第9話 百回やれば勝てるのか
「私が……同じ課題を百回練習すれば、フェリシア様に勝てますか?」
静まり返った個別訓練室に、私の絞り出すような声が響いた。
ユリウス教官は、私の切実な問いに対してすぐには口を開かなかった。
冷たい沈黙が落ちる。私はすがるような思いで、教官の言葉を待っていた。「勝てる」と言ってほしかった。泥臭く努力しさえすれば、あの絶望的な才能の差をいつか埋められるのだと、誰かに保証してほしかった。婚約を破棄され、実務能力がないと見限られた私には、その無責任な希望の光が必要だったのだ。
やがて、教官は静かに首を振った。
「勝てるとは限らない」
その声は平坦で、容赦のない事実だけを告げていた。
「才能や適性というものは、残酷なまでに存在する。君が百回練習してようやくできるようになることを、フェリシア・オルブライトは三回で習得するかもしれない。そして、君が一つの課題に百回を費やしている間に、彼女もまた別の課題に百回を費やす。同じ方法で、すべてにおいて彼女と競い合えば、差は開く一方だろう」
教官の言葉は、私の胸の奥に淡く芽生えていた期待を根こそぎ粉砕した。
百回やっても勝てない。だったら、私が今、失敗記録帳をつけて惨めな思いをしながら反復しているこの努力は、一体何になるのだろう。結局、上には届かない。アルベルトに見限られた時と同じように、私は能力の劣る無価値な人間のままなのではないか。
目の前が真っ暗になり、膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪えた。
「……なら、私は、どうすればいいんですか。頑張っても勝てないなら、意味なんて……」
「フェリシア・オルブライトと同じ方法、同じ強みで勝つ必要があるのか?」
教官は私の絶望を否定も肯定もせず、ただ一つの問いだけを返してきた。
「え……?」
「彼女が強い領域に、正面から同じ武器を持って挑むことだけが、勝負のすべてか。それを考えろ」
教官はそれ以上答えを与えず、本日の訓練の終了を告げた。
翌日の放課後。私は調べ物のために学院の図書室の奥へ向かった。
静寂に包まれた閲覧席で、見覚えのある銀糸の髪がランプの光に照らされていた。フェリシア様だった。
彼女の机の上には、領地法や過去の判例に関する分厚い専門書が山のように積まれている。彼女は眉間に微かな皺を寄せながら、猛烈な速度でページをめくり、何事かをノートに書き写していた。
昨日、実技試験の直後に教員から「過去の判例についてご指導いただきたい」と口にしていたのを思い出す。彼女はそれを口先だけで終わらせず、すぐさま自らの知識にするための行動へ移していたのだ。
天才と呼ばれる彼女ですら、人知れずあのような努力を積んでいる。
私は書架の陰からその姿を見つめ、静かに息を吐き出した。フェリシア様を妬む気持ちすら湧かなかった。彼女は純粋に優れていて、そのうえで誰よりも的確な努力をしている。彼女が首席候補にいることは、世界が公正であることの証明でしかなかった。
夜、自室の机で、私は自分の失敗記録帳を開いた。
三十七個の失敗が並んだ最初のページ。そこには、いくつか斜線が引かれている。『相手の顔を見る前に視線を落とす』『三秒以上沈黙する』。それらは、私が地道な反復の末に、なんとか「しない」ようにできるようになった項目だ。
昨日の掲示板の、百四位という数字を思い出す。
努力しても、フェリシア様には一生勝てないかもしれない。学院のトップにはなれない。でも、私は百二十七位だった頃の私ではなくなっている。
「何もできない」と怯えていた私が、少なくとも一つずつ、直せる失敗を直してきた。その事実は、誰が何と言おうと、私自身が手に入れたものだ。
私はペンを握った。
すべての分野でフェリシア様に勝とうとするから、どうしようもない才能の差に絶望するのだ。彼女には彼女の戦い方がある。なら、私にも私の戦い方があるはずだ。
失敗を分解し、一つずつ直す。それは途方もなく時間がかかる作業だけれど、不測の事態でつまずいた時、「どうやって原因を見つけて立て直せばいいか」を知っているのは、何度も失敗を経験した私の方かもしれない。
自分の強みが何なのか、今はまだはっきりとは分からない。けれど、あの夜、王宮の暗い庭園で誓ったのだ。「自分の未来を他人に決められたままにはしない」と。ここで競争から降りてしまえば、私はまた他人の評価にひれ伏すことになる。
翌日の放課後。個別訓練室。
「フェリシア様と同じ方法で、すべてに勝とうとするのはやめます」
長机を挟んで向かい合うユリウス教官に対して、私は真っ直ぐに顔を上げて言った。
「あの方は凄いです。私が百回かけても届かない場所へ行ける人です。……でも、だからといって、私が最初から負けを認めるのも違います」
私は手元の失敗記録帳を両手でしっかりと押さえた。
「私は私なりに、昨日の自分に勝ちながら……いつか、私が勝負できる領域を探します。競争を捨てるつもりはありません」
教官は微かに目を細め、静かに頷いた。
「精神論で『努力は必ず報われる』などと嘘を吐くつもりは最初からなかった。だが、君が現実の差に潰れて競争そのものを放棄するなら、そこまでだと思っていた」
教官の声には、ほんのわずかだけ、安堵のような響きが混じっていた気がした。
「君が自分で目標の折り合いをつけたのなら、それでいい。フェリシア・オルブライトと同じ武器を持つ必要はない」
教官は立ち上がり、黒板の前に立った。
「では、次なる課題だ。来週行われるのは、舞踏試験だ」
「舞踏、ですか? 礼法の一環としての……?」
「ただ美しく踊るだけなら、花嫁学校と変わらない。当学院の舞踏試験は、複合処理の場だ」
教官は黒板に『舞踏』『家系情報』『会話の意図』とチョークで書き出した。
「ステップを踏みながら、相手の家系の情報を引き出し、会話に潜む意図を読み取り、なおかつ完璧な礼法と笑顔を維持する。複数の情報を同時に処理する強い負荷がかかる」
私は思わず息を呑んだ。一つの作業をこなすだけでも処理が遅れる私にとって、同時並行は最も苦手とする分野だ。
「これまでの単一の実務とは次元が違う。徹底的な反復で、思考の前に身体を動かせる状態へ叩き込む必要があるが……」
教官は言葉を区切り、少しだけ眉根を寄せた。
「この複合課題は、相手役の技量が結果を大きく左右する。未熟な生徒同士で組ませても、会話とステップの負荷が釣り合わず、君にとって適切な訓練にならない。君の遅い処理速度を引き上げるには、状況を制御しつつ強い負荷をかけられる相手が必要だ」
「それなら、どなたか上級生の方に……」
「実務経験のある適任者が生徒の中にはいない。また、私は推薦者という立場上、他の教員に君個人の訓練相手を頼むわけにもいかない」
教官はチョークを置き、私に向き直った。
「仕方ない。この課題の訓練に限り、私が君の相手役を務める」




