第54話 もう一度始める場所
翌春。
王都の裏通りから少し入った、元は古い商家だったという石造りの小さな建物。
その入り口に掲げられた真新しい木製の看板には、『王立再起院・王都第一院』という名が刻まれている。
それは、今日から静かに産声を上げる、小さな試験機関の名前だった。
アデライド王妃殿下の救恤基金、王宮の救恤局、アウレリア学院の同窓基金、そして有志の寄付。いくつもの財源と管轄を編み合わせて、ようやくこぎ着けた初年度の受け入れ枠は、わずか十数名に過ぎない。
全国の失敗者をすべて救うような、完成された万能の魔法ではない。この『第一院』での成果が認められなければ、来年にはあっさりと取り潰される、ひどく脆い試みだ。
その小さな建物の教務室で、私は机に積まれた新しい受講生たちの記録ファイルに目を通していた。
二十一歳の私に与えられた肩書は、この再起院の『初代教務責任者』。
国全体を動かすような偉大な権力者になれたわけではない。予算のやり繰りに頭を悩ませ、各部署との調整に走り回り、現場で一人ひとりの失敗と向き合う毎日だ。
「ハルフォード責任者。少し、よろしいですか」
開け放たれた扉から顔を出したのは、ノエミさんだった。
彼女は今日、この建物の開院を手伝うために来てくれていた。彼女自身は先日、学院を無事に修了し、来週からは地方の領地管理部門で下級の記録係として働き始めることが決まっている。
華々しいトップエリートの座には届かなかった。それでも、今の彼女はしっかりと前を向いている。
「ノエミさん、準備は終わったの?」
「はい。受付の案内板も出しました。……あの、私、明日には王都を発つので、その前にご挨拶をと思って」
ノエミさんは私の前まで来ると、深く、綺麗な礼をした。
「先生。私に、失敗しても戻ってこられる場所の作り方を教えてくださって、本当にありがとうございました」
「私一人で教えたわけじゃないわ。……あなたが、自分で逃げずに選んだからよ」
「はい。向こうの職場で、また失敗して落ち込む日もあると思います。でも、もう人生が終わったなんて思いません。間違えたら記録して、また次のやり方を探します」
彼女の迷いのない笑顔を見て、私は胸の奥が温かくなるのを感じた。
彼女に私の『失敗記録帳』をそのまま押し付けた時は、どうなることかと思った。けれど、私が彼女の適性に合わせてやり方を修正したように、彼女もまた、自分なりの「立ち直るための型」を身につけて、次の道へ進んでいくのだ。
「頼もしい顔になったわね」
ふと、教務室の入り口から声がした。
振り返ると、ユリウスが腕を組んで立っていた。学院での講義がない日は、こうして再起院の運営アドバイザーとして顔を出してくれることになっている。
「ノエミ。向こうでの赴任手続きだが、王宮の行政管理部からすでに受理の通知が来ている。ずいぶんと仕事の速い事務官がいるおかげでな」
「本当ですか! よかったです」
ユリウスの言葉に、私は小さく微笑んだ。
あの一番下の窓口で、重複した書類の無駄を省き、再挑戦者たちの時間を裏側から支えてくれているアルベルトの姿が目に浮かぶ。
彼だけではない。この再起院のカリキュラムの基礎は、フェリシア様が上位教育との棲み分けを明確にしてくれたおかげで形になった。来月には、エルザ様が実務家としての失敗経験を語る特別講義のために、ここを訪れてくれる予定だ。
かつて私と競い合い、あるいは私の歩みに見切りをつけた人たちが、今はそれぞれの場所で成長し、この小さな再挑戦の場所を支える仕組みの一部になってくれている。
「では、私はこれで。……新しい受講生の方々にも、どうかよろしくお伝えください」
ノエミさんが笑顔で部屋を出ていくと、教務室には私とユリウスの二人だけが残された。
ユリウスはゆっくりと私の机の前まで歩み寄ると、積まれたファイルの横に腰を下ろした。
「開院の初日から、随分と忙しそうだな。教務責任者殿」
「ええ。予算の計算から明日のカリキュラムの見直しまで、やることが山積みです」
私は彼を見上げて、少しだけ肩をすくめた。
私たちはもう、「先生と生徒」ではない。彼が私に正解を与え、私がそれに従うだけの関係は、とっくに終わっている。
恋人同士となった今でも、仕事の場では互いに厳しく意見を交わし合う、対等な実務家だ。
「無理はするなよ。……君が倒れたら、この脆い小舟はすぐに沈む」
ユリウスはそう言って、私の頬にかかった髪を、そっと指先で掬い上げて耳にかけた。
仕事の緊張が続く中で、彼が私だけに向けるその静かな熱に触れると、張り詰めていた心の糸が心地よく解けていくのが分かる。
「大丈夫です。私一人で全部抱え込むような真似はしませんから。……その時は、同僚としてあなたを頼ります」
「ああ。存分にこき使ってくれ」
彼は低く笑い、それから私の手を取り、その甲にゆっくりと唇を落とした。
ひどく上品で、けれど明確な愛情と独占欲を伴ったその口づけに、私は小さく息を呑む。
「リディア」
彼が真っ直ぐに私の目を見た。
「この王都第一院の初年度が終わり、君の教務責任者としての仕事が軌道に乗った時……私は、君の生家であるハルフォード家へ、正式な釣書を送るつもりだ」
それは、紛れもない将来の約束だった。
すぐに仕事を放り出して結婚するような、無責任な夢物語ではない。互いの果たすべき義務をやり遂げたその先で、生涯の伴侶として隣に立ちたいという、彼らしい誠実な意志の提示。
私は、彼の大きな手を両手で握り返した。
「はい。……そのお申し出、喜んでお受けします」
私はもう、ただ待つだけの女ではない。彼が私を選んでくれたように、私もまた、自分の人生のすべてを懸けて、彼という人を選び取る。
「必ず、この再起院を軌道に乗せてみせます。だから……一年後を、楽しみにしていてくださいね」
「ああ。覚悟して待っていよう」
彼が優しく微笑んだその時、教務室の外から、控えめなノックの音が聞こえた。
私たちは自然に距離を取り、職務上の顔へと戻る。
「ハルフォード責任者。本日の一人目の入所希望者が、面談室にお見えです」
補助の職員の声に、私は「今行きます」と応え、机の上の資料を整えた。
「行くぞ。最初の仕事だ」
「はい」
面談室の扉を開けると、そこには、かつての私と同じように、自信を失ってすっかり肩を落とした一人の少女が座っていた。
彼女は私の姿を見ると、すがるような、それでいてひどく怯えた目を向けた。
「あの……私、前の学校で何度も失敗して……先生からも、お前は見込みがないって言われて」
彼女は自分の膝をきつく握りしめ、震える声で紡いだ。
「私、何もできないんです。才能もなくて、一度失敗してしまったから、もう私の人生は終わりなんだって……」
「これ以上の時間を君に割くことは、互いの将来にとって有益ではないと判断した」。
四年前の夜会で、大勢の貴族たちの前で私に投げつけられた言葉。あの時の私は、自分が本当に無価値なのだと思い込み、すべてを諦めかけていた。
あの日、私を拾い上げてくれたのは、「失敗を分解して、直す方法」だった。
私は彼女の向かいの席に静かに腰を下ろし、小脇に抱えていた一冊の真新しいノートをテーブルの上に置いた。
かつての『失敗記録帳』と全く同じ形ではない。ノエミさんたちとの試行錯誤を経て、より一人ひとりに寄り添えるように改良した、新しい記録のための帳面。
「努力すれば、何でもできるようになる……なんて嘘は言わないわ」
私は彼女の怯えた目を見て、はっきりと告げた。
「あなたに向いていないこと、どうしてもできないことは、きっとある。一度の失敗で、失ってしまった時間も確実にあるわ」
「……じゃあ、やっぱり私は……」
「でもね」
私は、彼女のぎゅっと握りしめられた手に、そっと自分の手を重ねた。
「『今できない』からといって、あなたの人生がそこで終わるわけじゃない。……失敗したのなら、何が合わなかったのか、どこで間違えたのかを、このノートに記録して、直せる形に変えましょう」
私は微笑み、かつて私がもらった最初の言葉を、今度は私が彼女へと手渡した。
「あなたに何ができて、何が向いていないのか。次に何を試せばいいのか。……あなたが自分で選べるように、ここから一緒に考えていきましょう」
彼女の目から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。
それが、この小さな再起院で刻まれる、新しい記録の始まりだった。
失敗をしても、それで終わりではない。
完璧な人間なんてどこにもいない。私も、ユリウスも、あの日泣いていた彼女も。
だから私たちは、今日もまた泥臭く失敗を記録し、修正し、自分の足で次の道を選び続けるのだ。
もう一度、始めるために。




