第10話 舞踏と三つの会話
放課後の個別訓練室には、長机や椅子が壁際へと寄せられ、中央にぽっかりと広い空間が作られていた。
部屋の隅に置かれた年代物の魔石蓄音機から、優雅な三拍子のワルツが流れ出す。
フロアの中央で、私はひどく緊張した面持ちのまま、目の前に立つ長身の男性を見上げていた。
「いいか。今回の舞踏試験は、ただ音楽に合わせて美しく踊るためのものではない」
ユリウス教官は、いつもと変わらない実務的な声で告げた。
「ステップを踏みながら、相手から提示された家系や領地の情報を記憶する。同時に、相手の会話に潜む意図を読み取り、適切な返答を返す。もちろん、その間も礼法と笑顔を完璧に保つこと。これが本番で求められる複合課題だ」
「……はい」
「相手役の技量が不足していれば、適切な負荷がかからない。だから、この訓練に限り私が相手をする。手を」
教官が右手を差し出してくる。
私は小さく息を吸い込み、恐る恐るその手をとった。私の右手が教官の大きな左手に包まれ、私の左手は彼の肩口に置かれる。教官の右手が私の背中に軽く添えられた。
他者の体温と、微かに漂うインクと紙のような匂い。
物理的な距離の近さに、一瞬だけ心臓が跳ねた。婚約者だったアルベルトとすら、公式な夜会以外でこんなに近くで踊ったことはない。
だが、教官の瞳には私を女性として意識するような色は微塵もなく、ただ冷徹に「生徒の処理能力」を測る評価者の光だけが宿っていた。私も慌てて雑念を振り払い、音楽のテンポに意識を集中させた。
「始めるぞ」
教官のリードで、ステップが始まる。
彼の動きは一切の無駄がなく、私が少しでも足をもつれさせそうになると、背中に添えられた手でわずかに重心を誘導し、転倒を防いでくれた。
「私は東部の男爵家、次男だ。最近、領地で新しい鉱脈が発見され、王都にその販路を探しに来た」
ステップを踏みながら、教官が架空の設定をすらすらと読み上げていく。
東部の男爵家。次男。新しい鉱脈。販路の拡大。
頭の中に情報を叩き込みながら、私は必死に足元を動かした。ワン、ツー、スリー。
「さて、ハルフォード嬢。君の家は西方だったな。あちらの商業ギルドの動向について、何か耳にしていないか?」
「ええと……西方の、商業ギルド、ですか。ええ、最近は……」
言葉を探そうとした瞬間、足元のリズムがおろそかになる。
「視線が落ちている。顔を上げろ」
鋭い指摘が飛び、私はビクッと顔を上げた。
相手の顔を見る。姿勢を正す。笑顔を作る。
その三つを意識した途端、今度は教官が直前に言った『東部の男爵家』という設定が頭から抜け落ちた。
「その……西方のギルドは、ええと……鉱脈の、お話でしたか?」
「質問の意図を履違えている。私は西方の動向を聞いた」
焦りが全身を駆け巡る。一つを意識すれば、別の二つが崩れる。頭の中でいくつもの歯車が同時に逆回転を始めたようなパニック。
私は混乱し、ステップのタイミングを致命的に間違えた。
「あっ」
私の硬いヒールが、教官の革靴を思い切り踏みつけてしまった。
「も、申し訳ありません!」
私は完全に足をとめ、顔面を蒼白にして教官から離れようとした。
失敗した。完全にすべてを崩してしまった。
アルベルトなら、ここで深いため息をついただろう。「君の処理速度では、これ以上の反復は時間の無駄だ」と冷たく告げ、さっさと自分で事態を収拾して終わらせていたはずだ。結果を出せない人間に投資する時間は、彼にとって無意味だったからだ。
だが。
「止まるな」
ユリウス教官は、顔色一つ変えずに私の背中を支えたまま、音楽のリズムを刻み続けていた。
「足を踏んだ謝罪は後でいい。今は私が投げた質問に対する返答の途中だ。続けろ」
「え……でも、お足を……」
「私の足がどうなったかは、今の君の課題には関係ない。視線を上げて、会話を繋げ」
怒声でも、呆れ声でもなかった。
ただ、事実として「まだ訓練は終わっていない」と告げているだけだった。
私は教官の顔を見上げた。彼の瞳は、何度失敗しようとも、決して私という人間を見限りはしなかった。
その瞬間、凍りついていた私の胸の奥に、不思議な温かさが広がっていくのを感じた。
この人の前では、失敗しても大丈夫なのだ。
もちろん、失敗すれば厳しく指摘される。点数も引かれる。でも、私が一度足を踏んだからといって、課題の途中で「君には無理だ」と見捨てられたりはしない。私が自分で立て直すまで、彼は何度でもこの場に留まり、待ってくれる。
それは、ただの親切や甘やかしではない。実務の教官としての、揺るぎない責任感の表れだ。
それでも私にとっては、その絶対に終わらない安心感が、何よりも特別で、心地よかった。
「……西方の商業ギルドの動向、ですね。申し訳ありません、私個人の耳には入っておりませんが、後ほど我が家の家令に確認をとり、お伝えすることは可能です」
私は顔を上げ、なんとか会話の体裁を取り繕った。
「よろしい。だが、回答までに五秒かかった。実戦なら相手は別の令嬢に話しかけている。次」
教官はわずかに頷くと、すぐに次の設定を投げかけてきた。
音楽が続く中、訓練はさらに負荷を上げていく。
「私は北部の伯爵家。長男だ。君の婚約破棄の噂を聞いて、うちの愚息の嫁にどうかと考えて声をかけた」
突然放り込まれた爆弾のような設定に、私は息を呑んだ。
以前の訓練で学んだ分類。これは純粋な『情報収集』か、それともこちらの傷をえぐる『悪意』か。
「……恐れ入ります。私のような者に目を留めていただき、光栄です」
「謙遜はいらない。で、実際のところ、グレイヴ家からの慰謝料はどの程度出たんだ? うちの支援が必要なほど実家は傾いているのか?」
露骨な探り。意図は明確な『情報収集』と、優位に立つための『場の支配』だ。
頭の中で情報を処理しようとする。だが、教官のステップが不意に複雑なターンへと変化した。
身体の動きと、脳内の処理が完全に追いつかなくなる。
「あ……慰謝料は……」
足が大きくもつれた。先ほどのように踏む程度ではなく、完全にバランスを崩し、教官の腕の中で倒れそうになる。
まずい、止まる。また、全部終わってしまう。
頭の中が真っ白に染まりかけた。これまでは、ここで教官が「どうする」と声をかけ、私がそれに答える形で復帰していた。
だが、今回は違った。
教官の唇が動くよりもほんのわずかに早く、私の脳裏に失敗記録帳の項目が閃いた。
『パニックになった時、すべてを同時に直そうとしない』
私は、倒れかけた体勢を、教官の腕の力に頼らず自分の腹筋を使って無理やり立て直した。
ステップはもう合っていない。だが、今は足を捨てる。
顔を上げ、視線を教官の瞳に固定する。そして、最も重要な「会話の継続」だけに全神経を集中させた。
「……当家とグレイヴ家の間の取り決めにつきましては、正式な手続きを経て完了しております。実家の財政に関して、他家からのご支援を急ぎ仰ぐような状況にはございませんわ」
音楽のリズムからは完全に外れていた。不格好極まりない体勢だった。
それでも、私は沈黙することなく、相手の探りを躱す回答を最後まで言い切った。
教官は私の足の動きが止まったことに合わせて、自然な動作でステップを収束させ、静かに立ち止まった。
部屋に響いていた蓄音機の音楽だけが、虚しくフロアを回っている。
私は肩で息をしながら、教官の次の言葉を待った。足を止めてしまったのだから、当然厳しい指摘が飛んでくるはずだ。
教官は私からそっと手を離し、わずかに目を伏せた。
「……足は完全に止まっていたな。礼法としても減点だ」
「はい……」
「だが」
教官は再び顔を上げ、私を真っ直ぐに見た。
「私が口を挟む前に、自分で優先順位をつけ、会話の継続だけは死守した。完全に崩れ落ちる前に、自力で戻ったな」
それは、大げさな称賛ではなかった。ただの事実の確認。
けれど、その短い言葉の中には、私が確実に成長していることへの確かな評価が含まれていた。
「はい……っ」
私は胸の奥が熱くなるのを感じながら、深く頷いた。
教官のこの静かな肯定をもらえるだけで、何十回失敗した惨めさもすべて報われるような気がした。自分がそんな風に感じていることに、私自身が少しだけ戸惑うほどだった。
「本日の訓練はここまでとする。少しは複合処理に慣れたようだが、油断はするな」
教官は蓄音機の針を上げ、音楽を止めた。
「来週の本番、相手役は私ではない。ランダムに選ばれた生徒、あるいは他の教員が務めることになる」
「はい。存じております」
「そして、もう一つ。本番では、事前には知らされていない『予想外の条件』が、踊りの最中に必ず追加される。それが何なのかは、相手役しか知らない」
私は息を呑んだ。
「予想外の条件、ですか……?」
「そうだ。今日のように、私が君の失敗を待ってやるような状況にはならない。相手は君を落とすために、容赦なく想定外の情報を投げ込んでくる」
教官の言葉に、私は先ほどまでの達成感が一気に引き締まるのを感じた。
練習通りにはいかない。
本番のフロアには、私を見守ってくれるこの教官の絶対的な安心感は存在しないのだ。
私はギュッと両手を握りしめ、来るべき試練に向けて、小さく、けれど深く息を吐き出した。




