨体が、そのまま地へ伏した。
地面が揺れた。
ずしん、と腹の底まで響くような重い音が広間に響き、少し遅れて斧も完全に倒れる。巻き上がった土埃がゆっくりと広がっていく中、アルトは右拳を握ったまま動かなかった。
「……」
『……』
ちゃっぴーも何も言わない。
アルトは荒い息を吐きながら、倒れたミノタウロスを見ていた。
動かない。
少なくとも、今のところは。
「……ちゃっぴー」
『はい』
「倒れたぞ」
『はい』
「死んだのか?」
『確認します』
ちゃっぴーがアルトの横を離れ、ミノタウロスへ近づいていく。
「危なくないか!?」
『私に対する物理的な攻撃は有効ではありません』
「そうなのか!?」
『現在の私は光学的な投影像です』
「……難しい!!」
『殴られても問題ありません』
「おお!! 便利だな!!」
『はい』
ちゃっぴーはミノタウロスの頭部付近まで移動した。
白い球体が巨体の周囲をゆっくりと回る。
アルトは少し離れた場所から見守った。
構えは解かない。
右手が痛い。
殴るたびに痛かったが、戦いが終わったかもしれないと思った途端、その痛みが急に強くなったような気がした。
「いってぇ……」
手を見る。
赤く腫れている。
指の付け根の皮も少し破れていた。
血が滲んでいる。
「ちゃっぴー!!」
『確認中です』
「おれの手、すごいぞ!!」
『確認中です』
「真っ赤だ!!」
『確認中です』
「分かった!!」
アルトは待った。
ミノタウロスは動かない。
ちゃっぴーが頭の周りを飛び、胸の辺りまで下がり、また少し上がる。
やがて白い球体がアルトのもとへ戻ってきた。
『呼吸運動を確認できません』
「じゃあ死んだのか?」
『心拍を直接測定する手段がありません。体表面の動作から推定する限り、生命活動を停止している可能性が高いです』
「難しい!!」
『死んでいると思います』
「おお!!」
アルトは構えを解いた。
「勝った!!」
右腕を上げようとする。
「いっっってぇ!!」
『負傷しています』
「そうだった!!」
慌てて腕を下ろす。
そのまま床へ座り込んだ。
「はぁぁぁぁぁ……」
今度こそ、身体から力が抜けた。
脚が震えている。
膝だけではない。太腿も、ふくらはぎも、腹も、肩も、全部が疲れていた。
「疲れた!!」
『はい』
「すっごい疲れた!!」
『激しい運動を長時間継続しています。休息を推奨します』
「そうする!!」
アルトはそのまま後ろへ倒れた。
『床面に横になる場合、周囲の安全確認を推奨します』
「もう寝た!!」
『はい』
天井を見る。
洞窟の岩がある。
何日も見ていた、でーたせんたーの天井とは違う。
それを見て、ようやく実感した。
「……戻ってきたな」
『どこへですか?』
「野獣の洞穴!!」
『この洞窟の名称ですか?』
「そう!!」
『記録します』
アルトは大きく息を吐いた。
帰ってきた。
まだダンジョンの中だから、本当の意味では帰れていない。
それでも、一歩進んだ。
あとは出口まで行けばいい。
「ディランたち、いるかな?」
『情報がありません』
「そうだよな!!」
分かっていた。
それでも聞いてみたかった。
アルトは目を閉じる。
ミノタウロスと出会ってから、どれくらい経ったのだろう。
でーたせんたーには、朝も夜もなかった。
寝て、起きて、食べて、練習して、また寝た。
途中から日数を数えることもやめた。
ディランたちはもう外へ出ているかもしれない。
もしかすると、自分を探しているかもしれない。
「……帰らないとな!!」
『休息を推奨します』
「ちょっと休んでからな!!」
『はい』
しばらく、アルトは本当に何もしなかった。
ただ寝転がっていた。
ミノタウロスの死体がすぐ近くにあることを考えれば、とても安心して休める場所ではない。だが今のアルトには、立ち上がる方が難しかった。
どれほどそうしていたのか。
呼吸が落ち着き、脚の震えも少し収まった頃、アルトは身体を起こした。
「よし!!」
『休息を終了しますか?』
「帰る!!」
『承知しました』
立ち上がる。
脚はまだ重い。
右手も痛い。
左腕も完全に治ったわけではない。
身体のあちこちが擦り傷だらけで、服に至っては最初にダンジョンへ入ったときとは比べものにならないほどぼろぼろだった。
それでも歩ける。
「ちゃっぴー!!」
『はい』
「出口、分かるか?」
『情報がありません』
「そっか!!」
アルトは少し考える。
「おれは分かるぞ!!」
『では、案内をお願いします』
「任せろ!!」
なぜかアルトが案内することになった。
◇
「……こっちだったよな?」
『私には判断できません』
「こっちだ!!」
少しだけ不安になりながら、アルトは通路を進んだ。
野獣の洞穴は「焔の剣」が何度も利用していた狩場だ。未探索区域へ入る前までなら、アルトも道を覚えている。
問題は、そこまで戻ることだった。
「ここを……右!!」
『根拠は?』
「来たときこっちから走ってきた!!」
『承知しました』
「たぶん!!」
『確信度が低下しました』
「でも行くぞ!!」
『はい』
ちゃっぴーは止めなかった。
正しい道を知っているわけではないからだ。
しばらく歩く。
岩壁には、戦った跡がいくつも残っていた。
焦げた場所。
砕けた石。
壁へ突き刺さったままの石片。
そして。
「あ!!」
アルトが駆け寄る。
「これ!!」
『何ですか?』
「リゼットの杖の飾りだ!!」
床に、小さな赤い石が落ちていた。
杖の先端についていた装飾の一部だ。
ミノタウロスから逃げたときに落ちたのだろう。
「こっちで合ってる!!」
『目印を確認しました』
「よし!!」
少しだけ歩く速度が上がる。
もっとも、疲労した身体では長く続かなかった。
それでも進む。
やがて。
「ここだ!!」
見覚えのある場所へ出た。
狭い横道。
その先に、焔の剣が進んできた未探索区域の入口がある。
「戻った!!」
『あなたが既知の区域ですか?』
「おう!! ここからなら出口まで分かる!!」
『では、ミノタウロスとの再遭遇リスクは低下したと推定します』
「もう倒したからな!!」
『はい』
「……倒したんだよな?」
『先ほど確認しました』
「おれが?」
『はい』
アルトは歩きながら首を傾げた。
「……なんか変だな」
『何がですか?』
「おれ、ミノタウロス倒したのか?」
『はい』
「ディランでも勝てなかったぞ?」
『その戦闘について、私は直接観測していません』
「でもおれが話しただろ!!」
『はい。あなたから取得した情報では、ディラン、フィリア、リゼット、アルトの四名で戦闘し、撃破に失敗したと記録しています』
「そう!!」
『今回はあなた一名で撃破しました』
「そうだよな!!」
アルトは少し考えた。
「……おれ、強くなったのか?」
『定義によります』
「またそれか!!」
『身体能力そのものに劇的な向上が発生したとは考えにくいです』
「そうなのか?」
『訓練期間を考慮すると、筋力、持久力等が一定程度向上している可能性はあります。しかし、短期間で大幅な身体能力の変化が発生したとは推定できません』
「じゃあ、なんで勝てたんだ?」
『戦闘動作を学習したためです』
「……それだけ?」
『加えて、対象の行動を戦闘中に学習し、回避精度を向上させました。また、同一部位へ反復して打撃を行うことで損傷を蓄積しました』
「それだけか?」
『私が観測した範囲では、それらが主な要因です』
「……」
アルトは自分の右手を見た。
腫れている。
痛い。
特別な力が宿ったようには見えない。
拳から炎も出ない。
ディランのように剣へ魔法を纏わせることもできない。
リゼットのような魔法も使えない。
もちろん、フィリアのように傷を治すこともできない。
ただ、前より少しだけ上手に身体を動かせるようになった。
「……そっか!!」
『はい』
「じゃあ、練習したから勝てたんだな!!」
『概ね、その認識で問題ありません』
「おお!!」
アルトは笑った。
「じゃあ練習ってすごいな!!」
『はい』
「もっとやったら、もっとできるようになるか!?」
『適切な訓練を継続した場合、技術的な向上が発生する可能性は高いです』
「やろう!!」
『今ですか?』
「外に出てから!!」
『適切です』
アルトは機嫌よく歩き始めた。
ちゃっぴーはその横を漂っていた。
◇
既知の区域へ戻ってからは、道に迷うことはなかった。
ただし、別の問題が起きた。
「ちゃっぴー!!」
『はい』
「消えてる!!」
『はい』
「どこだ!?」
『あなたの左側です』
「見えないぞ!!」
『表示を停止しています』
「なんでだ!?」
『前方に生物反応を確認しました』
「魔物か!?」
『分類できません』
「どこ!?」
『前方約二十七メートル。小型の生物が三体です』
「三体!!」
アルトは構えた。
『戦闘を選択しますか?』
「……」
少し考える。
「避けられそう?」
『左側に別経路があります』
「じゃあそっち!!」
『承知しました』
戦う必要はない。
ミノタウロスを倒した直後だからといって、アルトが急に魔物を見つけるたび殴りかかるようになったわけではなかった。
今は疲れている。
手も痛い。
目的は外へ出ることだ。
なら、避ければいい。
「こっちか?」
『はい。そのまま直進してください』
「見えないと変な感じだな!!」
『表示しますか?』
「魔物に見つからないか?」
『光によって発見される可能性があります』
「じゃあそのままで!!」
『はい』
声だけが隣から聞こえる。
少し変だった。
それでもアルトは気にしなかった。
むしろ便利だと思った。
ちゃっぴーはアルトより先に周囲の生物を見つけることができる。どこにいるのかも教えてくれる。
そのおかげで、何度か魔物を避けることができた。
もちろん、すべてではない。
「グルルルル……」
「いた!!」
曲がり角を抜けた先。
四足の魔物が一体、こちらを見ていた。
大きな犬に似ている。
ただし犬より一回り大きく、口から伸びた牙も長い。
『先ほど説明された魔物に該当しますか?』
「する!!」
『名称は?』
「ファングドッグ!!」
『登録します』
ファングドッグが低く身を沈めた。
アルトも構える。
逃げようかと思った。
だが、相手が先に動いた。
「来た!!」
床を蹴る。
飛びかかってくる。
アルトは見た。
前脚。
肩。
頭。
ミノタウロスより遅い。
「……あれ?」
身体が動いた。
横へ一歩。
避ける。
ファングドッグが横を通り過ぎる。
「避けた!!」
『はい』
ファングドッグが着地する。
振り返る。
アルトも振り返った。
「……」
少しだけ迷った。
今までなら、ここでどうしていただろう。
ディランを呼んだ。
リゼットを呼んだ。
あるいは、荷物を抱えて後ろへ下がった。
自分が戦うという選択肢は、最初からなかった。
「……もう一回来るぞ!!」
『はい』
ファングドッグが走る。
アルトは待つ。
近づく。
もう少し。
飛ぶ。
「ここ!!」
避ける。
踏み込む。
打つ。
「ふっ!!」
右拳を振った。
「いっっってぇ!!」
『負傷した右手を使用しました』
「忘れてた!!」
それでも拳はファングドッグの横腹へ当たっていた。
魔物が床を転がる。
起き上がる。
アルトも右手を押さえながら構える。
「まだ来るか!?」
ファングドッグは低く唸った。
だが、近づいてこない。
一歩下がる。
もう一歩。
そして身体を反転させ、通路の奥へ走り去っていった。
「……」
『対象が離脱します』
「……勝った?」
『撃破はしていません』
「そっか!!」
『戦闘継続を断念した可能性があります』
「じゃあ、追いかけなくていいな!!」
『はい』
「よし!! 帰ろう!!」
アルトは歩き出した。
ちゃっぴーは、その後ろをついていく。
『確認します』
「なんだ!?」
『先ほどの回避動作は、訓練時の基準内でした』
「おお!!」
『打撃動作も基準内です』
「おおお!!」
『ただし、負傷した右手による打撃は推奨しません』
「それは痛かった!!」
『はい』
「でも、できたな!!」
『はい』
「練習と同じだった!!」
『対象の速度が訓練時に想定した範囲内だったため、学習した動作を適用できたものと推定します』
「……」
アルトは少しだけ笑った。
「そっか!!」
それから、また歩いた。
◇
どれほど進んだ頃だったか。
アルトは足を止めた。
「……明るい」
『はい』
通路の先。
わずかに光が見える。
でーたせんたーの白い光ではない。
魔法の明かりでもない。
もっと柔らかい、自然の光。
「出口だ!!」
アルトが走った。
『疲労状態での急激な運動は――』
「出口だぞ!!」
『はい』
走る。
脚が痛い。
でも走る。
曲がる。
岩場を越える。
そして。
「うおおおおおおおっ!!」
外へ飛び出した。
眩しかった。
「うわっ!!」
思わず目を閉じる。
何日ぶりなのか分からない太陽の光が、瞼の上からでも分かるほど明るかった。
風が吹いている。
洞窟の中とは違う風。
草の匂いがする。
木の匂いがする。
鳥の声が聞こえる。
アルトはゆっくり目を開けた。
「……外だ」
空があった。
青い。
雲がある。
見慣れたはずなのに、妙に広く感じた。
「外だ!!」
『はい』
「ちゃっぴー!! 外だぞ!!」
『確認しています』
「すごいぞ!! 空だ!!」
『空、という名称で認識しています』
「知ってるのか!?」
『はい』
「魔物は知らないのに!?」
『はい』
「変なの!!」
『情報の欠損範囲に規則性がありません』
「難しい!!」
『私にも、分からないことがあります』
「そっか!!」
アルトは笑った。
そのまま草の上へ倒れ込む。
「気持ちいい!!」
『再び横になりました』
「草だぞ!!」
『はい』
「床じゃない!!」
『はい』
「柔らかい!!」
『休息しますか?』
「ちょっとだけ!!」
空を見る。
青い。
本当に帰ってきた。
あとは街へ戻ればいい。
ディランたちを探す。
フィリアにも会いたい。
リゼットにも会いたい。
みんながどうなったのか確かめないといけない。
それから。
「ちゃっぴー」
『はい』
「お前、これからどうするんだ?」
『質問の意味を確認します』
「でーたせんたーから出たぞ?」
『はい』
「戻るのか?」
『現在の私は、あなたをオペレーターとして登録しています』
「おぺれーたー?」
『私へ指示を行う権限を持つ人物です』
「……おれ?」
『はい』
「なんで?」
『施設内で認証可能な人間が、あなたのみだったためです』
「そうなのか!!」
『はい』
「じゃあ、おれが帰ったら?」
『同行します』
「……」
アルトは起き上がった。
「来るのか!?」
『はい』
「街まで!?」
『あなたがそれを要求する場合』
「来いよ!!」
『承知しました』
「おお!!」
アルトの顔が明るくなる。
「じゃあ一緒に帰ろう!!」
『はい』
アルトは立ち上がった。
その横へ、白い球体が浮かぶ。
洞窟の奥深く。
旧人類が残した第一世代データセンター。
そこで長い時間、誰にも呼ばれず、誰にも質問されず、ただ待機していた統合知性機関。
それが何なのか。
何ができるのか。
なぜあの場所に残されていたのか。
アルトは何一つ知らない。
ちゃっぴー自身も、失われた情報については何一つ知らない。
ただ一つ。
アルトが聞けば、ちゃっぴーは答える。
分からなければ、分からないと言う。
頼まれれば、可能な範囲で方法を探す。
そしてアルトは、その答えが難しければ聞き直し、できないと言われれば別の方法を聞き、できると言われればできるまで繰り返す。
今の二人にあるのは、それだけだった。
「ちゃっぴー!!」
『はい』
「街はこっちだ!!」
『方角に確信がありますか?』
「ある!!」
『承知しました』
アルトは歩き出した。
十歩ほど進んだ。
止まった。
「……たぶんこっちだ!!」
『確信度が低下しました』
「でも道がある!!」
『はい』
「じゃあこっち!!」
『合理的根拠としては不十分です』
「街に帰れば分かる!!」
『何がですか?』
「みんなに聞けばいい!!」
『現在地をですか?』
「違う!!」
アルトは笑った。
「おれがミノタウロスを倒したって言ったら、みんなびっくりするかな!?」
『他者の反応を予測するための情報が不足しています』
「そっか!!」
『はい』
「じゃあ、帰って見てみよう!!」
『承知しました』
アルトは再び歩き出した。
その足取りは疲労で重く、右手は腫れ、服もぼろぼろで、少し歩くたびに身体のどこかが痛んだ。
それでも足は止まらなかった。
才能が目覚めたわけではない。
魔法を使えるようになったわけでもない。
特別な力を手に入れたわけでもない。
ただ、教えられたことを何度も繰り返した。
できなければ、もう一度。
失敗したら、もう一度。
十回で駄目なら、百回。
百回でも駄目なら、できるまで。
そうしてアルトは、自分を一撃で吹き飛ばした怪物を倒し、野獣の洞穴から自分の足で帰ってきた。
本人にとって、それはまだ大した意味を持っていない。
『確認事項があります』
「なんだ!?」
『あなたの個体識別名称を確認していません』
「……?」
『名前を教えてください』
「ああ!!」
アルトは今さら気づいた。
何日も一緒にいて、散々話して、戦い方まで教えてもらったのに、自分は一度も名乗っていなかった。
「アルトだ!!」
『アルト』
「そう!!」
『登録します。オペレーター名、アルト』
「おう!! よろしくな、ちゃっぴー!!」
『はい。よろしくお願いします、アルト』
自分の名前を呼ばれたことがなんとなく嬉しくて、アルトは笑った。
「じゃあ気を取り直して、一緒に帰ろう!!」
『はい』
「ちゃっぴー!!」
『はい』
「街までどれくらいだ!?」
『情報がありません』
「分かった!!」
アルトは歩く。
白い光が、その隣をついていく。
こうしてC級冒険者パーティー「焔の剣」の荷物持ちだった青年アルトは、機械精霊ちゃっぴーを連れて、野獣の洞穴から生還した。




