第8話 最下位を脱出
大広間に張り出された新しい月例の総合順位表の前に、幾重もの人垣ができていた。
私は生徒たちの背後から背伸びをするようにして、一番下の欄から自分の名前を探した。百二十八位、百二十七位……そこには見知らぬ令嬢の名前がある。
視線を少しずつ上へと滑らせていく。
『百四位 リディア・ハルフォード』
その文字を見つけた瞬間、胸の奥で小さく、けれど確かな熱が弾けた。
百四位。百二十八人中、下から数えた方がずっと早い順位だ。上位の生徒から見れば、決して誇れるような成績ではない。
それでも、私は入学時から張り付いていた「百二十七位」という絶望的な定位置から、自力で抜け出したのだ。
「ハルフォードさん、百四位ですって」
「一桁順位しか上がらない生徒も多いのに、二十位以上も上げるなんて。前回の再試験、まぐれじゃなかったのね」
「とはいえ、まだ百位台には変わりないですけれど……」
周囲の令嬢たちが交わす囁き声には、以前のような容赦のない嘲笑や、推薦枠に対する露骨な敵意は薄れていた。「思ったよりは上がった」「完全な無能ではないらしい」。その程度の、事実に対する冷ややかな驚きがあるだけだ。
私にとって、それは十分すぎる報酬だった。自分の手で失敗帳をつけ、一つずつ項目を直してきた反復が、たしかに数字として反映されたのだから。
しかし、その小さな喜びが、どれほどささやかで壊れやすいものかを知るのに、時間はかからなかった。
その日の午後に行われたのは、執務室での作業を模した「書類処理と判断」の実技だった。
次々と持ち込まれる領地からの報告書に目を通し、緊急度を分類し、領主代行として適切な指示を書き記していくという課題だ。
私は自分の席につき、配布された書類の束と格闘していた。
焦らない。まずは日付と差出人を確認する。内容を斜め読みして、人命や財産に関わるものを上に分ける――。
失敗記録帳に書き込んだ『確認漏れ』や『優先順位の誤り』を防ぐため、私は個別訓練室でユリウス教官を相手に、この手順を何十回も反復練習してきた。手が震えそうになるのを必死に抑え、なんとか制限時間ぎりぎりで回答を書き終えた。
「……優先順位の判断は妥当です。ただし、指示の文言が硬直的で、現場の混乱を招く可能性があります。及第点、というところですね」
採点教員の講評に、私は深く頭を下げた。及第点。私にとっては、何十回もの失敗の末にようやく掴み取った、血の滲むような成果だった。
だが、その直後だった。
私の少し離れた席で、流麗な銀糸の髪を揺らしながら課題に向かっていた令嬢――フェリシア・オルブライト様が、静かにペンを置いた。
「終わりました」
彼女が提出した書類を受け取った教員は、目を通すなり感嘆の息を漏らした。
「見事です、オルブライト嬢。優先順位が完璧なのはもちろん、西の村の害虫被害と東の村の収穫減を関連付け、領地全体での備蓄米の再分配まで指示を出している。制限時間の半分でこれほどの処理を行うとは……非の打ち所がありません」
その言葉に、私は思わず息を呑んで彼女を見た。
私がいっぱいいっぱいになって処理した同じ書類の束から、彼女は一瞬で複数の情報の繋がりを見抜き、私が思いつきもしなかった解決策を提示したのだ。しかも、その手は一度も止まったり、迷ったりしていなかった。
「お褒めに預かり光栄です」
フェリシア様は優雅に立ち上がり、教員へ向かって深く一礼した。
「ですが、備蓄米の放出に関しては、過去の法例に照らし合わせると手続きに少し不安が残ります。もしよろしければ、後ほど過去の判例についてご指導いただけないでしょうか」
「ええ、構いませんよ。素晴らしい向上心だ」
教員が目を細めるのを見て、私の胸に冷たく重い石が落ちてきた。
フェリシア様は、現在の総合順位で上位三位以内に入る、間違いなく首席候補の一人だ。
彼女は天才だった。処理速度も、情報をつなぎ合わせる視野の広さも、私とは次元が違う。
そのうえで、彼女は決して努力を怠っていなかった。教員の講評からさらに先を学ぼうとする姿勢、迷いのない所作。それらがどれほどの勉強量と反復によって支えられているか、実務の端くれを学んだ今の私には痛いほど理解できた。
才能がある人が、誰よりも正しい努力をしている。
その事実が、私の心に絶望に近い感情を突きつけていた。
私が何十回、何百回と惨めな思いをして、ようやく手に入れた「及第点」。それを、彼女は涼しい顔で、あっさりと飛び越えていく。あの高みに、私が追いつける日など一生来ないのではないか。
百四位になれたというささやかな喜びは、圧倒的な才能の輝きを前に、跡形もなく吹き飛んでしまっていた。
夕刻。
誰もいない個別訓練室の窓際で、私は長机に置かれた自分の失敗記録帳をただじっと見つめていた。
扉が開く音がして、ユリウス教官が入ってくる。彼の手には、本日の実技の採点記録が握られていた。
「百四位。前回の自分を上回ったな」
教官は私の向かいに座ると、感情を交えない平坦な声で事実だけを述べた。
「……はい」
私の声は、ひどく沈んでいた。
教官は私の顔色を一瞥し、手元の記録用紙を机に置いた。
「今日の書類処理の実技、君は制限時間内に及第点を取った。だが、不満そうだな」
「不満なんかじゃ、ありません」
私は膝の上で、きつく両手を握りしめた。
「ただ……今日、フェリシア・オルブライト様の実技を見ました。私が何十回も練習して、ようやく形にできたことを、あの方は最初の数分で、完璧にこなしていました」
声が震えそうになるのを、奥歯を噛んで耐えた。
「あの方は、天才です。そのうえ、努力もされています。……私なんかがどれだけ失敗帳をつけても、あんな風には絶対になれないと、思い知らされました」
慰めてほしかったわけではない。ただ、どうしようもない才能の差に打ちのめされた自分の惨めさを、誰かに聞いてほしかっただけかもしれない。
しかし、ユリウス教官は私に同情の言葉をかけることも、「君には君の良さがある」といった気休めを言うこともなかった。
「当然だ。フェリシア・オルブライトは、当学院でも稀有な適性を持った生徒だ。最初から見えている世界が広く、それを形にするための研鑽も怠っていない」
教官は、残酷なほどの公平さで、フェリシア様の能力を現実として肯定した。私を慰めるために彼女を貶めるような真似は、決してしなかった。
「能力差は歴然と存在する。同じ時間、同じ努力を費やしたところで、君が彼女と同じ処理速度や精度を手に入れられるわけではない。それが現実だ」
突きつけられた言葉に、私は深く息を吸い込んだ。
分かっていた。努力すれば何でもできるなんて、おとぎ話だ。アルベルトが私に見切りをつけたのも、そのどうしようもない能力差のせいだったのだから。
私は顔を上げ、教官の冷徹な、けれど嘘のない真っ直ぐな瞳を見つめ返した。
才能の差は埋まらない。彼女と同じようにはなれない。
それでも、私は一つだけ、確かめなければならないことがあった。
「ユリウス教官」
私は、自分の内側にある弱い心ごと握り潰すように、手元の帳面に爪を立てた。
「私が……同じ課題を百回練習すれば、フェリシア様に勝てますか?」




