第11話 転んでも試験は終わらない
大広間に華やかな管弦楽が鳴り響いていた。
本日の複合舞踏試験。私たちが相手役とするのは、外部から招集された若手の貴族や官僚たちだった。
私の前に立ったのは、灰色の髪を撫で付けた細身の青年だった。曲が始まる前、彼は短く「北部の男爵家出身で、現在は法務院の書記官を務めている」と名乗った。
ワルツの三拍子が流れ出し、私は彼の手を取ってステップを踏み始めた。
頭の中で情報を整理する。北部の男爵家。法務院。
「ハルフォード嬢。アウレリア学院での日々はいかがですか。我々法務院でも、学院の卒業生は優秀な実務官として重宝しておりますよ」
「身に余るお言葉です。諸先輩方に恥じぬよう、日々学びに励んでおりますわ」
礼法に則った笑顔を浮かべ、ステップを合わせながら応じる。
ここまでは、訓練でやってきたことだ。処理が遅い私でも、一つ一つの情報を順番に引き出せばなんとか対応できる。
だが、ユリウス教官は言っていた。『事前には知らされていない予想外の条件が、必ず追加される』と。
曲の中盤。優雅なワルツのテンポが、突如として変拍子の速いリズムへと切り替わった。
「おっと、曲調が変わりましたね」
相手役の青年が、ステップの速度を急激に上げた。同時に、彼の声のトーンが社交辞令から実務的な鋭さへと変わった。
「ところでハルフォード嬢。先日の法務院の決定で、西方領土の関税が引き上げられたのはご存知ですか? あなたの実家であるハルフォード領の財政にも、小さくない打撃があるはずですが。実家の状況をどう分析されていますか?」
足元の複雑なリズム。法務院という所属から来る専門的な問い。さらに、実家の財政という焦りを誘う話題。
三つの強い負荷が、一斉に私の許容量をオーバーフローさせた。
「え……? 西方の関税、は……」
頭の中で情報を繋ぎ合わせようとした瞬間、足元の意識が完全に飛んだ。
変拍子のステップについていけず、私の右足が自分のドレスの裾を強く踏みつけた。
「あっ――」
バランスが大きく崩れる。私は咄嗟に相手役の腕にしがみついてしまい、彼ごと巻き込んでフロアの上で無様に体勢を崩した。
音楽が、遠のいていくような気がした。
失敗した。完全に崩れた。
周囲で踊っている他の生徒たちが、驚いてこちらを見ているのが分かった。視界の隅で、採点教員が冷酷にペンを動かしている。
以前の私なら、ここで終わっていた。顔を真っ赤にして俯き、どうすればいいか分からずに涙をこらえ、試験の残り時間をただ立ち尽くしてやり過ごしていただろう。アルベルトに婚約を解消された時のように、すべてを諦めて。
『パニックになった時、すべてを同時に直そうとしない』
不意に、失敗記録帳のページが脳裏に閃いた。個別訓練室で、ユリウス教官が根気強く付き合ってくれた反復練習の記憶。
そうだ。ミスそのものをなかったことにはできない。足運びの減点はすでに確定している。
なら、次に守るべき優先順位は何だ?
私は、相手役の腕から即座に手を離し、自分の腹筋に力を込めて姿勢を立て直した。
「……失礼いたしました。お見苦しいところを」
視線を床に落とさず、青年の顔を真っ直ぐに見据えて簡潔に謝罪する。
「いえ……」
青年が少し驚いたように瞬きをしたその隙に、私は乱れたドレスの裾を直し、再び彼に向けて手を差し出した。
「申し訳ありません、先ほどのお話の続きですが」
私は強引に、会話の主導権を握り直した。
「関税の引き上げについては存じております。当領地は現在、農産物の独自加工による付加価値向上を進めており、影響は想定の範囲内に収まると認識しておりますわ」
それは、父から手紙で聞いたことのある領地経営の受け売りだった。専門的な反論としては不十分かもしれない。
それでも、私は沈黙しなかった。
音楽はまだ鳴っている。私は引きつりそうになる頬の筋肉を無理やり動かして笑顔を作り、青年と再びステップを合わせ、曲の終わりまで一度も視線を外さずに踊りきった。
全生徒の実技が終了し、広間の前方に担当教員が立った。
「本日の複合舞踏試験の講評を行います」
教員は手元の記録簿を開いた。
「まず、オルブライト嬢。ステップの精度、相手から引き出した情報量、会話の主導権、どれをとっても完璧でした。総合得点において文句なしの首位です」
フェリシア様が優雅に一礼する。やはり彼女は天才で、私など足元にも及ばない。
「次に、ローゼンベルク嬢も高い水準で課題を完遂しました。若干、相手の問いに対する返答が硬かったものの、総合的には大変優秀です」
エルザ様も誇らしげに胸を張る。
私は自分の順位が下位に沈むことを覚悟して、小さく息を吐いた。あれだけ派手に体勢を崩したのだから、当然だ。
「最後に、ハルフォード嬢」
不意に名前を呼ばれ、私はビクッと肩を揺らした。
「あなたは曲調の変化に対応できず、足運びを大きく乱しました。相手に接触した点も含め、舞踏技術と礼法の項目では大幅な減点となります。総合点も、平均には届きません」
広間の一部から、微かな冷笑が漏れた。エルザ様も「当然ですわ」と言わんばかりの冷ややかな視線を向けている。
「ですが」
教員の言葉が、予想外のトーンで続いた。
「『不測の事態からの復帰』という評価項目においてのみ、あなたは本日の受験者の中で最高点を獲得しました。この項目に限り、オルブライト嬢やローゼンベルク嬢をも上回っています」
ざわっ、と生徒たちの間にどよめきが走った。エルザ様が信じられないというように教員を睨みつける。
「お待ちください、教官! あのような大きなミスをした生徒が、どうして私より高い評価項目を持てるのですか?」
「実務の現場において、予定外の事故や自身のミスが起きないことなどあり得ないからです」
教員は、エルザ様の抗議を冷静に退けた。
「ハルフォード嬢は大きく体勢を崩しました。しかし、三秒以内に自力で姿勢を戻し、相手への視線を外さず、謝罪を済ませて即座に元の会話へと復帰した。パニックによる連鎖崩壊を食い止め、残りの任務を完遂した。その『立て直しの速度と正確さ』を評価したのです。ミスをしないことは重要ですが、ミスをした後にどう戻るかも、同じかそれ以上に重要な実務能力です」
私は、呆然として教員の言葉を聞いていた。
失敗しなかったから評価されたわけではない。失敗を華麗な機転で誤魔化せたわけでもない。
私が評価されたのは、ただ「転んだ後に、泣かずに立ち上がったこと」だけだった。
あの三十七個の失敗リストに向き合い、個別訓練室で何度も繰り返してきた反復。それは、私を完璧な令嬢にするためのものではなく、「失敗しても次の一手を選べる人間」にするためのものだったのだ。
天才であるフェリシア様に総合点で勝つことはできなくても、「崩れた後、そこから戻る力」であれば、私は上位の生徒とも戦えるかもしれない。自分が勝負できるかもしれない小さな武器の輪郭が、初めて手のひらに触れたような気がした。
広間の隅に視線を巡らせると、壁際にユリウス教官が立っていた。
彼は今回の採点には一切関与していない。ただ、私の実技を遠くから見守っていただけだ。
私と視線が合うと、教官は大げさに頷くことも、微笑むこともなかった。ただ、ほんのわずかに顎を引き、小さく息を吐いたように見えた。
甘い称賛なんていらない。あの短い反応だけで、教官が私の「立て直した過程」を正確に見ていてくれたことが十分に伝わってきた。それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
試験が解散となり、生徒たちが三々五々、広間から退出していく。
私が自分の荷物をまとめ、使い込まれた失敗記録帳を手に取った時だった。
「あの……ハルフォードさん」
背後から、おずおずとした声を引き止められた。
振り返ると、私と同じように総合順位の下位で苦しんでいる、小柄な令嬢がもじもじと立っていた。彼女も今日の試験で大きなミスをして、最後まで立ち直れなかった生徒の一人だった。
「その……あなたがいつも見ている、その帳面。失敗を直すために書いているというノート……」
彼女は、私の手元にある失敗記録帳をすがるような目で見つめた。
「私にも、どうやって書いているのか、見せてもらえませんか?」
私は一瞬、驚いて目を見開いた。
「私は何もできない」という自己否定から始まり、私自身を立て直すためだけに書き続けてきた、三十七個の失敗リスト。
自分のためだけだったこの帳面が、今初めて、他の誰かのために求められようとしていた。




