第7話 笑われても会話は終わらない
大広間に用意された複数の円卓には、豪奢な銀食器と本物のフルコースが並べられていた。
本日の課題は「公開晩餐実習」。学院がただの座学の場ではないことを証明するような、実践的な複合試験だ。
生徒たちは数名ずつテーブルにつき、実際に食事を進めながら会話を交わす。周囲には採点担当の教員たちが立ち、カトラリーを扱う所作から、会話のテンポ、他者への気配り、そして不測の事態への対応力までを細かく記録している。
私の座るテーブルは最悪の巡り合わせだった。斜め向かいの席には、艶やかな金髪を結い上げたエルザ・ローゼンベルク様が優雅に背筋を伸ばして座っていた。
実習が始まり、前菜のスープが運ばれてくると、エルザ様は同席した令嬢たちと流麗な会話を交わし始めた。最近の王都の流行、他国の情勢、芸術への造詣。彼女の話題選びは完璧で、採点教員たちのペンも滑らかに動いている。
私は食事のマナーだけで精一杯だった。失敗記録帳に書いた「視線を落とさない」「返答を急ぎすぎない」という項目だけを頭の中で反復し、なんとか周囲の会話に相槌を打つので手一杯だ。
主菜の肉料理が下げられ、少しだけ場の空気が弛緩した時だった。
「そういえば、ハルフォード様」
不意に、エルザ様が微笑みを浮かべたまま私に水を向けた。
「今年の春は、王都での『ご予定』が急に白紙になられたと伺いましたわ。これからは、ご実家の領地運営に専念されるおつもりなのかしら?」
空気が、一瞬にして凍りついた。
表面上は、今後の進路や領地に関する普通の質問だ。しかし、この場にいる令嬢たちの中で、私の「王都での予定が急に白紙になった」理由を知らない者はいない。
公衆の面前でアルベルトから告げられた、婚約破棄。
社交の場としてギリギリ成立する上品な言い回しの裏に、明確な毒が仕込まれていた。同席している他の令嬢たちが、好奇の目を隠しきれずに私へ視線を集中させる。採点教員すらも、私がどう反応するかを見定めるようにペンを止めた。
心臓が早鐘を打ち、背筋に冷たい汗が伝った。
アルベルトの冷淡な声と、あの夜の屈辱が鮮明に蘇りかける。手に持っていた銀のフォークがわずかに震え、カチャリと皿に触れる音が鳴った。
息が詰まる。泣き出しそうになる。逃げ出してしまいたい。
だが、頭が完全に真っ白になる寸前、昨日の個別訓練室での声が蘇った。
『言葉に感情を乗せるな。ただの音声として聞き、相手の目的の箱に入れろ』
私は、テーブルの下で震える左手を強く握り込んだ。
解剖するのだ。エルザ様の意図を。
彼女は、私の家の領地運営に興味があるわけではない。この場で私の最も触れられたくない傷を突き、私が泣いたり、取り乱したり、何も答えられずに沈黙する姿を引き出したいのだ。そうして私の無様さを露呈させれば、相対的に彼女の「有能さ」と「場の支配」が完成する。
目的は、『悪意』と『場の主導権』。
それが分かった瞬間、私を飲み込もうとしていた巨大な恐怖の輪郭が、少しだけ鮮明になった。彼女は私を完全に破壊したいのではなく、この実習において自分を優位に見せるためのカードとして私を使っているに過ぎない。
ならば、私がここで沈黙してしまえば、彼女の思惑通りになる。
私は小さく息を吸い込み、フォークを静かに置いた。
視線を逃さず、エルザ様の蒼い瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
「ご心配いただき、ありがとうございます、ローゼンベルク様」
声は少し硬かったかもしれない。でも、震えはしなかった。
「ええ、予定の変更はございました。ですが、今はこうしてアウレリア学院で実務を学ぶ機会に恵まれましたので、まずは目の前の課題に集中したいと考えておりますわ」
自分の傷口を直接見せることはせず、事実だけを肯定して受け流す。そして、会話をここで終わらせないために、私は即座に言葉を続けた。
「ローゼンベルク様は、すでに領地での実務の一部を経験されていると伺っております。何か、学院での学びと現場の違いで驚かれたことなどはございますか?」
沈黙の代わりに投げ返されたボールに、エルザ様は一瞬だけ目を細めた。
私が泣き崩れるか、言葉に詰まって失点するのを期待していたのだろう。しかし、私は場を壊さず、しかも彼女の有能さを語らせるための「普通の質問」を返したのだ。これを無視すれば、今度はエルザ様の社交マナーが問われることになる。
数秒の間の後、エルザ様は完璧な笑みを作り直した。
「……ええ、そうですわね。机上の計算と、実際の領民の動向にはやはり差がありますわ。例えば先日の天候不順の折には……」
エルザ様は淀みなく、自身の経験と見識を語り始めた。他の令嬢たちもそれに相槌を打ち、テーブルの会話は再び滑らかに回り始めた。
晩餐会の空気は壊れなかった。
私はそっと息を吐き出し、再び自分の食事へ意識を戻した。手の震えはいつの間にか収まっていた。
エルザ様の流麗な語り口は間違いなく高評価だろう。彼女の総合順位がこれで落ちることはない。私は彼女を論破したわけでも、華麗に言い負かしたわけでもない。
ただ、最も弱い場所を突かれても、私は沈黙しなかった。会話を終わらせなかった。
教員が手元の記録用紙に、何かを書き込んでいるのが見えた。それがどう評価されるかは分からないが、少なくとも「パニックを起こして逃亡した」という失点にはならないはずだ。
数日後。
個別訓練室の長机に、晩餐実習の個人評価表が置かれていた。
ユリウス教官は腕を組み、私の評価表と失敗記録帳を交互に見比べていた。
「ナイフとフォークの扱いが途中から雑になったな。相手から痛いところを突かれた瞬間、手が止まり、カトラリーの音が鳴った。動揺が外に漏れている証拠だ」
教官の口から出たのは、手放しの称賛ではなく、冷徹な事実の指摘だった。
「……はい。一瞬、頭が真っ白になりかけました」
「感情が揺れるのは仕方がない。だが、実務の場ではその一瞬の隙を突かれる。手元の所作を崩さない反復がまだ足りない」
教官は私の失敗帳の新しい項目にペンで印をつけた。
しかし、そこで彼は言葉を区切り、まっすぐに私の顔を見た。
「だが、沈黙して場を壊すことはなかった」
「え……」
「相手の言葉の意図を判断し、即座に致命的な失点を避ける返答を選んだ。そして相手に話題を投げ返し、会話全体を終わらせなかった。担当教員も『失点後の復帰』および『会話の継続維持』の項目で、相応の評価をつけている」
教官は評価表の一箇所を指先で叩いた。そこには確かに、以前なら最低点がついていたはずの危機対応や社交の欄に、平均を示す数字が書き込まれていた。
「前回の診断試験なら、君はあの質問一つで完全に崩れ、最後までまともな受け答えができなくなっていたはずだ。今回は持ち堪えた。それは明確な進歩だ」
甘い言葉ではなかった。それでも、私が逃げずに試したことを、一番正確に見ていてくれた。
私は自分の手元にある失敗記録帳を見つめた。
三十七個あった直すべき項目のうち、また一つだけ、ほんの少しだけ線を引いて消すことができたような気がした。
論破できたわけじゃない。エルザ様の方がずっと優秀で、私など足元にも及ばない。
それでも、私はあの夜のように、何も言えずに立ち尽くすだけの無力な人間からは、確実に一歩だけ前に進んでいる。その事実が、胸の奥を小さく温めていた。
翌週、月例の総合順位が発表される日がやってきた。
大広間の掲示板の前には、多くの生徒たちが自分の成績を確認しようと群がっている。
私は人垣の少し後ろに立ち、小さく深呼吸をした。
前回の短期再試験では百十九位。今回は、晩餐実習での評価も加わっている。自分がどれだけやれたのか、数字という冷酷な事実で突きつけられる瞬間だ。
私は掲示板に近づき、一番下からゆっくりと自分の名前を探し始めた。




