第13話 元婚約者との再会
学院の大講堂は、普段の授業とは違う張り詰めた空気に包まれていた。
本日は外部実務行事として、王宮の各省庁から実務官を招いた合同演習が行われる。その一団が講堂へ入ってきた瞬間、私の心臓は冷たい音を立てて大きく跳ねた。
先頭を歩く上級官僚のすぐ斜め後ろに、見慣れた灰茶色の髪の青年がいた。
財政院改革部門の若手分析官、アルベルト・グレイヴ。私の、元婚約者だ。
そして彼から少しだけ距離を空けた隣には、来賓として同行している学院の卒業生、クラリッサ・レーヴェン様の姿があった。流麗な黒髪と知的な瞳を持つ彼女は、アルベルトの新たな婚約者候補として名高い才女だ。
公衆の面前で「時間をかける価値がない」と切り捨てられた、あの夜会の記憶が鮮明に蘇りかける。呼吸が浅くなり、指先が微かに震えた。
だが、今の私はあの夜のままではない。
『言葉に感情を乗せるな。ただの事実として観察しろ』
個別訓練室でユリウス教官と繰り返した訓練を思い出し、私はドレスの布地を握りしめようとした手を、意識して膝の上で組み直した。そして、ゆっくりと一回だけ息を吸い込む。
大丈夫だ。怖いのは事実だけれど、もう頭が真っ白になって固まることはない。
演習の課題は、財政院が作成した『地方都市への救恤物資の新規輸送計画案』の精査だった。
アルベルトが教壇に立ち、学生たちに向けて資料の解説を始める。
「本計画の要眼は、複数の経由地を廃止し、中央から拠点都市への直通経路を構築することにあります。これにより輸送日数は平均して二日短縮され、全体の運用費用は……」
彼の説明は淀みなく、提示される数字と論理には一切の隙がなかった。
質疑応答に移ると、フェリシア様や数人の優秀な生徒たちが、法的な解釈や別の経済効果について鋭い質問を投げかけた。アルベルトはそれらに対し、手元の資料すら見直すことなく、正確な数値を用いて即座に打ち返していく。
圧倒的だった。処理速度も、情報量も、私とは次元が違う。議論の全体像を把握するだけでも精一杯の私は、やはり彼に正面から挑んでも絶対に勝てないのだと、改めて冷酷な事実を突きつけられた。
私は彼らの高度な議論から半ば脱落しながら、手元に配られた分厚い付属資料の束をめくっていた。
それは、財政院の計画案の根拠となった、各地方の現場担当者たちからの報告書の写しだった。整然としたアルベルトのまとめ資料とは違い、現場の泥臭い事象が雑多に書き連ねられている。
自分の『失敗記録帳』をつけるようになってから、私はこういう「整理される前の事実」を一つずつ拾い上げていく作業にだけは、少し目が利くようになっていた。
ページをめくる手が、ふと止まった。
「――アルベルト殿」
気がつけば、私は震える声で手を挙げていた。
講堂の視線が一斉に私に集まる。アルベルトは私を認めても、軽蔑や動揺の色を一切見せず、ただの一人の生徒に対するように事務的な視線を向けた。
「ハルフォード嬢。何か質問かな」
「……はい。提示された全体の輸送費用の試算について、一つ確認させてください」
声が上ずりそうになるのを必死に抑え、私は手元の報告書を指した。
「この計画案の輸送費は、全土の平均的な馬車の消耗率を基に計算されています。ですが、新たに直通経路として指定された北部の山間部からの報告書には、『春先の雪解け泥により、車軸の破損率が平野部の三倍に達する』という現場からの強い懸念が記載されています」
講堂が、しんと静まり返った。
「王都周辺の平らな街道を前提とした平均値で予算を組めば、この北部の区間においてのみ、春季の修繕費と予備の馬車の手配費用が完全に不足するのではないでしょうか」
それは、大局的な経済理論でも、華麗な政策論でもない。ただ、現場の小さな条件を一つ見つけただけの、地味な指摘だった。机上の計算に特化した彼が、平均化する過程で掬い零してしまった小さな事実。
アルベルトは一瞬、完全に動きを止めた。
彼は顔色を変えずに手元の分厚い資料をめくり、私が指摘した北部の報告書と、自身の計算式を素早く照合した。
十秒ほどの、重い沈黙。やがて彼は顔を上げ、私を真っ直ぐに見た。
「……確認した」
その声には、言い訳も負け惜しみもなかった。
「君の指摘通りだ。局地的な環境要因による消耗率の跳ね上がりを、全体平均の算出過程で見落としていた。このまま運用を開始していれば、春季の北部で深刻な輸送停滞を招いていた可能性が高い」
彼は手元の資料にペンで素早く修正を書き込んだ。
「この区間の予備費として、全体の輸送予算に約三パーセントの修正加算が必要になる。的確な指摘だった、ハルフォード嬢」
アルベルトは事実だと分かれば、相手がかつて無能だと切り捨てた元婚約者であっても、あっさりと自分の非を認め、計画を修正した。
私が論破して彼を打ち負かしたわけではない。議論の九割九分では私が負けていた。
それでも、私は初めて、彼の完璧な計算に一つの待ったをかけ、その足を止めることができたのだ。
「素晴らしい視点ですわね、ハルフォード様」
静かな講堂に、涼やかな声が響いた。来賓席に座っていたクラリッサ様だった。
彼女は私に対して勝ち誇ることも、嫉妬めいた嫌味を言うこともなく、ただ事実としてその一点を公平に評価していた。
「どれほど優れた計画でも、現場の泥濘一つで車輪は止まります。机上の数字に埋もれがちな現場の声を掬い上げる、実務家として非常に誠実な姿勢だと思いますわ」
「……恐れ入ります、レーヴェン様」
私は深く頭を下げた。彼女の知性と余裕を目の当たりにして、やはり私とは違う本物の才女なのだという劣等感はどうしても拭えなかった。
だが、私からアルベルトを奪った憎い恋敵だというような、単純な敵意は湧かなかった。
むしろクラリッサ様は、私の指摘をただの「データのエラー修正」としてのみ処理し、私への人間的な言葉を一切挟まずにすぐ次の解説へ移ろうとするアルベルトの背中を、ほんのわずかに冷ややかな目で見ていた。
公衆の面前で婚約を処理するという彼の人の扱い方に、彼女自身も何か居心地の悪さのようなものを感じている。そのことが、微かな態度の揺らぎから匂い立っていた。
演習が終わった後、私は自席で小さく息を吐き出した。
胸の奥にあるのは、大勝利の高揚感ではない。彼との果てしない能力差を思い知らされた疲労と、それでも一つだけ矢を届かせることができたという、静かな安堵だった。
「明日の実習について告知する」
教壇の端に立っていたユリウス教官が、よく通る声で告げた。
「明日は、財政院からアルベルト殿が持ち込んだ新たな資料を基に、課題を行ってもらう。テーマは『限られた教育予算の配分』だ」
配られた資料の表題を見て、私は息を呑んだ。
そこには、成績上位者へ資源を集中し、下位の生徒への補習を削ることが最も費用対効果が高いと証明する、アルベルトの冷徹な数字が並んでいた。




