第52話 今度は私が選ぶ
日が落ち、冷たい冬の風が吹き抜け始めた学院の渡り廊下。
残務を終えて帰路につこうとしていた私の前に、見慣れた長身の影が立ち止まった。
「……リディア」
職務上の『特任講師』でもなく、苗字でもない。
彼が私の名前をそのように呼んだのは、出会って以来、初めてのことだった。
「少し、歩かないか。仕事の相談ではない。私的な時間として、君に話がある」
ユリウス教官……いや、ユリウスのその声には、いつもの教導官としての張り詰めた威圧感はなかった。誤解の余地を一切残さない、真っ直ぐで嘘のない響き。
私は小さく息を吸い込み、「はい」とだけ答えた。
二人が並んで向かったのは、人気のない夜の中庭だった。
四年前、学生だった私が何度も訓練の合間に歩いた学院の中庭。彼と向き合うと、婚約を破棄された夜の王宮庭園で交わした言葉が鮮やかに蘇った。
枯れ木の上に冬の星座が瞬く中、彼はゆっくりと私に向き直った。
「君の言う通りだった。私は自分の恐れを、君の感情への疑いにすり替えていた」
彼は言い訳めいた前置きを一切せず、私の目を見て静かに切り出した。
「君が私に抱く感情が、純粋な好意だと信じるのが怖かったんだ。……いや。私自身が、君を一人の女性として意識し始めていることを認めるのが、恐ろしかった」
私はわずかに目を瞠った。
常に論理的で、誰よりも相手の選択を重んじてきた彼が、自分の恐れを口にするなんて。
「君が最も弱く、傷ついていた時期に、私は君を導く教官だった。その圧倒的な立場の差を利用して君を縛り付けるような真似は、絶対に許されない。そう自分に言い聞かせて、倫理を盾に線を引いた。……だが本当は、教官という安全な立場を捨てて、君と対等な男と女になることで、今のこの関係すら壊れてしまうのが怖かっただけだ」
彼の深い告白が、冬の夜気の中に溶けていく。
その不器用な誠実さに胸が締め付けられそうになった。
けれど、私は彼が謝ってくれたからといって、すぐに「いいんです」と流して曖昧に終わらせるつもりはなかった。
「……私の気持ちを否定された時は、本当に傷つきました。私が四年かけて積み上げてきた自立まで、全部なかったことにされたようで」
私は彼から目を逸らさず、自分の痛みをはっきりと口にした。
「でも、あなたが私を守るために葛藤してくれていたことは、分かりました。……だから、もう一度だけ言います」
私は、四年前に言葉を取り戻そうとしたあの夜を思い出しながら、今度は自分の意思で、はっきりと宣言した。
「私はもう、あなたに正解をもらう生徒ではありません。自分の足で立ち、自分の未来の責任を負える大人です。その私が、一人の男性として、あなたを選んでいるんです」
私の言葉を聞き終えた彼は、ふっと、まるで長年の重い鎖から解き放たれたような、ひどく柔らかく、静かな笑みを浮かべた。
出会って以来、一度も見たことのなかった、隙だらけで優しい大人の男の顔だった。
「……負けたよ。君は本当に、強くて美しい女性になった」
彼が一歩、私へと踏み出した。
長年保ち続けてきた「先生と生徒」の絶対的な距離が、完全にゼロになる。
彼が静かに手を伸ばし、私の頬に触れた。わずかに冷たい指先が、私の肌の熱を確かめるように滑る。
「ユリウス……」
「これからは、そう呼んでほしい」
彼は私の腰に腕を回し、そっと、けれど確かな力で、私を自分の胸の中へと引き寄せた。
彼の体温。硬い胸板。微かに聞こえる、私と同じように少しだけ速い鼓動の音。
「君を愛している。教え子としてではなく、私の隣を歩く、たった一人の女性として」
耳元で囁かれたその低い声に、私はこらえきれずに彼の背中に腕を回し、強くしがみついた。
彼が私の顎にそっと手を添え、少しだけ上を向かせる。
重なる視線。そして、ためらいのない軌道で、彼の唇が私の唇に重なった。
触れるだけの、けれどもう二度と誤魔化すことのない、大人同士の確かな口づけ。
学院生だった頃には求めることすらしなかったものが、対等な大人として向き合えた今、甘い熱となって私の全身を満たしていく。
どれくらいそうしていただろう。
ゆっくりと唇を離した彼は、私の額にもう一度だけ愛おしげに口づけをしてから、わずかに腕を緩めた。
「……明日の朝、教員室に入った瞬間から、私は再び厳しいヴァイス教導官に戻る。君も、私に甘えることのないハルフォード特任講師に戻ってもらうぞ」
「当然です。職場に私情を持ち込むような三流の実務官に、再挑戦の制度は作れませんから」
私が即答すると、ユリウスは満足げに私の頭を軽く撫でた。
翌日には、マルグリット理事による特別試験課程の継続可否を決める、最終の予算・成果審査が待ち受けている。
ノエミさんが試験の席を立たなかったという「定性的な成果」と、他の受講者たちの転向や継続率という「定量的な成果」。それらをどう組み合わせて、学院の教育資源を削らずに独立した制度として成立させるか。
王宮で書類の整理をしているアルベルトから送られてくるであろう行政データと、王妃基金や同窓基金を組み合わせた新しい事業計画書を、明日の会議までに完璧な形に仕上げなければならない。
「明日、マルグリット理事を納得させるための最終資料の準備が、まだ少し残っています」
「手伝おう。私もこの制度の共同提案者だからな」
「ありがとうございます、ユリウス」
私たちは微笑み合い、並んで中庭を歩き出した。
私たちが作った「失敗しても次を選べる場所」を、個人の奇跡で終わらせず、盤石な制度としてこの王国に残すための、最大の仕事が待っているのだから。




