第12話 失敗帳を貸して
複合舞踏試験が終わった直後の、喧騒が残る大広間。
「その……あなたがいつも見ている、その帳面。見せてもらえませんか?」
私と同じように、総合順位の下位に名前が張り付いている小柄な令嬢――セリアさんが、すがるような目で私の手元を見つめていた。
私は驚きで一瞬言葉を失った。この失敗記録帳は、私が「何もできない」という自己否定から抜け出すために、自分の惨めなミスを三十七個も書き連ねただけの恥ずかしい代物だ。
「これは、その……ただ、私の失敗が書いてあるだけで、立派な参考書のようなものではないのだけれど」
「それでもいいんです!」
セリアさんは必死な声を出した。
「ハルフォードさんは今日、あんなに大きく転んだのに、最後まで崩れなかった。……私は今日、一度言葉に詰まっただけでパニックになって、相手の方のお名前すら忘れてしまって……そのまま、何もできずに終わりました」
彼女の痛切な悔しさは、少し前の私自身のものと全く同じだった。
「……分かったわ。放課後、いつも私が使っている訓練室でよければ」
夕刻の個別訓練室。
部屋の奥の教卓では、ユリウス教官が書類の山に向かって淡々と採点作業を進めていた。彼は私たちが部屋に入ってきても一瞥しただけで、特に口を挟むこともなく、ただの空気のように振る舞ってくれていた。
私は長机にセリアさんと並んで座り、失敗記録帳のページを開いた。
「これが、私の記録よ。試験での自分の行動を振り返って、何が駄目だったのかを一つずつ項目に分けたの。三十七個もあったわ」
セリアさんはびっしりと文字が書き込まれたページを見て、圧倒されたように息を呑んだ。
「さ、三十七個も……私、自分が何を間違えたのかすら、よく分かっていなくて。全部が駄目だったとしか……」
「最初は私もそうだったわ。だから、まずは今日の試験で何があったか、順番に書き出してみましょう。私がやったのと同じようにすれば、きっと直せるようになるから」
私は自分がユリウス教官にやってもらった成功体験を、そのまま彼女に当てはめようとした。
しかし、実際にセリアさんの話を聞き始めて、私はすぐに戸惑うことになった。
「相手の方から、領地の特産品について聞かれたんです。答えは頭に入っていたのに、相手の鋭い目を見たら、早く答えてしまわないと怒られる気がして……」
セリアさんは俯き、泣きそうな声で言った。
「それで、思いついたことを早口でまくし立ててしまって。途中で相手の方が怪訝な顔をしたのに、止まれなくて、そのまま違う領地のデータまで混ざって……」
私はペンを持ったまま固まった。
私の場合、パニックになると『視線を落として、言葉が出なくなり、固まる』という失敗だった。だから私の帳面の第一項目は『相手の顔を見る前に視線を落とさない』だ。
でも、セリアさんは違う。彼女は知識があるのに、恐怖から『早く終わらせようとして早口になり、確認を飛ばす』のだ。
「ええと、じゃあ……『早口にならない』とか、『間違えたら止まる』って書くのはどうかしら?」
私が自信なげに提案すると、セリアさんは困ったように眉を下げた。
「早口にならないように、とはいつも思っているんです。でも、いざ相手の前に立つと、口が勝手に動いてしまって……」
私は教え方の正解が分からず、言葉に詰まった。
どうすればいいのだろう。私がこの帳面に救われたのは事実だ。でも、私が使っている「視線を上げる」「三秒以内に相槌を打つ」という項目を彼女にそのまま押し付けても、彼女の役には立たない。
自分の成功した方法を他人にそのまま渡せば解決する、というほど簡単な話ではなかったのだ。
私は思わず、部屋の奥で書類に向かっているユリウス教官の方へ助けを求めるように視線を向けた。だが、教官はこちらを見ようともしなかった。手伝う気はない、自分で考えろという無言の意志だった。
私はもう一度、セリアさんに向き直った。
教官が私にしてくれたのは、答えを与えることではなかった。「外から見て分かる行動を言え」と問いかけ、私自身に物理的な行動を決めさせたのだ。
「セリアさん。早口になってしまう時、あなたの手はどうなっていますか?」
「手、ですか? たしか……ドレスの布を、ぎゅっと握りしめています」
「じゃあ、それをやめましょう」
私は自分の帳面を閉じ、彼女のために用意した新しい紙を広げた。
「三十七個も探さなくていいわ。明日の実習で、一つだけルールを決めましょう。相手から質問されたら、まず『両手を体の前で軽く組む』。そして『一回だけ、ゆっくり息を吸う』。口を開くのは、必ずその後」
「それだけで、いいんですか……?」
「ええ。早口にならないようにするんじゃなくて、口を開く前に別の行動を挟むのよ。まずはそれだけを試してみて」
セリアさんは半信半疑のようだったが、そのたった二つの項目だけが書かれた紙を、大事そうに胸に抱いた。
翌日の午前中に行われた、小規模な対面質問の実習。
私は自分の席から、少し離れた場所にいるセリアさんの様子を窺っていた。
教員から厳しいトーンで質問を投げかけられ、セリアさんの肩がビクッと跳ねた。彼女の口が反射的に開きかける。
だが、その瞬間、彼女はドレスを握りしめようとした手を慌てて体の前で組み直し、小さく息を吸い込んだ。
一拍の間の後。
「……そ、それにつきましては、昨年度の統計資料に記載がございました」
少し震えてはいたが、決して早口ではない、落ち着いた声で彼女は回答を始めた。
もちろん、それだけで彼女の成績が劇的に上位へ跳ね上がったわけではない。その後の細かい質問でいくつか知識の漏れがあり、最終的な評価はやはり平均以下だった。
それでも、実習が終わった後、私のところへ駆け寄ってきたセリアさんの顔は、昨日までの絶望に沈んだものではなかった。
「ハルフォードさん! 私、途中で止まれました。全部頭から抜け落ちてしまう前に、一息つけました……!」
「よかった。本当に、よかったわ」
手を取り合って喜ぶ彼女を見て、私の胸の奥に、これまで感じたことのない温かく静かな感情が広がっていった。
放課後、私は個別訓練室でユリウス教官にその報告をした。
「……私のやり方をそのまま真似してもらうのでは、駄目だったんです。人によって、つまずく場所も、失敗の形も違うから」
私は自分の失敗記録帳の表紙をそっと撫でた。
「この帳面がすごい魔法の道具だったわけじゃない。私が私自身の失敗を具体化して、直せる形にするという『考え方』そのものが、役に立ったんだと思います」
教官は私の言葉を黙って聞いていたが、やがて短く頷いた。
「気づいたようだな」
「え?」
「他人は君ではない。君にとっての正解が、他人の正解になるとは限らない。人に何かを伝える時に、自分の成功体験をそのまま相手の口に押し込むのは、教育ではなくただの暴力だ」
教官の厳しい言葉に、私はハッとした。昨日、危うく私はセリアさんに自分の三十七個のリストを押し付けて、彼女をさらに混乱させるところだった。
「君は昨日、相手を観察し、相手の形に合わせて方法を調整した。それは、ただ自分の成績を上げるのとは全く別の能力だ。よくやった」
よくやった。
その言葉の重みに、私は小さく息を呑んだ。
百四位の、まだまだ下位でもがいているだけの私。それでも、私が泥水の中で手に入れた経験が、他の誰かの次の一歩を作る役に立ったのだ。
自分が「助けられる側」から、ほんのわずかだけ「誰かを助ける側」に回れたこと。その初めての承認が、私の中に新しい自信の種を植え付けてくれた。
「さて。余韻に浸っているところ悪いが、次へ進むぞ」
教官は容赦なく空気を切り替え、教卓から一枚の配布資料を手に取った。
「来週、学院の外部実務行事として、王都から実務官を招いた討論会が予定されている。テーマは『地方教育費の配分効率』だ」
「王都の実務官、ですか」
「ああ。財政院の改革部門から、若手のエリート分析官が視察と講義を兼ねてやってくることになっている」
財政院。若手の分析官。
その単語を聞いた瞬間、私の心臓が冷たい音を立てて跳ねた。
教官は私の顔色が変わったのをはっきりと見て取りながら、淡々とその名を口にした。
「来るのは、アルベルト・グレイヴ殿だ。君の、元婚約者だな」
アルベルト。
効率を重んじ、結果を出すのが遅い私を「無駄な投資」として公衆の面前で切り捨てた人。
彼が、この学院に来る。私がどれだけ無様な成績で這いずり回っているか、またあの冷徹な目で評価を下しに来るのだ。
私は膝の上で、失敗記録帳を握る手にぎゅっと力を込めた。




