第51話 あとはあなたが考える番
中庭での会話から一夜が明けた。
準備室のデスクに座り、私は手元にある書類の束へ静かに視線を落とした。
胸の奥には、彼に保留されたままの、じんわりとした痛みが残っている。だが、不思議と後悔はなかった。
私は自分の気持ちを誤魔化さず、自分の言葉で伝えた。そして、過去の影響を恐れる彼の気持ちと、現在の私の判断能力を混同しないでほしいと、はっきり伝えた。
これ以上、私から言葉を重ねて彼を説得するつもりはない。追いすがり、「どうして分かってくれないのか」と感情をぶつけるのは、相手の選択権を奪う暴力だ。
私は好意を撤回しない。けれど、彼の決断をただ待って立ち止まることもしない。
一人の自立した大人として、私は私の盤面を進める。彼がどうするかは、彼自身が考えて決めることだ。
私は羽ペンを手に取り、特任クラスの受講者五人に関する『成果検証レポート』の作成に取り掛かった。
マルグリット理事が求めているのは、彼女たちを学院に残すことの正当性を示す「数字」だ。だが、彼女たちをただ成績上位者の物差しで測っても勝ち目はない。
私は、ノエミさんたちの失敗記録帳から集めたデータを、全く別の評価軸として言語化していった。
「小試験において、予定外の事態に直面した際、退出せずに盤面に留まった回数」
「パニックを起こした後、自ら深呼吸などの復帰手順を踏めた回数」
「適性の不一致を早期に認識し、外部の文書館などへ進路を転換できた件数」
これらは、合格点や順位といった従来の合否では決して測れない成果だ。失敗しないことではなく、『失敗した後に、自分で次の行動を選べるようになった』という、確かな実務耐性の向上。
ノエミさんは公開試験を最後まで受けきり、クロエさんは自分の得意な手仕事の世界へ移った。他の受講者たちも、それぞれのペースで「できない自分」を責める時間を減らし、次に何をすべきかを私に相談できるようになっている。
だが、この成果を美談として報告するだけでは、制度は守れない。
私の手元には、アデライド王妃殿下の救恤基金からの助成決定通知書がある。
「一年限定」「人数は五名まで」「成果不足の場合は即時打ち切り」。
善意は無限ではない。この一年が終われば、彼女たちのような再挑戦者を支える資金は完全に途絶える。マルグリット理事が指摘した通り、学院の限られた本体予算に頼り、上位教育の枠を削り続けるような特例は、長くは保たないのだ。
ならば、学院の予算を奪わずに、この教育を自立させる仕組みが必要になる。
「王妃殿下の基金だけでなく……」
私は、王宮の実務部門で扱ってきた過去の資料を引っ張り出した。
救恤局の再就業支援予算。学院の卒業生たちが運営する同窓基金。それに、貴族からの私的な寄付金。
これらを別々に申請させるのではなく、一つの独立した会計として接続できないか。学院の中に残すことにこだわるから既存の枠を奪い合うのだ。いっそ、学院の教育ノウハウと救恤局の支援を合わせた、全く別の「小さな試験機関」として切り離すことができれば――。
途方もない作業だが、やるべきことは見えていた。
「ハルフォード特任講師」
ノックの音とともに、準備室にユリウス教導官が入ってきた。
私が提出していた、昨日の特任クラスの指導報告書を手にしている。
「報告書の確認だ。……第三課題の進行についてだが、少し負荷を上げすぎではないか。生徒の疲労が見える」
「はい。私もそう思い、明日の課題は反復回数を減らし、各自の得意な情報整理へ切り替えるよう計画を修正しました。修正後の予定表はそちらの裏に」
私は立ち上がり、感情を交えない、いつも通りの平静な声で答えた。
気まずさを引きずって目を逸らしたりはしない。かといって、妙に明るく振る舞って無理をしていると察してもらうような真似もしない。
ただの、対等な専門家同士の会話。
教官は報告書の裏を返し、私の修正案に目を通した。
「……妥当な判断だ。これなら問題ない」
「ありがとうございます。……それと、教導官。最終審査会に向けて、私はマルグリット理事へ提出する成果レポートと、新しい独立会計案の基礎資料を作らなければなりません。本日の午後は、他の教員の皆様との会議には出ず、こちらに専念してもよろしいでしょうか」
私がよどみなく仕事の調整を口にすると、教官はわずかに言葉を区切った。
「……ああ。構わない。君の特任クラスの成果は、君自身が証明するしかないからな」
教官はそう言って、手元の書類をデスクに置いた。
本来なら、確認が終わればすぐに立ち去るはずの彼が、なぜかその場から動かなかった。
視線を書類に落としたまま、数秒の不自然な沈黙が落ちる。
「……ハルフォード」
不意に、教官が低く、少しだけ掠れた声で私の名前を呼んだ。
「昨日、君が言ったことだが」
私はペンを握る手を止め、顔を上げた。
彼が自分から、私的な話題に触れようとしている。
だが、その先の言葉は続かなかった。教官は私を見たまま、微かに眉間を寄せ、何かを飲み込むように小さく息を吐いた。
私が追いすがらず、彼の前で泣くこともなく、ただ自分の足で次の仕事へと向かっている姿。
かつての「教え子」という安全な枠を完全に抜け出し、彼の手の届かない場所へ、私自身の速度で歩み去ろうとしている事実。
そのことが、常に冷静で完璧だった彼の内側に、私には完全には読み切れない種類の「揺らぎ」を生み出しているように見えた。
「……いや。何でもない。仕事の邪魔をしたな」
教官は短く言い捨て、踵を返して準備室の扉へ向かった。
私は彼を引き止めなかった。
「いいえ。お疲れ様です、教導官」
私が背中に向かって丁寧に声をかけると、教官の足が扉の前で一瞬だけピタリと止まった。振り返ることはなく、彼はそのまま廊下へと出ていった。
扉が閉まった後、私は再び手元の資料に向き直った。
それから三週間、私は彼へ私的な連絡を一度も送らなかった。
教員室ですれ違えば挨拶をし、指導記録の確認が必要なら意見を交わす。けれど、返事を催促する言葉も、もう一度気持ちを説明する手紙も渡さなかった。彼もまた、職務に必要なこと以外は口にしなかった。
その間に、机の上の構想は少しずつ計画書へ変わっていった。
クロエさんの転向記録を王立文書館から取り寄せ、複数指示で混乱していた生徒の通常課程復帰後の成績を追った。療養を選んだ生徒については、「未修了」を失敗として処理せず、体調が戻った時に残りの課程から再開できる規定案を加えた。進路未定の生徒には結論を急がせず、三つの職場体験で分かった適性だけを成果として記録した。
財源の案も、何度も突き返された。救恤局の予算をそのまま移す案は管轄違反で却下され、同窓基金だけに頼る案は年度ごとの変動が大きすぎた。私はフェリシア様に上位教育との人員分離を検証してもらい、エルザ様には卒業生側が負担できる範囲を確認した。行政管理部から届いた集計表には、アルベルトの簡潔な注記があった。
『学院内部の補習ではなく、別会計の試験機関とするなら、各財源は補助金として接続できる。恒久移管ではなく、年度ごとの成果審査を条件とすべき』
誰か一人の善意が止まれば消える制度ではなく、成果がなければ縮小され、必要性を証明できれば次年度へ進める仕組み。私はその条件を計画書へ書き足した。
審査会前日の夕刻、すべての資料を綴じ終えた時だった。
学院の事務員が、一枚の折りたたまれた紙を机へ置いた。差出人の名はない。けれど、見慣れた硬い筆跡だった。
『残務が終わった後、渡り廊下で待つ。仕事の相談ではない。私的な時間として、話がある』
私はその一文を読み返し、静かに紙を畳んだ。
胸は速く鳴った。それでも立ち上がって彼を探しには行かない。残っていた報告書の頁番号を確かめ、決裁用の箱へ収めた。
私が言葉を重ねなくても、彼は自分で考え、自分から動いた。
ならば今度は、彼が選んだ答えを聞く番だった。




